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 ——うん、ここだと光回線とか無理なんだって。十キロ離れた、村の中心部……えっと、蕗地区だっけ。そこに行けばなんとか、って。この集落には回線引けないらしいよ。自然破壊は一切禁止なんだろ? まあ持ち込んだやつで、なんとか解析はできるよ。現物が手に入りにくいのが難だよね、東京の方がかえって楽に買えたんじゃない? 送ってもらおうかなあ、五十本ほど。それって、逆輸入だねえ。はは、なんか可笑しいな……。

 ——そうだね。うん。じゃあ、また。

 通話を終え、杉本は受話器を置いた。

 窓の外には静かな漆黒が広がっていた。窓際に歩み寄り、彼は外を眺めた。

 本当の闇というものを、ここに来てはじめて知った。東京では真夜中でも明るかったし、どこかに他人の気配があった。深夜にひとりきりでいても、人間の発する音を絶え間なく感じていた。

 しかし、この森は世界がまるで違った。

 月の見えない夜などは、まさに漆黒の暗闇となる。聞こえてくるのも風や葉擦れの音、虫の鳴き声といった人工的でない音ばかりだ。

 暗闇が人を不安にさせることを実感した。さすがにもう慣れたけれど、はじめの頃は心から朝が待ち遠しかった。

 浪岡との電話のせいだろうか、懸念のペインの件も重くのしかかっている。先の見えない漠然とした不安。

 ……ナーヴァスになってる。早く寝るに限るかなあ。

 戸締まりを確認する。開け放して寝たところで何が変わるわけでもない、せいぜい虫が集まってくるだけだと、彼は小さく苦笑した。都会では常識の、単なる習慣だった。

 重たいドアの足下に、深紅の花びらが一枚落ちていた。

 一志はペイン栽培のビニールハウスで働いている。宣子もまた、花の出荷作業に従事していた。あの篠沢も、花卉産業の総括責任者だ。

 きっと誰かの服にでも付着していたのだろう。

 杉本は花びらを拾い上げた。

 ペインという名の赤い花。

 杉本は未だにこの地のペインを手に入れることができないでいた。

 この地区の名産品である「ペイン」は、そのすべてが特別な温室で栽培され、厳しく管理されていた。無理もない、それだけ希少で高価な品なのだ。薔薇や蘭よりも美しいともてはやされ、数年前から密かなブームになっている。

 取り扱う花屋も限定されて、実際はほとんど見かけないのに、流行っているなんておかしな話だと思うけれど。

 ペインは金持ちの道楽なのだ。

 東京にいた頃は、実家に送られてくるペインを何度も目にしていた。豪邸で開催される宴席に相応しい、鮮やかな花。

 花に興味のない彼でも、血のような深紅の色に目を奪われた。

 それは見たことのないような赤だった。

 「宝石みたいだろう。散るのが惜しいな」

 広間に飾られた花を眺める彼に、父親が声をかけた。

 「ドライフラワーかなにかに、できないのかな」

 「色が褪せる。ペインは風姿も美しいが、それを引き立てているのは色だろう。英次郎もそう思わんか」

 父の言葉に杉本は頷いた。目の前の花は、魔力を秘めているのではないかと思わせるほどの魅惑的な紅色をしていた。

 そのあとは説教がはじまったので早々に退散したが、しばらくはペインのことを考えていた。

 不思議な花だと思った。

 手の中の花びらを、研究机にそっと置く。

 それから白衣を脱ぎ、上階に設えた寝床への梯子を上った。

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