part2: The Word of The Disengagement.

 覚醒した僕は、夢を見ているのかと思った。

 つまり、混乱していた。

 目のまえに、千代賀ゲンリが立っていたのだ。

 千代賀ゲンリ。

〈言葉〉を発見した言語学者。そして、僕が憧れた作家。

「……千代賀ゲンリ、博士ですか」

 まだ半分霧かかった意識で僕はそんな間抜けな質問した。そんなことは、自明なことだ。

 年齢を重ねてはいた。けれど、その風格は衰えていない。身体は老人だけれど、目が老人のそれではなかった。まるでなめらかに研ぎ上げた刃物のような瞳。表現がおかしいことはわかっているけれど、そうたとえるのにふさわしい瞳だった。

 僕の問いに頷いてから、千代賀博士は言う。

「手荒なことをして、悪いね」

 静かで、深海の水みたいに落ち着いた声。

 やっと意識が明瞭としてくる。コンクリートの打ち放しの部屋で、唯一の窓から入り込む月の光だけが光源だった。月光を背景に、博士は立っている。周りを見回すと、部屋の隅に女性が一人いた。まるで影そのものであるように、影のなかに佇んている。

「場所の特定はできないよ。ルームホログラムを適用している。窓からの風景もつくりものだ」

 たしかに僕は部屋の床に寝転がっているけれど、身体が感じる感触はコンクリートではない。冷たさも無機質さもないのだ。感触から、なにも感じられない。普及している素材は、だいたいそういう無感情なものだ。

 どうでもいい思考は現実逃避の証だ。僕は思考をやめて、千代賀博士を見つめる。彼はこの部屋によく馴染んでいた。

「僕を誘拐して、なにをするつもりですか」

 やけを落ち着いているのは、この現実のせいだろう。拘束されていないけれど、抵抗する気も起きなかった。様々な要因がこの状況から現実感を奪っている。

 博士は言う。

「ある計画に協力してほしい」

「計画?」

「〈言葉〉に支配された世界から、自由を取り戻す計画だ」

 僕は、一瞬でこの白髪の言語学者を失望した。

「なにを言っているんですか。この社会は今とても安定している。それは〈言葉〉のおかげです。それは〈言葉〉を発見したあなたならわかっていることでしょう。それに、こんな状況で協力を求めるなんて……」

