2-1

 朝、七時。

 弥絵やえの頑丈な自転車が、白い空気を切り裂いてゆく。

 回る車輪が通り過ぎるのに合わせ、森の葉の表面が順番にさざめいた。

 道なき道を滑るように走る。ハンドルを小刻みに操りながら、ふと思い出した。

 ——森の中、踏み固められた車道以外を走るのは危険だよ。

 あの医師に、忠告されてしまった。交通手段について質問されたので、診療所までは自分だけが知っている近道を自転車で走ってゆく、と告げたときのことだ。

 彼は慌てた様子で言いつのった。

 あちこちの方向に根が伸びていて引っかかりやすいし、思わぬところが湿っていて滑ることもあるし、転んで枝にでも刺されたら本当に危ないよ。ただ歩いてても転ぶんだから自転車で走るなんてまるで神業だよ!

 神業って……あたしは普通にやれるのに。現にこうやって。

 失敗をしたことがないとは言わない。練習に怪我はつきものだから。ただ、それも五歳とか六歳とか、覚えていないくらい昔の話だ。

 村の中心部にある小学校や中学校に通うため、弥絵は毎日自転車に乗ってきた。慣れれば自分の手足よりも自由になる乗り物で、いまさら怪我などするはずもない。四輪の自動車よりも自転車のほうが小回りが効いて便利だ。

 自分が転んだから親切に教えてくれたつもりなのだろうが、大きなお世話というものだった。森の通り路のことなら、わざわざ言われなくても熟知している。

 歩くだけでこけるなんて間抜けなの、医師くらいだよ。いつもヘルメットかぶって歩けば?

 そんな厭味を言いたかったけれど、やめておいた。精神的に参っている彼を、虐めすぎたら可哀想だと思ったのだ。

 軋むブレーキが耳障りな高い音をたてた。

 弥絵は濡れた土の上にふわりと着地した。

 医師の住む診療所へ到着したのだ。その大きな木小屋の横に自転車を停める。

 ハンドルにかけていた竹籠を取った。中には庭で飼っている鶏の産みたて卵が五つ入っている。見栄えが良くて大きなものを選んで持ってきた。

 スタンドを立てると、鍵もかけずに入口へと向かった。

 「おはようございます」

 診療所の重たい扉を、弥絵は肩で押した。

 「おはよう……」

 台所のほうから弱々しい返事が聞こえた。思わず顔が弛んでしまう。

 そろそろ音を上げるのかな。いつ東京に帰ると言い出すのか、ちょっと楽しみだ。

 小屋のいちばん奥、小さく仕切られた台所へと向かう。

 タオルを首に掛けた寝巻姿の杉本が振り返る。

 彼は眠たそうな顔をこちらに向け、また寝坊しちゃったよ、と照れ笑いをした。

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