2-3

 朝食が終わると恒例の勉強時間がはじまる。基本的に自習で、解らない部分だけを教えてもらう。

 果てしない計算問題に弥絵はうんざりしてきた。

 そっと顔を上げ、杉本医師の横顔を見た。

 彼も自分の机に向かい、なにやら書き物をしている。傍らには難しそうな専門書の山が大量に、その頭の位置よりも高く積み上がっていた。この机は、以前は芝じいが使っていたものだ。

 眼鏡を掛けた横顔を眺める。

 彼の眼鏡のレンズは、なんて薄いのだろう。芝じいは、とても厚いレンズの眼鏡を掛けていた。

 彼は「研究医」であり、実際の医療を行う「臨床医」ではないのだそうだ。この村には医者が必要不可欠なのに、「ちゃんとした医者はこんな僻地に来るのをいやがる」のだそうだ。篠沢康平が悪態をついていたのを聞いた。それでも芝じいは、頑張って見つけてくれたのだろう。この杉本医師を。

 痩躯で弱々しく、大人のくせに妙に頼りない彼を。

 ぼんやりとしていると、ふいに杉本がこちらを向いた。

 「終わった? 弥絵ちゃん」

 「あ、うん。あとちょっと」

 弥絵はびっくりして目を伏せた。

 彼のくれた厚い数学ドリルは、弥絵と同い年の高校一年生が、一年間かけて終わらせるものらしい。弥絵はこの二か月で、もう半分ほどをこなしていた。

 杉本は席を立ち、弥絵が向かっている丸太のテーブルに近づいてくる。

 弥絵は視線をノートに落とした。

 隣の椅子に杉本が座り、弥絵の手許を覗き込む。

 「判らないとこは、ない?」

 「大丈夫」

 すぐそばに来られて緊張した。彼とはまだ、仲よしとは言いがたい。

 「……ね、医師。お医者さまになるのに、本当にこんな勉強、必要なのかな」

 黙っているのが息苦しくて、弥絵は言った。

 「こないだ教わった応急処置の仕方、復習したいんだけど。あれは絶対、役に立つでしょ」

 杉本が困ったような顔で口をひらく。

 「弥絵ちゃん……。前にも言ったけど」

 次に何を言われるか、容易に想像がついた。

 「高校も行かずにお医者さまになれるわけない、って言うんでしょ」

 「医師免許取るためには国家試験にパスしないと。国家試験はこの問題の何十倍も難しいんだよ」

 「免許なくたって、ちゃんと診察できるもん。車と同じだよ」

 「どっちにしろ無免許じゃ、逮捕されちゃうじゃないか」

 杉本が苦笑いする。それが悔しくて弥絵は言いつのった。

 「この辺なら大丈夫だもん。運転してて逮捕されたことないよ」

 車の運転は簡単だ。兄に教わった。ごくたまにだが村の中心部へ買い物に出るときは、家の軽トラックを運転してゆく。

 「え?」

 杉本が怪訝な声で問う。

 「弥絵ちゃん、十六歳でしょ。運転免許、まだ取れないんじゃ」

 「だから。無免許で乗ってるの」

 「えええっ」

 杉本は身をのけぞらせる。座っていた古い椅子がきしみ、音をたてた。

 そんなに驚くことないじゃない、と弥絵はますます不貞腐れた気分になる。

 「駐在のおじさんとすれ違っても、注意されたことないもん」

 「ええええ?」

 「いい加減に慣れなよ、医師。都会とここらじゃ、法律が違うの」

 「違わないはずだよ。だって、日本なのに……」

 正しいことのはずなのに、まるで自信が持てないような口調で言う。この村と都会では常識が違いすぎることを、数か月で身に染みて理解したおかげだろう、と弥絵は思う。

 頭を抱えてしまった杉本を見て、すこし気分が晴れた。

 そう。医師は頭のいいお医者さまで、東京からやってきた大人だけれど、この村のことはなにも知らない。

 森に囲まれた山間の村で、十六年間暮らしてきたあたしの方が、ここに関しては先輩なんだから。

 医師なんか、この集落に関しては、赤ちゃんみたいなものなんだから。

 杉本より優位に立っている気がして、嬉しくなった。

 「医師も運転免許、持ってないんだよね。あたし、運転教えてあげようか。ここで車がないときついの、もう判ったでしょ」

 弥絵の家は診療所の隣だ。ただし、歩いて三十分かかるところに離れて建っている。一見してこの診療所は、森の中にぽつんと佇む古びた小屋だった。周囲に他の建物は見あたらない。もちろん弥絵の家も、ここから見えるような位置にはない。

 この集落は特に、家と家との間隔が広かった。村の中心部から離れた深い森の中に、人口六十人程度の集落を形成している地区。住人の移動手段は多くが車で、弥絵も中学生の頃、必然的に運転を覚えた。

 「いい……僕は自転車……いや、転ばないで歩く練習でもするから」

 杉本の言葉に、弥絵は吹き出した。

 「気をつけてね。医師が怪我したら、治すのあたしなんだから……」

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