part3:The Word of The Story.

 僕は趣味で小説を書いていた。

 もともと昔から本を読むことは好きだったのだ。ジャンルと国に関係なく、節操なく読み漁っていた。

 そして、僕が読者から書き手になるきっかけになった作家が、千代賀ゲンリだったのだ。

『夜の水晶体』。この小説が僕が初めて読んだ千代賀ゲンリの作品だ。この作品で、僕の世界はなんの誇張でもなく広がった。

 世界というのはドット絵のようなものだと僕は考える。ミクロな視点の世界は個人であり、個人のなかにも様々な色が包括されていて、それが個性になっているわけだ。

 そして、マクロな視点の世界は一定の個人の集団、つまり共同体になる。そこでは、個人の様々な色は見えなくなり、集団としての色が顕れる。当然だが、この色をつくっているのは個人だ。この集団としての色が共同体の価値観、文化、常識と呼ばれる世界観になる。

 要は、解像度の問題なのだ。解像度が低いときに、最大公約数的に顕れる色が一般的な意味での世界であり、高ければ、個人の内世界が顕れる。

『夜の水晶体』の、千代賀ゲンリの言葉によって、僕の世界には今までにない色が混ざった。

 僕はその瞬間、困惑した。何故なら、それは僕が今まで赤だと思っていた色を青と呼ぶことに等しかったから。そしてなによりも困惑したのは、僕はその結論に至る理由に納得してしまっていたのだ。

 僕の言葉と千代賀ゲンリの言葉は、矛盾しながらも辻褄が合っていた。

 僕は書かずにはいられなくなった。言葉が持つ、対極にある概念を包括する可能性に魅入られたのだ。当然、そのときは自分の衝動を言語化できていなかったけれど、僕は熱にうかされるように、拙い物語を書き続けた。

「そして、僕は博士の小説講座を受講したんです」

 僕は自分語りに一区切りをつけた。千代賀博士は柔らかく微笑んだ。

「やはり、きみはあの場にいたんだね。計画に協力してもらう人間を選ぶにあたって、小説を書いたことのある人間であることは、第一条件だったんだ」

「講座にいた博士は、ずっと世間話をしていましたね」

「そうだったね。ただ私ははじめに、一つの言葉は一つの世界だ、と言った気がする。たとえば、花という言葉を考えよう。花という言葉を聞いたとき、頭のなかでバラを思い浮かべる人もいれば、ガーベラを連想する人もいる。それだけじゃない。花畑を想う人もいれば、そこからさらに広がって希望や幸福を考える人もいる。さらに、バラと言っても種類は様々だし、個体差もある。枯れたバラや瑞々しく命を表現するバラもある。そうやって、一つの言葉から無限とも思える思考の展開を人間は行うことができる。つまり、どんな言葉であっても受け手が相応の姿勢で受け取れば、必ず糧になる。大切なのは考え、発展させることだ」

 そうだ。僕は講座でそれに気づくことができた。その考え方は僕の考える世界観と似ていたから、乾いた地面に水が染み入るように、僕の創作の糧になった。

 ただ結局、趣味は趣味の範疇を超えることはなかった。そこにはありふれた挫折があったわけで、最終的に僕は周囲と同じように定職に就いた。それが言葉を不自由にする仕事だったということは、とても皮肉な話だ。

 博士は続ける。

「私は具体的な創作論なんて話せないから、そういう観念的なことをしたのだよ。まあ、戯言じみてはいるが。ちゃんと課題作品の指導はやったが、あれも表現の正誤を指摘したぐらいだったね」

『言の葉に宿る魂』とは博士が講座の例題の一つとして紹介した未発表作品だった。結局、公に発表されることはなかったのだが、僕ら講座に参加していた人間はそれを読んだ。内容が〈言葉〉を連想させるものだったから、僕はさっき反応したのだ。博士は僕の反応を見て、僕が講座に参加していたことに気づいたのだろう。

 博士は思い出話とは口調を変えて話し始めた。本題に入る、と感覚的に判断する。

「実を言うとね、私がやろうとしていることの基盤は、さっきの言葉の考え方なんだ。言葉は、受け取った人間の自由な思考を誘発する。これは〈言葉〉にはできないことであり、政府が防ぎたいことだ」

 かつての統制は、力に頼ったものにならざるを得なかった。それは誰も人の思考のなかには入っていけなかったからだ。けれど、〈言葉〉はそれを自然な形で可能にした。

 博士は静かに、そして力強く言う。

「だから、私たちは言葉で構成された創作物を人々に広めて、彼らの自由な思考を促す」

 博士の手は強く握り締められていた。僕は頷く。

「しかし、ほとんどの文字メディアは検閲を受けている。まずは1番安全な方法で人々の自由な思考を誘発したい」

「検閲を通さないで、広めるのですね」

「そうだ。今現在も、アンダーグラウンドな文学は存在している。政府は違法だとしているが、実際は反社会的な創作が行わない限りで秘密裏に認めている。政府は内部でそれらを存在しない文学ELLと呼んでいる。現在、ELLはいくつかのグループに分かれて活動しているが、そのどのグループも政府と通じていた。私たちはそのどこにも属さずに活動をする」

