2-4
宣子の暮らす家は上条家の隣に位置している。ただし、診療所と同じほどの遠い距離にあった。
広い家にひとりで暮らすのってどんな気分なんだろうと、弥絵はたまに思う。
「クッキーを焼いたから」
玄関先で宣子は微笑み、銀色の包みを渡してくれた。弥絵はおおげさに喜んでみせた。
一志に逢いたくて来ていることは判っているから、黙って二階の自室へ向かう。
あのふたりのそばにいると気詰まりしてしまう。どちらかひとりと一緒ならどうということはないのだけれど。
ふたり一緒のときはだめだ。自分が
お兄ちゃんはいずれ宣ちゃんと結婚するのだろう。
集落の中、若者と呼べる人間は上条家のふたりと宣子くらいしかいない。
宣子は実際の年齢よりも大人びて見えた。三年前にこの集落に来て以来、弥絵の世話もずいぶん焼いてくれた。
この上条家は古い一軒家で、ふたりで住むにしては広い。両親が亡くなってからの空き部屋には蜘蛛の巣が張っていた。
だから宣子が住むにしても不都合はないのだ。
……あたしさえ息苦しさを我慢すればいいんだ。
自室のふすまを開ける。転がっている色褪せたクッションに深く腰を下ろす。
だらしない姿勢でクッキーを頬張った。甘い。
彼女のつくるお菓子はどれも美味しい。いつか、つくりかたを教わろうかな、と思う。
粉がのどにひっかかった。水を持ってくればよかった。
そおっと階段をおりる。
コップに水を汲んで部屋へ戻る。
宣子の楽しそうな声が聞こえた。
聞こえないふりをして弥絵は階段を上がる。
いつの間にかクッションを枕にして眠っていたらしい。点けていたはずの明かりが消えていて、弥絵は暗闇の中で目を覚ました。身体には薄い毛布がかけられていた。
階下へ行くと一志はまだ起きていた。もう十一時だ。朝の早い兄は、いつもなら十時に床についている。
「お兄ちゃん、寝ないの」
「弥絵。起きたか」
何をするでもなく座っていた一志が、振り返った。
「もう寝るとこ。おまえも歯磨いてから寝ろよ。ついてるぞ」
くちびるの端を触られる。指についたクッキーの粉を一志は舐め取った。
「……はあい」
洗面所へ向かう途中、一志の声が追ってきた。
「気、遣うなよ。一緒にいていいんだぞ」
「宣ちゃんに悪いもん」
「なにが」
なにが、と訊かれると、うまく言えない。
ふたりの間に挟まれると居心地の悪さを感じるようになったのはここ半年くらいのことだ。
歯磨き粉をブラシにたっぷり絞りながら考える。
「ふたりが結婚したら、あたし邪魔だよね。ここ出て、ひとりで宣ちゃんちに住もうかな」
「はあ?」
苦手なミントの味が広がる。
「なに言ってんだ、おまえ」
歯を磨きながら茶の間に戻ると、一志が呆れた顔をしていた。
「結婚ってなんの話だ。俺はまだハタチだぞ」
反論しようにも喋れる状態ではない。黙々と歯ブラシを動かしながら
お父さんが結婚したのは二十二歳のときだったよね。たいして変わらないじゃない。
と、そんな気持ちを目に込めた。
ついでに思い出した、お母さんがお兄ちゃんを生んだのはハタチのときだったはず。
「もしそうなっても、弥絵が出ていく必要はないだろ。おまえ、宣子のこと嫌いなのか」
首を横に振り否定する。嫌いなんかじゃない。
「なら三人……じゃなくて。結婚なんてしないよ。余計なこと考えるな」
弥絵は勢いよく立ち上がった。口の中が飽和状態だった。
洗面所へ駆け込んで口をすすぐと、大きく息を吐いた。
シャツの袖でくちびるを拭う。頭の上にぽんと置かれた手にびくっと震えた。
「ばかだな。弥絵」
優しい声を聞くと緊張がほどけた。
「おまえが嫁にいくまでは、俺も結婚しないって」
「あたしには、相手いないもん。一生、誰とも結婚できないよ……、どうするの」
「なら一生ふたりで暮らせばいいだろ」
「……宣ちゃんが可哀想」
「弥絵のほうが大事」
さらりと言って、頭を撫でてくれる。
たったふたりの家族であることが無性に嬉しかった。
頭に置かれた兄の手を、とても温かく感じた。
この手だけは失いたくなかった。
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