 千代賀博士は瞳に悲しみを含ませたように見えた。

「そうか。まだ〈言葉〉の下にきみの思考はあるようだね。……イリカくん」

 博士が影に溶け込んでいた女性を呼んだ。名前はイリカというらしい。綺麗な人だった。

 わかりました、とイリカは言って立ち上がる。雫が一滴落ちたような声だった。小さな声だけれど、やけに響く。

「〈言葉〉が人の思考を縛りつけていることは知っているね」

 博士が訊いてきたので、はい、と答えた。そして、僕は続ける。

「けれど、〈言葉〉が思考を制御することで社会は安定しました。〈言葉〉は正義です」

 僕はあえて、制御という言葉を使った。縛りつけている、では不適切だと思ったのだ。

「〈言葉〉は正義、か。それは検閲局内部で使われている標語だね」

「そうです」

「少しのあいだ、彼女と話をしてくれないか」

 博士はイリカを見て、そう言った。

「どうしてですか」

「話せばわかるよ」

 僕は不承不承という態度を隠さずに起き上がって、イリカという女性と向き合った。

 イリカをよく見ると、妙な違和感があった。彼女が僕に訊ねる。

「あなた、名前は?」

「……弐島ヨクト」

「ヨクト」

「はい。あなたはイリカ……さん」

空木ウツギイリカ、私の名前」

「あなたは千代賀博士のなんなのですか」

「私は博士に仕えるアンドロイド」

 違和感の正体はそれだったのだ。機械の身体に人工知能を搭載したアンドロイド。数は少ないけれど、〈言葉〉研究の裏で細々と開発が進んでいることは知っていた。

「従者、ということですか」

「従者だが、ボディガードでもある。そして、計画遂行のための実働部隊の一人でもある」

「実働部隊?」

「そう。あなたをここまで連れてきたのは私。あなたを気絶させたのも、私」

 あまりにも簡単に言われてしまったので、返す言葉がなかった。僕は代わりにくだらない質問をする。

「どうやって気絶させたんですか」

 まさか手刀で気絶させたわけではないだろう。首のうしろに痛みもない。

 イリカは答える。

「昔、軍で使用されていたノックアウトシールを使った。あなたの居場所はメッセージを書いた紙に付着させていたナノレベルの発信機を利用して知った」

 発信機はわかるけれど、ノックアウトシールについては存在自体を知らなかった。軍の情報はすべて開示したと政府は言っていた。聞き逃したか、忘れているのだろうか。

「どうして僕はあなたと話をする必要があるのですか」

「私が話す言葉は〈言葉〉による制御を解除できる」

「は?」

 にわかには信じられないことだった。

 イリカは続ける。

「まず、〈言葉〉の説明をしよう。通常の言葉は一種の電気信号として脳に伝達され、そこで人間の価値判断に関わる。〈言葉〉は価値判断で最も優位に立てるようなコードを伴って、判断を行っている脳の部分に直接伝達される。当然、その場所は価値判断の種類によって異なる。通常の言葉では、その他の要素が付随してしまって判断が不安定になる。たとえば、発言者に対する先入観だ。好意を持つ人間の言葉は、それだけで価値があると判断されやすくなる」

「けれど、僕らは検閲で好意度指数GDIも操作しています」

 僕は言いながら、仕事上の守秘義務を破っていることに気づいたけれど、不思議とそこに罪悪感はなかった。

「あなたたちが操作しているのは、言葉自体が好意を持たれるかどうかのパラメータだ。発言者に対する先入観は言葉自体の力に上書きされる形で、人間の価値基準に関わる。たとえば、いくら正しいことを言っても、言っている人間が嫌いな人間ならば、それを人間は受け入れがたいものだと感じるだろう。基本的に、人間の価値判断の基準は、言葉だけでなく、その他の因子も関与している」

「〈言葉〉はそうではない、と?」

「いや、〈言葉〉は基本的に発言者を政府だとしていて、その発言者に好意を持たせるような構造をしている。……話が少し逸れたな」

 そう言って、イリカははにかんだ。

 思わずどきり、とした。僕には、その表情がアンドロイドのものとは思えなかったのだ。

「さっき言ったように、〈言葉〉は最も価値判断に関われる形で人の脳に伝わる。私の人工脳は任意の人間の言語伝達の様子をモニタリングできる。それは外言語と内言語の区別なく可能だ。そして、私の発する言葉に内在する〈言葉〉は、その人間に影響している〈言葉〉と対極のパラメータに設定されている。私の〈言葉〉は、〈言葉〉の影響力を相殺するのだ」

「じゃあ、政府を崇拝するように強制する〈言葉〉がある人間に影響しているなら、あなたは政府を嫌悪するようなパラメータの〈言葉〉で、同じことを言うのですか」


〈政府は正義である〉


〈政府は正義である〉


 ただ、この文章から想起する感情は対極である、と。

 イリカが口をひらく。

「そうすれば簡単だが、そうする以外の方法もある。一言で相殺するのではなく、会話を通して総合的に相殺することもできる。私が今、あなたとしている会話が、それだ」

 僕はそこで自覚する。

 僕は、自然に政府に対して批判的な感情を抱いていた。

 つまり、政府への盲目的な崇拝を促す〈言葉〉が殺されていったのだ。イリカとの会話によって。

 そんな思考を政府に僕らに強制していたのだ。

 そして、僕の思考は自由になった。

「効果が出たようだ」

 イリカはそう言って、千代賀博士を方を見る。博士はなにも言わず頷いた。

「どうやって、僕の脳をモニタリングしているんですか?」

「きみが気絶しているあいだに、ナノマシンを飲んでもらった。加えて、私の〈言葉〉の効果が継続できるように、私と通信するためのナノマシンも飲ませた」

 やられ放題だ、と思うと笑いがこみ上げてくる。なんだか楽になった気がした。今まではずっと冷たく深い水のなかにいて、そこからやっと陸に上がってこられたような感じ。

「面白かったのか」

 笑いをこらえている僕に、イリカが不思議そうな顔で訊いてくる。

 答えようとすると、今度は視界が滲んだ。泣いているのか、と思ったときには涙は頬を流れ、僕は嗚咽していた。

「悲しいのか」

 いよいよイリカは困った様子だった。

 なんと言えばいいのだろう。

 嬉しい。悲しい。安堵。恐怖。

 そのすべてが混ざり合って、僕の感情は涙という形で溢れた。

 たしかなことは、僕は放たれたということ。

「……人間とは、複雑なものだな」

 イリカが独り言のように呟いた。



 僕が落ち着くのを待ってから、千代賀博士が話し始める。

「ヨクトくんが〈言葉〉の支配から解放されたから、本題に移ろう」

「〈言葉〉によって奪われた自由を取り返す、でしたよね」

 博士は頷く。博士は椅子に座っていて、僕も博士の正面の椅子に座るように促された。言われた通りに座る。イリカは博士の隣に立っていた。

 僕は思いつきを口にする。

「……僕にやったみたいに、イリカさんが内蔵しているプログラムを利用すれば、すぐに実現できるのでは?」

「いや、そのためにはナノマシンをすべての人間に飲ませなくてはならないし、相当の時間とコストがかかる。つまり、現実的でない」

 博士は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「イリカのプログラムは私自身と仲間になってくれそうな人間を〈言葉〉から解放するためにつくったんだ」