「僕らが活動していることが露呈する可能性は……」

「ないとは言えない。が、可能性は低いとみていい。政府は〈言葉〉のよる統制には力を入れているが、監視カメラなどについてはそこまで過剰ではない」

 知らなかった。けれど逆に言えば、今まではそれだけ〈言葉〉の力が絶対だったのだ。

「非常にアナログな方法だが、街中の様々な場所に私たちが書いた文章をひそませる。それを読んだ人間は〈言葉〉ではなく言葉を起点とした自由な思考をするはずだ。その数が増えていけば、この世界を変えようとする人間が必ず現れる」

 気の遠くなるような方法ではあるけれど、この方法以外にやり方がないとも思う。なにより、1番安全な方法なのだ。

「僕のやることは、小説を書くことですか」

「そうだ。長いものを書く必要はない。その代わり、できるだけ多くの作品を書いて欲しい」

「わかりました」

 かつて、千代賀博士の言葉は僕の世界に混ざり合い、僕の思考は広がって、僕は言葉を紡ぎだした。そしてこの計画によって、僕の言葉は〈言葉〉に支配された人々の世界に混ざり合う。それは、人々の思考を広げ、世界に自由をもたらすことになる。

 言葉はまるでウイルスのように人の精神を伝わって、人を変えていくのだ。

 なにかが僕のなかからこみ上げてくるのを感じた。僕は知っている。これは、あのとき感じた衝動だ。『夜の水晶体』を読んだときと同じ衝動。なにかを残そうとする意志。

 様々な物語のアイデアが浮かんでくる。

 僕は千代賀博士を見た。博士は僕の心象を読んだように、深く頷いた。



 部屋のネットワークは外部から独立しており、独自のシステムが構築されていた。僕はパーソナル・コンピュータというものを生まれて初めて見た。見るからに持ち運びに不便そうだった。

 僕がそう言うと、千代賀博士は「これは当時、持ち運びに便利という理由で普及したものなんだよ。実際、机の上に設置したら動かせないタイプのものもあった」と言った。

「これは、なんですか」

 僕はパソコン――という略称らしい――の近くに置いてある白い箱のような機械を指して訊いた。

「これはプリンターだよ。パソコンで入力した情報を紙に文字として出力するために機械だ」

 パソコンとプリンターは無線で繋がっているという。まるで博物館の展示物を扱っているようで、なんとなく身構えてしまう。

 僕が物語を書いている間、博士はパソコンから物語のデータをプリンターで続々と出力していく。紙が足りなくなると、イリカが補充した。

「どこでこんな紙を手に入れたんですか」

 僕の質問に博士は笑いながら答える。

「実は、自宅に大量に保存しているんだ。こういう懐古的なものを集めるのが趣味でね。勿論、ここから足がつくことはないと思ってもらっていい」

 雑談はその程度で、僕はひたすら物語を書いていった。パソコンも慣れれば、キーボードのぱちぱちという音が心地よくなるようになった。

 午前4時くらいに、1作目が完成する。A4と呼ばれる紙の寸法で二枚分の量だったので、1枚の紙の裏表に印刷することにした。寓話のような物語で、暗に政府を皮肉ったものだ。プリンタで紙に出力すると、僕の物語が100枚に増えた。その紙は少しだけ温かく、僕は形になった物語に感動した。

 博士がルームホログラムを解除すると、窓から昇り始めた太陽が見える。目がしばしばして、身体が硬直していた。僕は伸びをする。心地よい疲れだった。



 千代賀博士の計画に参加したあの日から、1ヶ月が経っている。僕はいつものように、デバイスに送られてくる文章を〈言葉〉に改変していた。仕事とはいえ、この行動が人々から自由を奪っているとわかった今、罪悪感なしに行うことは難しい。僕は気を紛らわすために、計画について考えることにした。

 あれから、僕は夜になるたびにあの部屋に行った。建物は骨董品屋にカモフラージュされていて、街の外れにあることを1日目の帰りに知った。はじめはイリカに脳内電話ヘッドフォンで案内されなければ辿り着けなかったけれど、今ではもう慣れたものだ。

 そして、僕は数え切れないほどの数の物語を書き、街中にひそませた。千代賀博士の言葉、僕の言葉が描いた願いはどれほどの人に届いただろうか。博士によると、物語という形式は人に影響力を与えやすいという。それは読者が自分から言葉に心を寄せやすいからである、と博士は言った。納得できる話だと思う。

 それと、直接計画とは関わりがないけれど、イリカとずいぶん仲良くなった。なにせ、四六時中話をしているのだ。それは僕が再び〈言葉〉の支配下に置かれないようにするためではあるのだけれど、そういうことを抜きにしても、イリカとの会話は楽しかった。彼女が博士を主人であるということをだけでなく、一人の人間として尊敬していることもわかったし、僕もそれに共感した。

