後編


 今年の三月十四日は、平日だった。

 とはいえ佐竹と内藤の通う公立高校では、当日は入試の合格発表の日であって、一般生徒は午後から部活のある者以外、休みということになっている。

 内藤の弟、洋介は小学生のため、朝から普通に登校していた。

 もちろん、父、隆は出勤している。


 午後からは剣道部のほうに顔を出さねばならないため、佐竹は高校の制服姿で、事前に約束していた通り、午前中に内藤の家に向かった。

 もちろん、先日の学年末テストにおいて、内藤の成績があまり芳しいものではなかったというのが大きな理由だ。


 いくら特別の事情があるとは言っても、だからといって来年の大学入試が彼を待ってくれるわけではない。そもそも「これこれの理由により」と、堂々と人様に語れるような事情でないことも問題だった。

 内藤は、あの異世界へ七年もの間とらわれの身になっていた。佐竹はこれまで、そのことが彼の将来に暗い影を落とすことがないようにと、ただそれのみを念じてきた。

 自分自身の勉強や、剣の鍛錬のことはもちろんある。そちらも手を抜くつもりは毛頭ないけれども、やはり彼には、彼自身の人生をきちんと歩むために、しっかりとした基礎を作らせておいてやりたかったのだ。


「あ、いらっしゃい……」


 だと言うのに、当の内藤はと言えば、扉を開いて佐竹の顔を見るなり、赤い顔をして俯いただけだった。

 彼は学校へは行かないため、今日は長袖のうえに半袖のTシャツを重ね着してジーンズを履いた、いつもの私服姿だ。


(……しょうがないな)


 いつもながら、まことに内心の隠せない奴である。

 今日が何の日であるか、彼もずっと考えてきたということだろう。

 しかし今日は、それより先に済ませねばならないことが山積していた。


「お邪魔します」


 彼しか在宅でないことは承知だったが、一応玄関で一礼して、佐竹は彼の家に上がった。

 そうしてすぐ、先日のテストの見直しと今後の対策、そして勉強計画の立て直しに取り掛かった。





 ひと通りの計画の見直しと復習、それに関連する演習問題などを解かせていたら、すぐに午前中は終わってしまった。

 内藤は「うう〜っ」と伸びをして、ほっとしたような顔でこちらを見た。


「あ、あのさ、佐竹。午後から、部活いくんだったよな?」

「ああ」

「んじゃ、お昼、食べていくだろ? 今日は俺、作るから。パスタでいい?」

「ああ。……すまない」


 内藤家には、母親がいない。

 異世界から戻ってきてこっち、まだ育ち盛りの洋介のことも心配で、佐竹は彼に料理についても色々と伝授してきた。その結果、彼も近頃ではわりに手早くいろいろなものを作れるようになっている。

 特に昼食になるようなものは、彼が一人で作らねばならないことが多いので、佐竹も真っ先に教えたのだった。


 内藤は母親のものだったピンク色のエプロンを掛けてキッチンに入ると、ピーマンやソーセージなどを手早く切っていきながら、鼻歌まじりに料理を始めた。すでに手つきなどは手馴れたものである。

 その間に、佐竹は自分の鞄の中から、そっと例のものを取り出して、今は脱いである制服の上着ポケットに入れなおした。


「あ、そろそろできるよ。座ってて、佐竹」

「ああ、いや。茶ぐらいは淹れる」

「あ、ありがと……」


 カウンター越しに渡された急須で緑茶を淹れている間に、内藤がパスタの皿を運んできた。

 二人でテーブルにつき、手を合わせる。


「いただきます」

「あ、はい……どうぞ。いただきます……」


 何故かは知らないが、内藤がまた赤くなったようだった。



「入試……かあ」


 ぽつりと内藤がそう言って、佐竹は食事の手を止めた。

 見れば、内藤はフォークを持った手を止めて、じっと手許に視線を落としていた。


「来年の、今ごろ……俺、どうなってるんだろう……」

「…………」


 なんとも言えずに、佐竹は彼の顔をじっと見返した。

 内藤が目をあげて、こちらの表情に気付いてはっとしたようだった。


「あ、ご、ごめん……」


 なんでもないんだ、と慌てたように言って、内藤は急に大慌てでパスタを口に突っ込み始めた。

 佐竹はしばし、そんな内藤を見つめた。


 内藤の不安は、理解できる。

 そうでなくとも、急にまったくなんの勉強もできないような環境に放り込まれて、こちらに帰れる当てもなしに、七年もの年月としつきを否応なしに空白のままにされてしまったのだ。しかもは、こちらとは言語体系すら異なる世界だった。

 身体は幸い、十七歳のものとして元に戻してはもらえたが、頭の中までそうすることは不可能だった。すでにこちらに戻って八ヶ月は過ぎているけれども、彼の学力はまだまだ今年受験生になる人間としてはおぼつかないレベルを推移している。ここから普通の高校生としての学力に戻すまでに、どれほどの努力が必要になることか。


