【3月刊試し読み】狼伯爵のごちそう花嫁

角川ルビー文庫

第1話




 調理師学校の授業を終えた八木沢朋樹は、いつものようにアルバイト先の飲食店への道を急いでいた。

 ちょっと遅れそうかな。デコレーションに凝りすぎた。

 今日はスポンジケーキの実習で、あまりにも見事にスポンジが焼き上がったものだから、飾りつけにも気合が入ってしまった。

 アルバイト先『ナヴォーナ』はイタリアン中心の洋食レストランで、朋樹は週五日、夜からの営業にシフトを入れている。席数二十ほどの小ぢんまりとした店で、オーナー夫妻と朋樹を含むアルバイト三名で切り盛りしていた。

 新宿駅東口から徒歩圏という場所柄、歌舞伎町勤めのホストやホステス、それに二丁目のオネエさんたちにも常連客がいて、深夜が近づくにつれて賑わう。

 今夜は他のアルバイトが休みだと聞いていたから、ちょっと忙しいかもしれない。朋樹も厨房とフロアの両方を動き回ることになるだろう。

 まあ、実習テストで四日も休ませてもらっちゃったし、その分頑張らないとな。バイト料も稼がなきゃだし。

 大通りから逸れて路地に入り、裏通りへ抜ける。立ち並ぶ雑居ビルの一階は、ほぼ飲食店だ。その中の一軒の前に黒塗りのセダンが停まって、スーツ姿の男がふたり店を覗き込んでいるのが目に入った。

 まだ準備中だって。ていうか、店の前に停められちゃ困る。

 朋樹は歩を速めて店に向かい、声をかけた。

「すみません、夜は五時半からなので、まだ当分――」

 振り返った男たちの顔を見て、朋樹はぎょっとする。客というよりは、ちょっと危険な雰囲気を嗅ぎ取ったのだ。

 男の片方が、肩をいからせるようにして色つきの眼鏡をずらした。

「兄ちゃん、この店の従業員か?」

「……あ、はい……えと、バイトで……」

「へえ、これから出勤?」

 もうひとりが口を歪めて笑う。

 やばい……きっとヤバい人たちだ。けど、なんで……?

 地域柄暴力団と関係している店もあるのだろうが、『ナヴォーナ』に限ってそれはないはずだ。それっぽい客が出入りする気配もなかったし、彼らが目をつけるほど旨味のある繁盛店でもない。

 頭の中をぐるぐるさせながらぎこちなく頷くと、男の嘲りの笑みにわずかに憐憫の色が混ざって見えた。

「五日前から休業なんだよなあ。どうなってるか、兄ちゃん知らないか?」

「い、五日前?」

 ということは朋樹が休みの間、店も開いていなかったということか。そんな予定は聞いていない。

「店主には金を都合してて、返済日が四日前だったんだよな」

 呟くような言葉に、朋樹の背筋が震えた。つまり彼らは借金取りで、そしてオーナー夫妻は返済のめどが立たずに夜逃げしたということだろうか。

 その道のプロらしき男たちは、朋樹の反応からなにも聞き出せないと見て取ったらしく、混乱する朋樹の肩を宥めるように叩いた。

「ま、いいや。兄ちゃんもバイト料がぶっちぎりで残念だろうが、もうここには来ないほうがいいぜ。あ、裏口の鍵とか預かってないか?」

 朋樹はそれにも正直に首を振り、逃げるようにその場を立ち去った。

 オーナー夫妻の個人的なことはほとんど知らないが、万年金欠で生活費と学費に追われる朋樹に、余った料理を持たせてくれたり、勤務シフトの融通を聞かせてくれたりと、人のよさそうな四十代の夫婦だった。

 しかし借金を踏み倒して逃げたのが本当だとしたら、その認識も間違っていたのだろうか。金を借りるにしても、銀行ではなく、あんないかにも怪しい借金取りがいるようなところに申し入れたということだ。

 それでも情が湧くのか、無事でいるのだろうかと気にかかった。夜逃げしたのはともかく、朋樹には優しく、面倒見のいい人たちだった。今はどうにか逃げおおせているとしても、あんな相手の金を踏み倒して生きていけるのだろうか。

 ……まあ、万年金欠の俺に、なんの手助けができるわけでもないけど――ていうか、バイト代!