 僕らのオフィスは〈言葉〉のオルタナが少ない。ただ、デバイスには〈言葉〉が表示されているので、僕がそれを認識するたびにイリカが脳内電話越しに無力化してくれている。

 午前の仕事を終え、僕は読みかけの『一九八四年』を読むことにした。ただし、以前に読んでいた『一九八四年』は全編が〈言葉〉によって再構成されたものだったらしく、今読んでいるのは、博士がくれた通常の言葉で書かれた『一九八四年』だ。以前のものは、政府と似た統制を行っている物語内の党に好意を抱くように、そして、それに反対する主人公は嫌悪の対象になるように〈言葉〉が働いていたらしい。今では、ELL以外の文学作品すべてに政府に都合のよい感情を抱かせるための〈言葉〉が適用されているという。

 読み始めようとすると、誰かに肩を叩かれた。

 振り向くと、那珂川ナカガワタイヂがニコニコしている。彼は僕の後輩だった。

「先輩、読書ですか」

「まあな。オーウェルの『一九八四年』だ」

「ああ。ぼくも読みました。痛快なお話ですよね」

 痛快、か。タイヂが読んだのは〈言葉〉が適用されたものだったのだろう。たしかに、党を正義として見ていれば、そう読めるかもしれない。ただ、オーウェルの描きたかったものはそういうものではない気がした。いや当然、どんな感想を持とうが自由なのだけれど。

 と、そこで僕は思う。違う。タイヂは自由に思考したわけではない。小説の〈言葉〉に影響されただけだ。

 タイヂは僕以上の読書家だった。そして、とても素直な読者でもあった。面白いと思った小説や作者にはついていけないほどのめり込み、小話を僕に何度もする。けれど、今思うとそんな姿も虚しい。そのすべてが〈言葉〉に依るのだから。僕は純粋な後輩が憐れになった。

 けれど……、と僕は考える。

〈言葉〉が発見される前まではどうだったのだろうか。

 当然、政府のような統制は行われていなかっただろう。けれど、やはり言葉を使う側はなにかしらの意図を持っていたのではないか。

 たとえば、かつて様々なテレビ局が放送していたニュースは、現実の一部を切り取っていた。それはテレビというメディアである以上仕方のないことだと言える。けれど、現実を切り取るのは人間である。意識的であれ、無意識であれ、その人間や組織の意図がそこに影響してしまうだろう。その情報はまるで客観的視点であるかのように不特定多数の人間に伝達される。そして、人々はその改変された現実を真実だと思い込んで思考するようになる。

 あるいは、かつてTwitterというサービスに代表されるソーシャルネットワークサービスSNSが流行っていたという。同時期に既存のメディアの信頼性が大きく下がり、SNS上では数え切れない人々の意見が発信された。そんな情報が氾濫する世界で、人は情報の正確性に関係なく、より感情に訴えるものが強い影響力を持つようになったという。そればかりか自分に都合のよい情報だけを選択し、それを真実だと思い込む人間が増えたらしい。この状況を当時の人々は脱・真実ポスト・トゥルースと呼んだ。

 これらの状況に置かれた人間には、はたして自由意志があったのだろうか。〈言葉〉ではないけれど、〈言葉〉のようなものに人の自由意志が奪われているのではないか。

 いや、そもそも自由意志とはなんだ?

 いきなり、タイヂは悪戯っ子のような笑みを浮かべて、顔を近づけてきた。そこで僕の思考は止まる。そして、タイヂは小さな声で言う。

「先輩、面白い小説教えてあげましょうか」

「どんなやつ?」

「まだどんな話かもわかりません」

 僕は思わず笑う。タイヂのこういうところに僕は好感を持っていた。良くも悪くも彼は子どもなのだ。

「あらすじもわからないのに、面白いと言っているのか、お前は」

「ええ、そうです。なにせシリアルを買ったら、その箱のなかに紙で入っていたんです」

 僕はどきり、とする。

 それは、僕がいつか入れた物語だった。そして、それを書いたのも僕。

「……それは、面白いな」

「この時代に紙なんていうものに書いている点も傑作です。それでぼく、もしかしたら、まだたくさんあるんじゃないかと思って、色々探してみたんですよ。そうしたら、山ほど出てきました」

 それからタイヂは自分が物語を見つけた場所をまくし立てた。僕が隠した場所でないところもあったので、そこは千代賀博士やイリカがやったのだろう。

「どうやら、一枚一枚で話は独立しているようです。これは宝の山と言っていいですよ」

「読み終わったら、感想聞かせてくれよ」

「勿論です!」

 そこで、会話は終わった。昼休み終了のアラームがお互いのオーグに表示されたのだ。

「じゃあ、楽しみにしてるからな」

「ぼくが今、1番楽しみですけどね!」

 そう言って、タイヂは自分のデスクへ去っていった。

「僕も楽しみだよ」

 僕は珍しくそう独り言を呟いた。



 その日の夜、僕が例の部屋に入ると、千代賀博士がいつもの席に座っていた。

 その表情を見て、僕は悟る。

「……なにか、問題があったのですね」

 博士も、彼の隣でいつものように立っているイリカも、なにも言わない。

 けれど、二人の様子からよくないことが起きたことは容易に想像がついた。





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