part4:The Word of The Brain.

「なにが……あったんですか」

 僕は沈黙に耐えられずに、千代賀博士に訊ねた。

 博士は目を伏せて言う。


「……私たちの方法では、望む結果は出ない」


「どうして?」

 無意識に僕は博士の方向に一歩踏み出していた。

「今日、私は多くの人間に私たちが書いた文章を一つか、二つ読んでもらい、感想を訊いた。……彼らは一様に、なにも感じなかったと言った。文字は読んだ。しかし、そこからなにも思うことはなかった、文字が並んでいることしかわからなかった、と」

「……し、思考力が低下しているということですか」

 身体から力が抜けて、僕は倒れ込みそうになる。なんとか体勢を立て直す。怖かった。理屈で説明できる恐怖ではない。もっと、初源的な恐れだ。

「私見だが、〈言葉〉はとてもわかりやすい。非常に簡単に〈言葉〉は人に任意の感情を抱かせる。そして、そんな状況を長く経験した人間は、普通の言葉の影響力に対して鈍くなるんだ」

「〈言葉〉に慣れすぎた人間は、普通の言葉からなにも思考できなくなる……」

「……この可能性を考えなかったわけではなかった。しかし、あまりにも……あまりにも早い。それほどに〈言葉〉の力が大きかったということだ」

 暗澹とした気分だった。

 つまり、〈言葉〉を使えば使うほど、その支配力は強まっていくということだ。しかも、その力は普通の言葉の力を侵食していく。

 これからどうするのですか、と訊こうとして、僕は口をつぐんだ。なにができるというのだろうか。唯一の自由の道である、言葉は通じないのだ。

 オーグに通知が来た。タイヂからのメールだ。〈言葉〉の影響を相殺するために、同じ文章をイリカが脳内電話ヘッドフォンを通じて読む。

『例の紙の物語、50作品ほど見つけることができました。最近は、こればかり読んでいます。ただ、先輩に感想を言うことはできないです。理由は言えません。本当にごめんなさい』

 僕はタイヂが落ち込んでいる姿を想像する。自分が大好きな物語という文字列から、なにも感想が浮かんでこない。ただ、文字が文字として並んでいることしか認識できない。言葉から世界が広がらない。これは、読書が好きな人間からすれば、苦しいことだろう。なによりも、それはタイヂのせいでも、言葉のせいでもないのだ。

 すべては〈言葉〉のせいだ。



 そこで思いつく。

「僕は……、僕は普通に思考できていました! 今はイリカが〈言葉〉を相殺しているけれど、その前に僕は博士の残した『welcome』というメッセージから、自由に考えることができていました。〈言葉〉から完全に解き放たれていたんです!」

 博士は僕と目を合わせたあと、力なく首を振った。

 そして、とぼとぼと歩くような口調で話し始める。

「すこし長い話をしよう。私はたしかに、きみは〈言葉〉から解き放たれたと言った。けれど、あれは便宜上、わかりやく言ったにすぎない」

「それは……どういう?」

「私たちは〈言葉〉が見つかる前から、ずっと〈言葉〉に支配されているんだ。……人間の意思決定の仕組み自体に〈言葉〉は関わっている。ここでの〈言葉〉とは、人間に一つの感情を抱かせるデータのことだ。そういう意味で〈言葉〉と似ている。ここでは、便宜上〈コード〉と呼ぼうか。人間がなにかを選択したり、経験したとき、その選択や結果は〈コード〉として脳に蓄積される。欲望もまた、一つの〈コード〉として存在している。人間がなにかを選択し、経験するたびにそのデータとしての〈コード〉は増えていくわけだ。そして人間は、自分の行動を決定するときに、無意識にその〈コード〉のデータベースを参照している。データベースの記録と、そこから推論できることのなかで最も自分にとって有益になることを選択する。そして、感情も同じだ。データベースのなかで、ある経験に対して、どんなことを思ったか、その記録を基に人はある感情を思う」

「でも、『なんとなく』っていう理由でなにかを選ぶことだってあります。その理屈でいくと、どんな感情も行動理由も、すべて言語化できることになってしまいます」

「数種類の強い〈コード〉によって、行動が選択されたとき、人は行動の理由を言語化できる。ただ、人間は往々にして数え切れないほどの〈コード〉をもとに行動選択を行っている。そういう場合は〈コード〉が無数に重なっている状態で、人間には複雑すぎて言語化できない。行動理由を言語化できた場合も、その強い〈コード〉の下には顕在化しなかっただけで行動選択にちゃんと関わっていた〈コード〉が存在するから、人間は行動理由を誰かに問われて、その強い〈コード〉を疑い、ないものとして思考したときに、やはり言語化できないということになる。そのときに出る言葉が『なんとなく』だ」

