10-3

 診療所の前で車が停められた。

 「医師によろしくね」

 世話役夫婦は笑顔を残し、去っていった。

 浪岡は懐かしい診療所を眺めた。さほど大きくない木造の小屋。記憶の中よりも小さく見えるのは自分が成長したためだろうか。それでも充分に郷愁を誘う光景だった。

 扉の前に立ち尽くす一瞬、かつての自分の姿が脳裏に蘇る。

 彼もまた芝じいが大好きで、用もないのに診療所へ足を運んでは、医師の仕事の邪魔ばかりしていた。父親と母親を立て続けに亡くしてからは、外出する気持ちも萎えて家にこもりきりになった。

 あの頃の自分を思い出すと痛ましい気分に襲われる。

 彼もまたあの花を憎んでやまないひとりだった。

 浪岡は深いため息をつくと、扉の把手に手をかけた。その瞬間、興奮気味の怒鳴り声が聞こえてきた。

 「どうしてですか!!」

 扉を開けようとした手が思わず止まる。

 「人命にかかわることですよ。あなたが指図して、思うように決めていいことじゃないでしょう……!」

 杉本の声だった。

 躊躇いながらも浪岡は右手を下ろし、立ち聞きをする格好をとってしまった。

 相手は、誰だ?

 低いトーンで何事かを告げる声が聞こえたが、怒鳴られた相手の方は杉本と違って冷静らしい。低く籠った声は、聞き取るまでには至らなかった。

 窓のそばに移動しようか迷った、そのとき。

 「あなた、患者さん?」

 突然、背後からかけられた涼やかな声に、身体がびくっと震えた。

 こわごわ振り向くと、緩いパーマを肩先で揃えた若い女性が立っていた。

 「村のかたかしら。はじめてお見かけするようだけれど」

 小首を傾げるその姿はあでやかで美しい。少なくとも浪岡の知る昔からの村人ではなかった。

 車の中で葉子に聞いた「婚約者」という声が耳に蘇り、その言葉と目の前の女性を結びつけた。

 「あなた、杉本の……」

 婚約者さんですか、という台詞は最後まで告げることができない。かわりに、悲鳴ともつかない声がひゅうっと洩れた。彼の後ろのドアが前触れもなく開き、彼の背中を直撃したからだった。

 突然の衝撃と痛みが浪岡を襲い、一瞬、呼吸すら止まった。

 彼はつんのめり、枯れ草の上に両手と両膝をついた。把手が当たったのか、背中の一部分に激痛が奔っている。

 訝しげな顔を覗かせて、診療所から出てきたのは篠沢康平だった。

 痛みに表情を歪めながら、浪岡は十五年ぶりに見る篠沢の顔を認識した。

 こいつ。

 村長の、息子だ。

 性格がはっきり表れている、高慢な表情。餓鬼の頃から厭味ったらしい顔をしていたが、大人になってもやはり気障な風体をしている。

 未だに権力者を気取っているのか。

 浪岡は篠沢を憎々しげに睨んだ。

 そこではじめて篠沢は、四つ足で自分を見上げる男を認めたらしい。

 自分が男を倒してしまったことにようやく思い至った様子で、彼に手を差し伸べた。

 「失敬。ぶつかりましたか?」

 こんな男の手は借りたくない。浪岡は篠沢の手を無視して自力で立ち上がった。背中はずきずきするけれど、我慢できる程度だ。

 「大丈夫です」

 怒りを抑えた低い声で応じた。

 篠沢は数秒の間目を細め、見慣れない顔を凝視していた。が、彼の後ろに小さな人影を認めると、すぐに関心はそちらへと向けられた。

 「綾さん」

 「篠沢さん。いらしてたの」

 恨みがましい視線を投げる浪岡を気にかける様子もなく、女性の許へ颯爽と移動する。

 「蕗へ下りるでしょう。迎えに来ました」

 「あら。どうもありがとう。支度をしてきます」

 綾と呼ばれた女性は篠沢に微笑みかけ、診療所へ入ってゆこうとした。途中で綾は浪岡を見た。

 「お怪我はない?」

 彼は気持ちを和らげて、大丈夫です、と答えた。

 「そう、よかった」

 綾は微笑し、診療所へと消えてゆく。後ろ姿をなんとなく見送った浪岡はふと我に還り、彼女に続いて診療所の扉をくぐった。

 「英次郎。出かけてくるわね」

 綾が言って玄関に取って返し、立っている浪岡に気づいた。

 「お客さまみたいよ、英次郎……、もう、なに拗ねてるのかしらあの子」

 軽い会釈を寄越して綾は出ていった。浪岡は首をひねった。

 「あの子って……。あのひと杉本の何なんだ?」

 「……え?」

 暗い部屋の片隅で座っていた杉本が、不思議そうな表情でこちらを向いた。

 「あれ……浪岡?」

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