 佐竹は黙って、しばらくフォークを動かしていたが、やがて料理に目線を落としたまま、静かに言った。


「心配するな」

「……え」


 目を上げた内藤を、真っ直ぐに見返す。


「お前には、俺がいる。……心配するな」

「…………」


 内藤はびっくりしたような顔になったが、やがてちょっと唇を噛むと、くしゃりと泣きそうな目になった。


「……うん。そうだよな」





 食事の後片付けを終えて、佐竹は自分の荷物を手にした。

 午後の部活は、一時半からと言われている。


「じゃあ、後は自分でやっておけ。帰りにまた寄る」

 それはもちろん、先ほどの勉強の続きの話だった。

「あ、……うん」

「ああ、それと」


 言って佐竹は、上着のポケットに入れておいたそれを、すいと内藤の前に差し出した。


「これを」

「え……」


 小さな細長い箱を、内藤はおっかなびっくり受け取って、まん丸な目でこちらを見返してきた。

 焦げ茶色の包装紙に、ブルーのリボン。

 内藤の耳が、いつものようにぱあっと染まる。


「あ、……ありがと。開けていい……?」

「ああ」


 出てきた少し高価なシャープペンシルを、内藤はひどく嬉しそうに見つめた。

 全体に黒くて無骨な感じはあるが、手が疲れにくいことと、書きやすいことを考えてじっくり選んだものだった。

 玄関先で、内藤が泣きそうな顔でにこにこ笑った。


「すげ……かっけぇ。……うれしい。ありがと……」


 言ったそばから、ぽろぽろっとその頬に雫が零れて、佐竹は嘆息した。

 思わず手を伸ばし、彼の頭をぐしゃぐしゃ掻きまわす。

 しかし、そんなことをしたせいで、彼の涙は余計に止まりにくくなってしまったようだった。


「こんなことで泣くな。……もうすぐ、洋介が帰ってくるぞ」

「うん……うん」


 内藤はごしごしと、必死に手の甲で目元を拭っている。

 そんな彼を見ていたら、佐竹はまた、自分の中に抑えにくい衝動が湧き上がってくるのを覚えた。


 このまままた、その首を抱き寄せたい。

 いまその唇に触れたらきっと、涙の味がするのだろう。


 それから、……それから。


「…………」


 しかし、佐竹は先ほど彼の髪に触れた手をぐっと拳の形にして、体の横に下ろしたままにしていた。


 今、家にはだれもいない。

 これ以上彼に触れたら、越えてはいけない一線を越えてしまいそうな気がした。

 佐竹はぎゅっと眉間のあたりに力を入れると、ぐいと振り向き、玄関に向かった。


「あ。……佐竹」


 背後から、少し慌てたように内藤の声が追いかけてきた。

 佐竹はそちらには背を向けたまま、少しだけ顔を振り向けた。

 こちらの気も知らないで、内藤は「もう帰っちゃうの」と言わんばかりの、捨てられた子犬みたいな目でこちらを見ていた。

 佐竹はさらに、眉間にきざんだ皺を深くした。


(……勘弁しろ。)


 どれだけこちらの忍耐を試せば気が済むのか。

 いや、いったいこんなことが、あとどのぐらい続くのか。


 彼の父は、あの時この自分に向かって「成人するまでは」と釘を刺した。

 付き合うこと自体、許してもらうのは困難な状況だった。

 だから、それを了承しないという選択肢など、自分にはなかったのだが。


 しかし。


(あと……二年か)


 考えると気が遠くなる思いがするので、普段は考えまいとしているというのに。

 こんな彼の顔を見せつけられると、嫌でも考えずにはいられなくなる。

 そして内藤は、相変わらずこちらの内面になどは無頓着だった。


「そ、……その。こないだっ、お礼、してくれただろ?」

「……礼?」


 怪訝な目で見返せば、内藤は耳だけでなく、もう首まで真っ赤にしていた。

 びきびきと音がたちそうなほど、体を強張こわばらせているのがわかる。


「さ……ささ、『先払い』って――」

「……ああ」


 そこで初めて、佐竹は一ヶ月前の自分の行動を思い出した。

 そして危うく、この場で思い出すにはあまりよろしくない感覚まで思い出しかけて自制する。


 真昼間の、彼の家。

 まだ低学年の彼の弟は、すぐにも帰宅するかもしれないのだ。

 その弟は、もちろん自分たちを「ただの友達」だと信じて疑ってはいない。

 それは彼の父と、彼自身の望みでもあったはずだ。


「だ、だから……その」


 だというのに、内藤は先ほどの小さな箱を胸に抱きしめるようにしながら、こちらに一歩、二歩と近づいてきている。


「い……いつも、して、もらってばっかだから……その」


 すこし低い位置から、ちらりと見上げられる。

 赤い顔に、潤んだ瞳。

 彼の言わんとすることは、明白だった。


(……やれやれ。)


 佐竹は遂に、心の中で白旗を上げた。


 こんなことをまだ、あとどのぐらい耐えなくてはならないのだろう。

 自制心には自信があるつもりだったが、これは相当、手を焼くことになりそうだ。


 ……無論、耐えて見せるけれども。



「……早くしろ」



 そして黙って、下から触れてこようとする、

 彼の震える唇を待った。

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白き日に つづれ しういち @marumariko508312

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