 僕らの思考は無数の〈コード〉のもとで行われている。なにかの理由をなんとか言語化したとしても、それは意思決定に関わった無数の〈コード〉のなかで目立ったものを選んだだけにすぎない。つまり、〈コード〉の環境さえ整えてしまえば、人間は同じ行動を取るのだ。ということは――。

「人間に自由意志はない、と?」

「ない」

 短く言ったあと、僕の顔を見て、博士は訂正する。

「いや、厳密な意味で言えばない、というだけだよ。実際、一人の人間に蓄積されている〈コード〉は非常に複雑な構造を築いている。はっきり言って、千差万別と言っていい。それに、蓄積されている〈コード〉を自分のものにしたのは、その人間の行動であり、思考だ。脳科学的には人間の意志は、人間のものでなく脳という機関が生んだものだが、人間の普通の認識としては、やはり意志は人間のものだと言っていいだろう」

 その言葉は慰めにしか聞こえなかった。実際、その意志の仕組みが〈言葉〉に関わっているのだろうから。

「政府が利用している〈言葉〉は、その仕組みのなかでどういう立ち位置になるのですか」

「基本的には前の説明と同じだよ。〈言葉〉は、さっき言った強い〈コード〉になって、意思決定に関わるんだ。普通の経験はよほどのことがない限り強い〈コード〉にはなれない。そんななかで〈言葉〉は簡単にある意思決定の第一要素になれる。統制のもとで、人間は長く〈言葉〉でしか思考しなかったために、弱い〈コード〉――ここでは普通の言語経験のことであり、私たちの文章のことでもある――では思考が働かなくなってしまったんだ」

「じゃあ、僕はどうして『welcome』のメッセージから普通の思考ができたのですか」

「……これは予想でしかないけれど、きみの脳には『〈言葉〉というものが存在している』という強い〈コード〉があったのではないかな。きみは検閲局にいて〈言葉〉を知っていたわけだし、今までの言葉というものに対する思索が、このデータを生んだのかもしれない。他の人々より〈言葉〉から距離をおいた思考をしていたわけだ。〈言葉〉に対するメタ的な思考とでも言おうか。だから、いざ〈言葉〉から離れたとき、自由な思考ができた」

 ということは、〈言葉〉を知っている人間にしか、今までのやり方は通じないのだ。知らない間に、政府の望むような思考をしてしまっている人々には、無意味ということ。

 ……あのプログラムは価値を失ってしまったわけだ。

 僕は政府の削除と逆探知に対する対抗策を持ったプログラムを構築していた。もし、活動の幅をネットワーク上まで広げたときに役立つと思ったからだ。僕はプログラマーというわけではないけれど、知識はあったからそのプログラムをつくることができた。と言っても、10年前に起きた技術革新から生まれたいくつかのプログラムを組み合わせ、改良しただけだ。

 ただ、そのプログラムを利用することはもうないだろう。

 僕は次にタイヂのことを考えた。彼は〈言葉〉を知らない。彼の仕事は、僕らが改変した〈言葉〉による文章をネットワーク上にアップロードすることだからだ。やはり、僕と博士の言葉はタイヂには届かない。

 僕はなにかを言おうとした。けれど、言葉にならない。ただ、呻き声が響いただけだった。そして、その声も無機質な素材で構成された部屋のなかを、仕方なくというように何度か反響して、消えた。



「これからどうしますか」

 そう言ったのは、イリカだった。

「別の方法を考えますか。それとも、諦めますか」

 博士は目を瞑ったまま、沈黙に染まってしまったかのようになにも言わない。

「……別の方法なんてないよ」

 代わりに僕は、吐き捨ているように言った。もう僕は、イリカに対して敬語を使わなくなっていた。

「では、また〈言葉〉の支配下で、自由を奪われたことにも気づけない不自由を生きればいい。私は、あなたの〈言葉〉を相殺することをやめる」

「イリカ!」

 博士が怒声を上げた。こんな声は聞いたことがなかった。

「意志を強要してはいけない。そんなことをしては、政府と同じだ」

「しかし、状況は切迫しています。政府はさらに〈言葉〉による統制を強めようとしているのですよ」

 僕は驚いた。

「統制が、また強まるの?」

「そうだ。政府の連中は自分たちに〈《言葉》の統制は厳格化していくべきだ〉という〈言葉〉を刷り込ませている。その〈言葉〉の通りに政府は研究に力を注いでいる。私たちは〈言葉〉による統制がもうすぐ次の段階に入るという話を聞いた。詳しい話はわからないが、さらに統制が強まることは間違いないだろう」

 僕は思わず博士の顔を見る。

「今までのやり方が無意味だった時点で、諦める予定だったから、きみにこのことを教えるつもりはなかった。しかし、イリカが言ってしまったならば仕方がない。イリカの言ったことは事実だ。政府の人間は、自ら定めた〈言葉〉に縛られている。言ってしまえば、政府もまた被支配層にある。彼らは〈言葉〉が定めたように、統制を強めているだけだ。この世界を本当の意味で支配しているのは、〈言葉〉自体だと言える」