 夢中で歩いていたせいで、気づけば駅とは逆方向に進んでいたらしい。朋樹は神社のある公園の前で足を止めていた。

 新たに気づいたショックに、そのままふらふらと公園のベンチに座り込んだ。

 予定では休み明けの今日、先月分の給料を手渡しでもらうはずだった。ざっと二十万。そこから家賃と光熱費を払い、できるだけ食費を切り詰め、残りは学費用に積み立てておくのが朋樹のやり方だ。

 臨時の出費にはそのプール分から引き出すことになるが、タイミングが悪く、先月半期分の学費を払ったばかりで、残りはほとんどない。

 家賃の引き落とし、来週じゃないか……。しかも今月は更新料もある。

 青くなった朋樹は携帯を取り出して、オーナーに電話をかけた。繋がったら、どうにか給料を払ってくれるように頼むつもりだったが――。

 電源が切られているというアナウンスに、ため息をつく。借金取りが店に乗り込んでいることから予想はついていたが、さすがにへこんだ。たぶんもう、電話は通じないだろう。

「どうすりゃいいんだよ……」

 自分が選んだ道だから泣き言は言うまいと心に誓い、生来の勝ち気な性格も加わって、料理人になる日を夢見て前向きに暮らしてきたが、青天の霹靂に弱音が洩れた。

 新しいアルバイトを探すのは当然としても、それまでの繋ぎをどうしたらいいのか。家賃と生活費は今すぐにでも必要なのだ。

 日雇いの仕事とか……? いや、それは現実的じゃない。だいたい時間が合わないだろ。学校休んで働いてたら、本末転倒だし……。

 学業に影響がなく、手っ取り早く日銭を稼げる仕事――そんなものがあるのだろうかと考えを巡らせていると、ふいに肩を叩かれた。

 振り向くと、外回り中のサラリーマンのような男が、顔を隠すように眼鏡を押し上げていた。四十代くらいだろうか。

「――だ?」

「え……?」

 もちろん知り合いではないし、店の客という憶えもない。道でも聞かれたのかと思って反射的に立ち上がると、男は背中を向けるように身を捩った。

「……だから、いくらだ? 三万までなら出す」

 ……な――。

 売り専に間違われたらしいとすぐにピンと来たのは、二丁目の目と鼻の先だったこともあるが、『ナヴォーナ』を訪れる二丁目の住人に、たびたび揶揄われていたことを思い出したからだ。いわく「朋くんはいくらなの?」「美味しそう」「料理はこっちがするから、素材だけでいいよ」とか。

 間違われたことにも驚いたが、目の前の地味なサラリーマン(推定)がゲイだということや、まだ日も沈まないうちから男を買おうとしていることが衝撃だった。

 うわあ、マジでいるのか……。

「答えろ! 三万じゃ不足か? じゃあ、三万五千でどうだ」

 そっぽを向いて声をひそめながらも返事を急かす男に、「五千円刻みかよ」とどうでもいいことが頭をよぎる。

 いや、どうでもよくないか。三万だぞ。たぶん数時間ってとこだろうし、それで三万って悪くない商売なんじゃ……。

 とにかく追いつめられていたので、仕事の内容よりも金額に意識を奪われた。ふだんなら絶対に応じたりしないし、そもそも違法だろうと速攻拒否するか無視するのだが、いまの朋樹に三万は魅力だった。

 ……どうする? 見た感じヤバいタイプじゃなさそうだし、ちゃんと予防すれば病気もだいじょうぶだろうし……ていうか三万だぞ! 何日かかけて十人もこなせば目標額を軽く達成で……。

 頭の中であれこれと、主に金について思いを巡らせていると、キャンキャンという鳴き声がした。気づいたときにはその声は間近に迫っていて、振り返ると褐色の仔犬が二匹、今にも朋樹に突進してくるところだった。

「うわあっ……!」

「捕まえてくれ!」

 離れたところから、たぶん飼い主だろう男の声が響き、朋樹は思わず両手を広げる。ころころとした仔犬らしからぬ跳躍力を見せた二匹は、揃って朋樹の腕の中に納まった。

 うわ、ふかふか! かっわいい~!

