1-3
広大な森の一部である裏山と、杉本たちの住む集落との境界には、立て札と有刺鉄線が張り巡らされている。
立て札には赤いペンキの大きな文字で「危険、立入禁止」と書かれていた。看板は薄汚れて苔が生えているが、一面の緑の中ではすぐに目に飛び込んでくる。意図的に裏山へ行こうとしなければ、立て札は無視しにくい。
大きな文字の横に「崖あり、転落注意」とまで書かれているのだ。
立て札を横目で確認し、その場所からさらに三十分ほど歩く。
ようやく、診療所が見えてきた。
……小屋というかあばら屋というか。
そろそろさすがに見慣れたが、凄まじいまでの荒廃した小屋だな、と思う。屋根さえついていれば、人間はどんなところにも住めるのだと、彼は理解した。
それでも診療所の中は弥絵のおかげで掃除が行き届き、杉本は無難な毎日を過ごしていた。
携帯電話は繋がらず、インターネットも利用できない。テレビのチャンネルは五つしか選べなかったが、生きるのにさしたる支障はない。東京にいた頃もテレビはほとんど見なかった。
「
診療所の前で弥絵が叫んでいた。ふたつに分けた三つ編みが揺れている。
「もーっ、なにしてたの!」
今度は十六も歳下の少女に怒鳴られた。杉本は苦笑いをする。
「高田のおじいちゃんが薬貰いに来たの。調子は悪くないって言ってたから、いつもの薬出しといたよ」
「ありがとう」
弥絵は高校に通わず、医療助手の真似事をしている。前任の医師に叩き込まれたという技術は確かで、長いこと臨床に携わらず研究だけ続けてきた彼よりも実に頼れる存在だった。集落の数少ない住人の身体のことは誰よりもよく知っているはずだ。
集落の看護婦ともいえる弥絵は、非常にあどけない顔立ちをしている。
はじめて会ったときには小学生と間違えたほどだ。
以前住んでいた街では、制服に身を包んだ「いまどきの高校生」は、大人の女性とほぼ変わりない容姿をしていた。弥絵がそんな女の子たちと同年代なのだとは納得しかねる。
大きめのシャツを翻し、弥絵が診療所の中へ戻る。彼と一志も後を追った。
「お帰りなさい」
中に入ると竹井宣子が笑顔で彼らを迎えた。
上条兄妹と宣子はこの集落でたった三人の若者だった。よく集まる仲良しグループに杉本も交ぜてもらっている。一志の仕事が終わる夕刻、四人でお茶を飲む機会も多かった。
一志は弥絵の待つテーブルへ移った。杉本は台所へ行き、小さな冷蔵庫を開ける。冷たい水をコップに注ぐと一気に飲んだ。
息をつく。
生き返ったような気分で居間へ戻り、自分の机に落ち着いた。
絵本から抜け出たような丸太のテーブルに、兄妹は並んで座っていた。一冊の雑誌を広げて、ずいぶんと楽しそうにしている。なにを話しているのだろう。
「あのふたり、仲良しでしょう」
緑茶を運んできた宣子が、そう言って微笑みを浮かべた。
診療所の小屋の中には午後の柔らかな日射しが差し込みはじめていた。あと一時間もすればとっぷりと日が暮れてしまうだろう。
「ありがとう」
杉本は熱い湯呑みを受け取った。宣子がにこりと笑う。
いつもなら弥絵がお茶を煎れてくれるのだが、現在の彼女は雑誌に夢中のようだ。娯楽の少ない村だから、月にいちど差し入れされる日用品の箱が届く日には、集落全体が休みになるらしい。開店休業状態の診療所とはいえ、毎日通って身の回りの世話までしてくれる弥絵を、こんな日にまで働かせるつもりもない。
杉本は湯呑みを机の上に置いた。すこし冷まさなければ飲めない。
「弥絵ちゃんって、お兄さんといると、可愛いねえ」
何気なく言うと、同じく兄妹を見つめていた宣子がこちらに向き直る。
「医師、それじゃ普段の弥絵ちゃんが可愛くないみたいですよ」
「え、いや、あれ?」
そんなつもりで言ったのではない。
が、杉本の前では、彼女はあんなふうに笑ってくれない。どちらかと言えばいつでも不機嫌そうにしている。
「冗談ですよ」
慌てる彼を可笑しそうに眺めて、宣子は続けた。
「本当に仲がいいんですよ。兄妹じゃなくて、まるで、恋人同士みたいに」
ほんの一瞬、彼女の瞳に奇妙な色が浮かんだ。
不審に思い、杉本は眼鏡の奥で目を瞬かせた。柔らかく微笑む彼女はいつもの宣子だった。
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