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 杉本英次郎すぎもとえいじろう医師がこの村に寄留するようになり、二か月が経過していた。

 最初の週は泣き言ばかりを聞かされた。布団の湿り気がどうとか、夜が暗すぎて不安だとか。詮無いことをさも辛そうに言うので、弥絵は呆れた。

 だいたい、初対面のときにこの診療所の悪口を言われ、ずいぶん腹をたてたのだ。

 「ぼろい建物だね」と、心底驚いたように彼は言った。

 この集落で、いちばん立派な設備のある診療所を、こともなげに「ぼろい」という神経。

 許せないと思った。こんなやつの助手をするのなんて御免だった。が、悪気がないことはすぐに判った。単に彼は、都会育ちの軟弱者なのだった。

 仕方なく弥絵は再び、毎日診療所に通うことにした。こんな人間でも一応は医師なのだ。勉強を教えてもらうことにもなったし、少しくらいは目をつぶろう。地図にも載らないような村の中の集落へ、来てくれただけでもありがたいと思わなければ。

 少なくとも芝じいが帰ってくるまでは、ここで仕事をしてもらわないと困るのだ。

 ……帰ってくるよね。

 一瞬、最悪の想像が頭を巡る。あわてて考えを振り払った。

 芝じいは弥絵の教師でもあり、いずれはこの診療所を受け継ぐための医学の知識と実践を教えてくれていた。

 父親を失い、再び父親代わりの芝じいを失うのはたまらなくいやだった。

 まだ全部教わっていないのに。

 あの花のことだって、まだ。

 芝じいの健康を祈りながら、弥絵は朝食の準備にとりかかる。



 冷たい水で、手を洗う。大きな鍋に湯を沸かし、魔法瓶に注いでおく。古い型の炊飯器はタイマーの時間通りに動いており、すでに湯気を立てている。きのうの野菜スープを温めなおし、フライパンに油をひく。卵を割り入れる。じゅっ、と威勢のいい音がする。

 手際良く温かい朝食が、すぐに完成した。

 「医師せんせい、できたよ」

 声をかけると、白いシャツに着替えた彼がよろよろと姿を現し、椅子に大儀そうに腰掛けた。

 「また寝不足なの?」

 目の下にくまがある。

 「仔鼠がいるんだよねぇ……、どこかでちゅうちゅう鳴いてて、耳について、気になって」

 「いい加減、慣れなよ」

 鼠の声なんて小さなもの、意識の外に追いやるのは簡単なのに。

 揃って席に着き、一緒にごはんを食べる。ごはんの硬さは弥絵好みだ。

 「弥絵ちゃんとこの卵、美味しいよね」

 幸せそうな顔で杉本が言う。弥絵はちょっと照れた。

 「野菜も旨いしなぁ。食べ物は本当、ここに来てよかったと思うよ。むこうではろくなもの食べてなかったからね」

 都会のほうが、美味しいものは多いと思うのだが。

 でも、ここは水と空気が特別なのだと、村の大人から聞いたことがある。

 そういえば、隣村の小学校に通っていた頃、水道水の味の違いに気づいたことがあった。学校と家はそれほど遠い距離でもないのに、なぜか弥絵の集落だけは水の味が違った。どこが違うのかを説明することは難しい。幼い彼女は知っている少ない語彙で上手く言葉にすることができなかった。現在でもはっきりとした原因は判らない。元々は同じ水道局の蛇口から流れる水であるはずなのに、不思議に思った。

 そして、ペインが咲くのもこの集落だけだった。

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