10-4

 「そうか、今日だったか……来るの」

 杉本は古い椅子を引き寄せ、浪岡の向かいに座った。

 浪岡は肩をすくめた。出発までの準備が慌ただしく直前連絡を怠ったのは、確かにこちらも悪かった。しかし前々から決めて、一度は伝えていたことなのだ。

 「ま、忘れてるんじゃないかとは思った」

 「ごめん。長浜さんに伝えておいてよかったよ……」

 世話役夫妻が日時を覚えていてくれたおかげで、無事に到着できたようだ。本当に助かった。

 浪岡は出されたグラスを手に取った。冷えた緑茶を一気に飲み干すと、グラスを机に置く。

 年代物の古いテーブルを見つめた。そっと台の表面を撫ぜる。堅くひんやりとした感触が伝わった。

 ……まだあったんだな。懐かしい。

 この机に向かって夏休みの宿題を片づけた幼い日の記憶が蘇る。

 彼は追憶を振り払った。懐かしいものだらけでだんだん泣きたくなってきた。けれど、この村に戻ってきた目的は追憶に浸るためではないのだ。杉本に向き直る。

 「珍しく、怒鳴ってたな」

 十年来の付き合いだが、彼の怒鳴り声など聞いたこともなかった。

 「聞こえてた? 外まで?」

 「いや。おまえが一方的に怒鳴ってるのだけは聞こえたけど、何を話してるかまでは」

 「……ペインの栽培をやめるように言ったんだ。毒があることも伝えた」

 杉本はテーブルの上で手を組み合わせ、じっと指を見つめている。

 「篠沢はなんて言ってた?」

 「化学的根拠があるわけでもないでしょう、だって。確かに、いまのところ原因になる成分は見つけられていないけど、一目瞭然じゃないか、そんなの……」

 「杉本」

 どう伝えればいいのだろうか。思案しながら口を開いた。

 「あの花の栽培をやめさせたら、この村どうなると思う?」

 「どうなるって。少なくとも、花の犠牲になる人間はいなくなる」

 「村人はなにをかてに食っていけばいい?」

 虚を衝かれたように杉本は黙った。

 「篠沢がぺインを産業ベースにのせるまで、この村本当に貧乏だったんだよ。いまでも豊かじゃなさそうだけど、たぶんもっとひどかったんだ。で、なにを糧に生きてたかって言うとな、なんだと思う」

 「……花かな」

 「そうだよ。ぺインさ。同じなんだよ、昔から」

 浪岡は煙草に火を点けると、窓を細く開ける。煙が外へ流れていった。

 彼は淡々と語りはじめた。

 「その頃は山薔薇って呼んでたな。ペインなんて洒落しゃれた名前つけたのは篠沢だろ」

 それまで村人は、細々と花を売りに出ていた。周辺の村は同様に貧しく、野生の薔薇を継続的に買う者などいない。遠くの都市部まで行商し、僅かな金を得て戻ってきた。この集落では花卉がいちばんの収入源だった。

 「俺が村を出る前に、栽培の話が出た」

 自分の足を使うしかなかったものが、流通路が確保され、販売の能率が飛躍的に向上した。金をかけた宣伝のおかげで市場は拡大し、村は潤った。

 「……死と隣り合わせで?」

 「村人なりの知恵があったんだ」

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