 仔犬たちに顔を左右から競うように舐め回され、視界を奪われた朋樹は、とにかく二匹を落とさないようにと気にしながら、久しぶりの動物とのスキンシップを堪能した。

 実家の隣家ではシェルティを飼っていて、門の前を通るたびに撫でさせてもらっていたものだが、それも二年も前のことだ。

「ありがとう、助かった」

 先ほどの声がすぐそばで聞こえたが、そちら側は仔犬に占領されていたので、逆に首を捻って視界を確保すると、ちょうどサラリーマン(推定)の立ち去る背中が見えた。

 あ……三万円が……。

 思わず呼び止めそうになったが、すぐに思いとどまる。正直なところ、ちょっとほっとしてもいた。さすがにあのまま受け入れてついていくのは、決心がいる。

 タイミングが合わなかったと思うことにしよう。いざとなればそういう稼ぎ方もあると、気づいただけでいい。そう納得して、仔犬の飼い主のほうに振りかえった。

「いいえ、ワンちゃんのほうから飛び込んできてくれたんで、どっちもキャッチできてよかった――」

 うわっ……!

 目の前に立っていたのは、長身でプラチナブロンドに灰色の目をした超絶美形の外国人だった。夕日に輪郭がキラキラと輝くようで、殺風景な公園とのミスマッチがはなはだしい。

 外国人はふっと微笑むと、朋樹に両手を差し伸べてきた。

「え……? あ、ああ、犬……」

 一瞬抱きしめられるのではないかと勘違いして、そんなことを思った自分が恥ずかしく、慌てて仔犬たちを引き渡そうとしたのだが、しがみついて離れない。

「あ、ちょっ、おまえら、ご主人はあっちだって」

「気に入られたらしいな。よければ少し相手をしてくれれば助かる」

 外国人はベンチに腰を下ろして、長い脚を組んだ。アイスブルーのコットンニットにグレーのパンツ、シルバーグレーのスプリングコートという飾り気のない格好だが、圧倒されるような雰囲気があった。モデルだろうか。だとしたら、きっと一流のステージモデルだろう。

「どうかしたか?」

 銀色にも見えるような淡い色の瞳で見上げられて、ドキリと心臓が跳ねる。

「え……? いえ、あの……そうだ、名前は?」

「エルンスト」

「どっちが?」

 しばし見つめ合い、互いに勘違いに気づいて苦笑した。

「そいつらはテオとレオだ。鼻づらの黒いほうがテオ」

「そうですか。それであなたがエルンスト」

「きみは?」

「朋樹といいます」

 相変わらず外国人――エルンストは朋樹をじっと見つめていて、なんだか落ち着かない。東京にいれば世界各国の人間がその辺を闊歩しているし、『ナヴォーナ』の客にだっていた。ついでに言えば、朋樹が通う調理学校にだって外国からの生徒がいて、ふつうに交流している。

 だから外国人がどうということではなく、エルンストが美しすぎて緊張しているのだと思う。本当にハリウッド映画でもお目にかかれないような美形だ。

 朋樹がエルンストに意識を奪われているのが気に入らないというように、テオとレオが腕の中で騒いだ。

「あ、ちょっと……、あっ……!」

 腕から飛び出した仔犬たちは、慌てる朋樹を尻目にすたっと着地したかと思うと、公園内を走り出した。

「どうしよう……」

「放っておいていい。逃げはしない。それより座るといい」

 エルンストの言葉どおり、テオとレオは追いかけっこをするようにひとしきり駆け回ると、ベンチに戻ってきた。朋樹の膝に前肢をかけて、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。

「柴犬……ですか?」

 昨今流行のトイプードルやミニチュアダックスならさすがに見分けがつくが、犬種には詳しくない。柴犬はこんな外見だったように思うが、仔犬でこの大きさということは、他の犬種なのだろうか。

「ヴァラヴォルフ」

「えっ、なんて?」

 朋樹が聞き返すと、エルンストは目を細めた。しつこいようだが、どんな表情をしても隙がない美しさだ。

「あまり出回っていないから、知らなくても不思議はない。特にこいつらはちょっと希少だ」

「そうなんですか。あ、どうりで目の色が変わってますね。金色っぽい」

 毛並みは黒褐色で地味だが、俊敏で顔つきも凛々しい。成長したら、シェパードのようになるのかもしれない。

「いいなあ、こんなかわいい犬が二匹も。あ、もしかしてブリーダーですか?」

「ブリーダー?」

 首を傾げるエルンストに、ブリーダーというのは和製英語だっただろうかと思い、言い換える。そもそもエルンストはどこの国の人なのだろう。日本語は驚くほど流暢だが、英語は苦手という可能性もあった。