 僕は考える。自由意志という概念が瓦解してしまった今、それでも僕は自分がどうしたいか、それを思考した。

 僕のなかにある無数のコードは、どんな答えを出すのだろうか。

 僕。

 僕は。


「僕は――、計画を続けたいです」


「……し、しかし」

 僕はなにも言わずに博士を見た。

 たとえ自由意志が幻想だと知っても、そして人の意志の解釈がコードによる集計的な出力に堕落したとしても。

 それがなんだというのだ。

 僕のこの選択に後悔はない。

 誰でもなく、

 何でもなく、

 僕がこの選択を行ったと、言い切れる。

 それが理論的に正しいかどうかなど、関係ないのだ。

 僕のなかで、それは完全に正しい。

 それで充分すぎるほどに、充分だ。

 博士は決意したように頷き、そして言った。

「別の方法はある。ただし、危険が伴う方法だ」



 検閲局の、いつもの自分のデスク。

 僕はいつものように、そこにいた。

 けれど、心中穏やかではない。

 まだ始業時間ではないから、いつもなら本を読んでいるのだけれど、今日はそんなことをしている気分ではなかった。

 ふと、タイヂのことを思い出す。タイヂと話すことができたら、少しは気が紛れるだろう。けれど、彼はいない。彼は別の部署で仕事が始まるのを待っているはずだ。まだ、僕らが書いた小説の感想を抱けないことを落ち込んでいるだろうか。彼が沈んでいるという想像は、僕の精神衛生的にもマイナスだった。

 僕は現実逃避をやめる。

 すると、まるで計ったようにタイヂからメールの通知が来た。

『先輩が前に読みたがっていた本のアドレスを送ります。やっと更新されたみたいです。全書籍図書館ボルヘスに繋がっています』

 その文面の下には、アドレスが表示されている。電子書籍化された本は定期的にダウンロードできなくなることがある。きっと、その間に〈言葉〉の改変をやり直しているのだろう。僕が読みたかったのは、埴谷雄高の『死靈』という小説だ。ただ、内容は〈言葉〉によって改変されていると知った今、楽しく読めるとは思えなかった。それでも、僕はそのアドレスに触れる。

 しかし、現れたのは真っ白のページだった。すこしの間、そのサイトを物色したけれど、なにもない。どうやらアドレスを間違ったらしい。タイヂらしいミスだ。

 少しだけ気分が楽になった。僕はタイヂにメールを送る。当然、内容はアドレスが間違っていることについてだ。

 ちょうど、始業時間を知らせる通知がオーグにきた。

 僕は短く息をはく。

 そして、文章が送られてくる。



 千代賀博士が提案したもう一つの方法は、かなり強引なやり方だった。

 普通の言葉が通じないのならば、まずは〈言葉〉を使ってでも、人々の意識を変革させよう、というものだ。

〈言葉〉によって、政府への崇拝をやめさせる。

 検閲局の〈言葉〉による改変の流れは、まず僕らがすべての基盤となる基本的な改変を行い、それを次の部署に送り、そこで細かいパラメータの改変を行う、というもの。

 そして、僕らから次の部署の人間に連絡事項を伝える方法として、パラメータの改変指示タグの下に、僕らも自由にタグづけすることができる。ここに、僕らが求める改変を〈言葉〉を使って指示する。

 さらに、この〈言葉〉自体の忘却促進指数OPIは最大にすることで、指示を受けた人間はその指示通りに改変をするが、そのこと自体をほとんど覚えていられない。この〈言葉〉を構築するのは博士だ。

 そして、求めるパラメータの改変は、基本的には政府の求めるものと同じにしながら、数パーセントだけ反政府の感情を促す〈言葉〉を混ぜる、というもの。この改変ならば、最終チェックで見るのは、総合的に見て政府のつけたタグ通りに改変しているかであるから、数パーセントのノイズはなかったことになる。しかし、実際に読んだ人間のなかには、数パーセントの確率で反政府の感情を抱くものが現れることになる。

 僕らはその数パーセントに賭けるのだ。

 これは結果に釣り合わないほどの危険が伴う。

 そして、博士が嫌悪していた意志の強要であるとも言える。

 政府とやっていることは同じだ、と言えることを僕らはちゃんと認識している。無謀なテロ行為と思われても仕方がないことを僕らはわかっている。

 しかし、それでも、やらなければならない。



 計画通りに連絡用タグをつけて、次の部署に文章を送ったあと、僕は妙な感覚に襲われた。

 それは、僕はきっと捕まるだろう、という確信だった。理由はない。ただ、この未来は間違いないことだ、と思った。それは朝が来て、そしてそのあとに夜が来ることと同じくらい避けられないことだと感じた。

 その瞬間、僕の脳内にある物語を書く意志が生まれた。





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