「一つだけ、質問していいですか。もしかしたら、失礼にあたる質問かもしれません」

 僕は少し緊張しながら訊いた。訊かずにはいられなかった。

「どうして〈言葉〉をこんな形で悪用されてしまうことを許したのですか」

 夜の底みたいな沈黙が部屋を支配した。

 博士はちくちくとキルトを縫うみたいに話し始めた。

「……私は言葉が人に与える影響を研究していた。はじめはまあ、それなりの規模の研究だったよ。しかし、あるとき〈言葉〉の可能性のようなものを見つけた。そのタイミングで国から予算が出て、研究に携わる人間が増えた。そして、私は〈言葉〉の断片を見つけたんだ。……思わず震えたよ。本当の発想というものは、思いついた瞬間に歓喜することはないんだ。ああいうのはフィクションの話だ。私は反射的に疑った。そして、来た道を全速力で戻るみたいに、見つけた断片が幻でないかを確かめた。確認が済んで、私はその舗装された道を歩きながら、可能性を考えた。そこで僕は恐ろしくなった。今のような世界になる可能性が見えたからだ」

「なら、どうしてこんなことに」

「私は研究結果を隠すことにした。これはあけてはならないパンドラの箱だったと、あけてから気づいたんだ。ある意味で学者という生きものは盲目だ。自分が先頭であるから、自分が進む先に破滅があっても気づかない。当然、誰が教えてくれるわけでもない」

「隠せなかった、ということですか」

「そうだ。本当に不甲斐ないことだがね。言い訳をするなら、あまりにも多くの人間が関わり過ぎていた。今となっては、誰が政府に情報をリークしたのかすらわからない。なにせ、私が知らないあいだに〈言葉〉は統制に利用されていたのだからな」

 博士はそこで大きく息をはいた。そして、続ける。

「政府は私が研究を進めることに反対すると考えたのだろう。政府は私が干渉できない場所で研究を進め、〈言葉〉のシステムを構築した。そして、私の知らない内に〈言葉〉は広がった。〈言葉〉はその存在を人間に認知されることのないまま、その思考を支配する。私も例外ではなかった。私もきみたちのように、いつの間にか政府を崇拝していた」

 僕は血液の温度が2、3度下がったような気がした。

 発見した人間さえ、その存在に気づけないまま支配下に置かれるのだ。

「気づいたきっかけは、自分が昔書いた小説を読み直していたときだ。その小説は〈言葉〉の可能性に気づいたときに書いたものだった」

 僕の脳内で、壇上に立って論説を行う千代賀ゲンリの姿がフラッシュバックする。思わず口をはさんでしまう。

「『言の葉に宿る魂』ですか」

 博士は口だけで笑った。

「そうだ。やはり、きみにはこの計画に参加してほしいな。きみはその第一条件を満たしている。……まあ、その話はあとだ。私は『言の葉に宿る魂』を読んだ。当然、それは〈言葉〉ではなかったから、私の思考はその小説を足がかりに進んで、現実に気づくことができた。きみが『welcome』というメッセージを足がかりに自由な思考をしたようにね」

 そのときの博士の心情とはどんなものだったろうか。自分の研究や発見というのは、ある意味で我が子のようなものではないだろうか。それが自分の感知できないところで怪物のように成長し、自分の首を絞めていたことに気づくなんて。

「そこで私は〈言葉〉からなるべく遠ざかる生活を送って、イリカのプログラムをつくった。まあ、今はシステムが完全に網を張っているから、〈言葉〉から遠ざかることもできないだろうがね」

 これが私の今までだ、と博士は言って締めた。

 僕はいつの間にか息を止めていた。思い出したように呼吸を再開する。

「どうやって、人々を〈言葉〉から解放するのですか」

 僕は訊く。

 博士が僕の目を見つめてきた。

 いや、博士ではない。

 千代賀ゲンリが、僕を見つめている。


「きみに……、小説を書いてもらいたい」


 僕のなかで、ある映像が再生される。

『千代賀ゲンリの小説講座』という看板が掲げられた建物に僕は入っていく。

 僕はここで小説を書くということを、千代賀ゲンリから学んだ。













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