「えっと、動物を繁殖させる仕事?」

 それを聞いて、エルンストは肩を竦めて首を振った。

「繁殖を操作するとは味気ない。生き物は自ら増えていくものだろう」

「は? ええまあ、そうかもしれませんけど、血統書付きとかは――」

「ああ、たしかになかなか苦労する。ヴァラヴォルフは減少の一途を辿っているからな」

 ……なんか微妙にずれてるような。まあ外国人だし、こんなもんかな。

「とにかくブリーダーという仕事はしていない。テオとレオは……そうだな、言ってみれば家族のようなものだ」

「ああ、いいですね、家族」

 愛犬家の常套句なのかもしれないが、そう公言されると朋樹もなんとなく嬉しい。

「じゃあ、今度は朋樹の仕事を訊こうか」

「え、ブリーダーじゃないって聞いただけじゃないですか。俺は調理師学校の学生ですけど……」

 言葉途中でため息が洩れた。

「どうかな。またフリーターに逆戻りかも」

「フリーター? 逆戻りってなぜ?」

「あ、フリーターっていうのは――」

「知っている。正社員でなく、アルバイトなどで生計を立てることだろう」

 ブリーダーを知らないのに、フリーターは知ってるのか。しかもネット検索で出てくるみたいな説明だな。

 そんなことを思いながら、朋樹はついこれまでの経緯を話してしまった。偶然出会った外国人だから、後腐れなく口が軽くなったのか、それとも誰かに聞いてほしいくらい内心弱っていたのか。

「実は今日――」

 朋樹の両親はともに教育者で、息子の朋樹にも同じ道を目指してほしいと望んでいた。しかし鍵っ子から炊事担当へと成長した朋樹は、料理人という夢を抱き、大学進学を勧める両親と決別した。

 高校卒業と同時に家を出て、一年間は生活の基盤を作ることと調理師学校入学の費用を貯めることに費やし、昨年ようやく調理師学校に入学した。ずっと実家には戻らず、親にも会っていない。

 そこまでこじれてしまったのは、進路を反対されただけでなく、朋樹の夢を貶めるような発言をしたからだ。教育者は上等な職業で、客に頭を下げるような仕事は八木沢家の人間にふさわしくないという言葉には、とても同意できなかった。

 それに、どんな料理を作っても、一度も美味しいって言ってくれなかったもんな。やっぱりあの人たちとは相容れないんだよ……。

 ピンチになった今も、親を頼る気にはなれない。それ見たことかと嗤われて、家に連れ戻され、両親が命じる道を歩かされるのは目に見えている。

「しかし先立つものがなければ、学校どころか生活も立ちいかなくなるのだろう?」

 冷たいほどに整った容貌が、親身な表情を見せる。

「そうですけど……なんとかなりますよ。いえ、なんとかします! すみません、見ず知らずの人に変な話しちゃって」

 弱音を吐いたり愚痴をこぼしたりしたのがにわかに恥ずかしくなって、朋樹は仔犬たちの頭を撫でた。

「そういえば、さっき男の人がいたでしょ。なんて言ったと思います? 三万でどうだって。この辺りだと、そういう誘いもあるんですよ。まあ、言われたのは初めてだけど、その手があったかって――」

 場の空気を変えて笑い話にするつもりでいたのだが、エルンストの眉間に縦じわが寄ったのを見て、朋樹は口を噤んだ。

 まずい。そういう冗談は通じないタイプだったか。

 朋樹自身はともかく、性嗜好は個人的なことだと思っているので、ゲイを嫌悪することはない。店の客として接してきた人たちも、その点を除けば一般人と変わりがなかった。

 しかし世の中には目の敵にする人もいるわけで、そんな相手とあえて口論する気もない。

「そうやって日銭を稼ぐつもりか?」

 エルンストの声のトーンが低くなったのを感じて、朋樹は慌ててベンチから立ち上がった。

「ま、まさか。そんなことがあったって話ですよ。じゃあ、失礼します。他のバイトを探さないと。テオ、レオ、またな!」

 最後にエルンストに一礼して、急ぎ足で公園を後にした。仕事を探さなければならないのももちろんだったが、わかりきった説教をされるのも勘弁してほしい。よくないことでも、背に腹は代えられないときだってあるのだ。

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