3-1
しんとした夜の診療所に、黒電話のベルが鳴り響いた。
耳慣れた電子音とは違う威勢の良い音が聞こえるたび、杉本はどきりとさせられていた。音量を下げようにも、設定の仕方を知らない。
ふう、と息を吐き、受話器を上げる。時刻は八時過ぎ。急患の知らせでなければいいが。
「はい、芝診療所ですが……」
「英次郎?」
五十を過ぎているとは思えない、若々しい女性の声だった。
「ああ、
「そうね、お久し振り。元気でやっているのかしら」
「ええ、引っ越しても相変わらずですよ。
「そうよ、綾なのよ。綾がね、もしかしたら英次郎のところへ来ていないかと」
「は?」
寝耳に水とはこのことだ。
三年ほど会っていない親戚が、こんな辺鄙な村に自分を訪ねてくるわけがない。
あのひと、田舎嫌いだし。
「来てませんよ。綾さん、どうしたんです?」
「しばらく旅に出るって。それがね、あなたと結婚するって言って出ていったの。いつの間にあなたと綾はそんな関係になっていたのかしら」
「はあ?」
意味が判らない。
診療所のドアを叩く音がした。
続いて聞き覚えのある男の声。
「
「えと……、ちょっと、このまま待ってくださいね」
慌てて受話器を置き、ドアへと駆け寄る。来客が綾でないことを心から祈った。
重たい扉の向こうには作業着姿の中年男が立っていた。白髪混じりの温和な顔は、世話役の長浜だった。
もとは白だったのだろうが、すっかり砂埃にまみれた茶色っぽいワゴンが脇に停められている。
「こんばんは、長浜さん。お客って……」
「うん、あのひと。蕗で騒いでたから連れてきたんだ」
騒いで……?
杉本は車に目を向けた。夜の闇は深く、照明といえば扉の上に点る裸電球だけだ。彼は目をすがめて見た。汚れた窓のせいで判別しがたいが、ワゴンの助手席に座っているのは女性のようだった。
いたた、と高い声が上がるのを聞いた。
杉本は暗い気分になった。
間違いなく
「いた……っ、お尻が痛い、わ」
綾の台詞に、長浜が大きな口を開けて笑った。
「固いシートで失礼しましたね、お嬢さん」
「あら、ごめんなさい。そんなつもりではなかったの」
黄色のワンピースの裾を直しながら、綾が車から降りてきた。手には大きな麦わら帽子。
一見して三十を過ぎているようには見えない。しかし、綾は杉本よりひとつ歳上だった。
「あ、英次郎、久し振りね。荷物、取ってもらえるかしら」
呆然としている杉本に代わり、長浜が素早く綾のトランクを運び出した。
杉本は慌てて、人の好い世話役のもとへ駆け寄った。
「長浜さん、すみませんでした! 彼女を運んでいただいたうえに、荷物まで……」
「いや、この時間じゃタクシーもいやがるし。俺が通りかかってちょうどよかった」
この地区への車が出ないことに憤慨して騒いでいたのだろうか。他人事ながら顔が熱くなる。
杉本は長浜から荷物を受け取ろうと手を伸ばす。大きなトランクは、長浜から杉本の手に移った途端、地面に落下した。
「きゃあ、英次郎! トランク、汚さないでよ」
横になってしまったトランクをやっとのことで縦にする。何が入っているのか知らないが、まるで岩のように重たく感じた。
「じゃ、帰るわ。なにかあったら呼んでくれや」
「あ、はいっ。お世話になりました」
「どうもありがとう」
深々と頭を下げる杉本の横で、綾は上品に微笑む。
ワゴンが白煙を残して消えるのを見送り、杉本はトランクを転がした。
「こ、れっ、重いですよ、綾さん!」
「たった十日分の洋服よ。重いはずないわ」
涼しい顔で、彼女は診療所へと入ってゆく。
電話の途中だったことを思い出した。
トランクは後回しだ。杉本は綾の脇をすり抜けて受話器を掴んだ。
「叔母さん!」
「英次郎、待ちくたびれたわよ。切ろうかと思ったわ」
おっとりとした声が苛立たしい。
「綾さん、来ましたよ。代わりましょうか」
「あら、やっぱり! 英次郎、そういうことなの?」
「そういう……って、なんですか。僕は知りませんよ、っ、わ!」
後ろから、素早く脇腹を刺激された。
危うく落としそうになった受話器を綾の手が掴む。
「くっ、くすぐらないでくださいよ!」
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