メガネザル(その4)
矢野さんは、はあはあと息を切らしていた。
暑い中、必死に走ってきたのだろう。頬が真っ赤になっていて、ただでさえ童顔なのに二割増しで子どもっぽい。矢野さんがつうと額から流れる汗を拭い、すぐ近くにある食堂施設を指さしながらわたしに笑いかける。
「ちょっと、休まない?」
ホテルに誘われてるみたいだ。誘われたことなんて、ないけれど。
「いいですよ」
「良かった。ありがとう」
別にわざわざお礼を言われるようなことはしていません。本当に適当なことしか言わないんですね。――それなりにいい子なわたしは、やっぱりそれも口にしないで堪えた。食堂に向かう矢野さんに黙ってついて行く。
食堂はフードコート形式になっていた。遅めのランチを取っている人たちがちらほらいるぐらいであまり混んではいない。「なにか食べる?」と聞かれたので「要りません」と答えると、矢野さんは困ったように苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、飲み物だけ買ってくるよ。何がいい?」
「要らないです。奢ってもらうような理由、特にないですから」
矢野さんの頬がひきつった。わたしは両手を膝に載せてじっとテーブルを見つめる。冷房の効いた建物の空気が、ひんやりとわたしたちを包む。
「ハルカちゃん」身体を揺すって姿勢を正し、矢野さんが口を開いた。「良かったら、僕のどこがダメなのか教えてくれないかな」
心臓が、一つ大きく高鳴った。
心の内に踏み込まれた感覚。胸に見えない楔を打ち込まれたような異物感。わたしは小さく息を整え、出来るだけ淡々と言葉を吐く。
「別にダメじゃないです」
「そうかな。僕は、避けられているように感じるんだけど」
「それは――別に矢野さんがダメなわけじゃないです。ただわたしのいないところで勝手に話が進むのが、ちょっと気に食わないだけ」
ふてくされたように口を尖らせてみせる。ここを解決すれば丸く収まりますと、しっちゃかめっちゃかになった事態の落としどころを示す。矢野さんが軽く目を見開いた後、何かを悟ったように大人びた表情で笑った。
「そうか」
――あ。
さっき高鳴った心臓が、今度はきゅうと縮こまった。ダメだ、これ。間違えた。わたしはわたしのことを、まるで分かっていなかった。
「そうだね。その通りだ。何もかもいきなりで、ハルカちゃんがそういう気持ちを抱くのも無理はない。きちんと説明しなかった僕が悪い。申し訳なかった」
矢野さんが大きく頭を下げる。止めて。わたしの中でわたしが悲鳴を上げる。良くないものが、すぐ傍まで迫っている。
今度こそ本当に理解した。わたしは矢野さんが嫌いなわけではない。わたしの知らないところで動く世界が気に食わないわけでもない。だってわたしはいつだって、その世界に飛び込むことが出来た。それをしないで逃げていたのはわたし自身だ。
わたしはただ――
「改めて言うよ。僕は――」
パパのことが、好きだったのだ。
「君のお母さんと結婚したいと思っている」
小学三年生の時、親友のおばあちゃんが亡くなった。
本当に仲の良い子だった。放課後は毎日一緒に帰って、休みの日も半分は一緒に遊んでいた。忌引きで休んでいる彼女のいない教室はとても寂しくて、しぼんだ風船の中に閉じ込められているように息苦しかった。
そして忌引き明け、登校して来た彼女は目に見えて落ち込んでいた。だからわたしは放課後、彼女を近所の公園に連れて行った。買い食いは禁止されているけれどお小遣いでコンビニのお菓子を買って、ドーム状のオブジェに土管が何本か通った今考えると何が楽しいのか分からない遊具の上に座り、日が暮れるまで語り合った。最後にはその子もすっかり元気になって、別れ際に「本当にありがとう」とお礼を言ってくれた。わたしは「今日はいいことしたなあ」といい気分になり、夕暮れの街を一人歩きながらふと考えた。
パパが死んじゃった時、わたしは泣いたっけ?
夕日はほとんど沈みかけていた。色の濃い橙色があちこちの建物を覆って、暗闇が世界を呑み込もうとしていた。何か心安らぐことを考えよう。得体の知れない不安に駆られた小さな頭は自然とそう考え、やがて一つの記憶を引き出す。
パパと手を繋ぎ、今と同じように日の暮れた街を歩いた思い出。
一緒に公園で遊んだ帰り道。夕日に照らされたパパのゴリラみたいな横顔と、大きくて温かい手。その光景を思い出した途端、ふっと張り詰めていた心がほぐれた。誰とも繋いでいないはずの手に、じんわりと熱が伝わってきた気がした。
わたしは、気づいた。
そうか、分かった。わたしが心からパパを死んだと思わなければ、パパはわたしの中で生き続ける。人が死ぬとはきっとそういうことなのだ。心臓が止まることではない。呼吸が止まることでもない。人は、死んだと思われた時に死ぬのだ。
真理を得たわたしは嬉しくなって笑った。そして帰ってすぐ、ママにそれを報告した。ママは「そうね」とわたしの頭を撫でた。「それならハルちゃんの中でなら、パパはずっと生きられるね」と少し寂しそうに呟いた。
わたしの知らないうちに、わたしの知らないところで、わたしの知らない世界に行ってしまったパパのことを、わたしは死んでしまったと認めていなかった。頭では分かっていても、心では分かっていなかったのだ。だからパパは生きてきた。わたしの中で、ずっとわたしと一緒にいてくれた。
今日までは。
「……ハルカちゃん?」
矢野さんがわたしの顔を覗き込む。わたしは自分の頬を撫でる。濡れた感触が指の腹に伝わり、自分が泣いていることに気づく。
「……うー」
わたしは、テーブルに突っ伏した。
うー、うー、うーと呻き声を上げる。唇を閉ざし、泣き声を堪え、それでも涙と共に溢れる感情を音にしてこぼす。海でビニールボートを漕いでもらった思い出。パンダを見るために肩車をしてもらった思い出。ほとんど覚えていなかったはずのパパの思い出が、次から次へと溢れてきて止まらない。
きっとわたしは、自分で自分の記憶に蓋をしていた。過去を懐かしむのはパパが死んだと認めてしまうことだから。だから無意識に忘れようとしていた。だけどもう、蓋は外れた。
ああ。
死んだ。
パパが死んでしまった。
「大丈夫?」
矢野さんがわたしの背中を撫でる。メガネザルのくせに、意外と手が大きい。その大きな手の感触がまるでパパに撫でられているようで、わたしはとうとう固く閉じていた唇を開き、声を上げて泣き始めた。
◆
さんざん泣き腫らした後、わたしは矢野さんと食堂を出ることにした。
さすがに居心地が悪かった。わたしがそう感じるのだから矢野さんはもっとだろう。親にしては若すぎる大人の男が女子中学生を泣かせて背中を撫で擦っていたのだ。あの場にいた誰か一人ぐらい、不審者がいると通報していてもおかしくない。
食堂を出たわたしたちはペンギンの展示場の近くにある、不忍池という大きな池を臨むように設置されたテラス形式の休憩所に向かった。細長いウッドデッキのテーブルを挟んで向かい合うわたしに、矢野さんが声をかける。
「落ち着いた?」
「はい」
「そうか。良かった」
矢野さんが笑った。そして笑顔を貼り付けたまま、ぽりぽりと頬を掻く。
「僕がお父さんになるのは、泣くほどイヤ?」
今までのわたしだったら、きっと黙ってしまった質問。だけど今のわたしは、はっきりと首を横に振る。
「違います。さっきのは、なんていうか――さよならしたんです」
「さよなら?」
「はい。――パパに」
矢野さんが驚いたように眼鏡の奥の目を剥いた。それから嬉しそうに口元を緩ませ、わたしに尋ねる。
「それはつまり、僕を父親として認めてくれるってことかな」
――そうやってわざわざ確認するの、カッコ悪いですよ。黙ってどっしり構えていてください。少なくともパパだったら、きっとそうしたと思います。
「それは――これからです」
厳しい言葉は胸の中に隠し、顔を逸らして池の方を向く。矢野さんが穏やかな声で「頑張るよ」と呟いた。そこは無言を貫くか「任せて」みたいなもっと力強い言葉にして欲しい。ほんと、細かいところでいちいち弱っちい人だ。
「ハルちゃん!」
聞き慣れた甲高い声が、頭の後ろからわたしの耳に届いた。振り向くと、張り詰めた表情のママとコースケ。ママがツカツカとわたしたちのところまで歩いてきて、矢野さんに勢いよく突っかかる。
「見つけたなら連絡してよ!」
「いや、連絡しようとは思ったんだけど、色々あって……」
「『見つけた』ぐらいすぐに送れるでしょ!」
ママが詰め寄る。矢野さんがたじろぐ。これは、わたしが矢野さんを認める日はまだまだ先になりそうだ。わたしは呆れながら立ち上がり、すぐ近くで申し訳なさそうに縮こまっているコースケのところに向かった。
「コースケ」
すうと深く息を吸い、頭を下げながら大きな声で言い放つ。
「「ごめん!」」
思いっきり、被った。お互いに顔を上げて見つめあい、パチパチと瞬きを繰り返す。
「なんでコースケが謝るの?」
「だって、余計なことしただろ。お前の気持ちも考えないで、人んちの家庭事情に首突っ込んでさ。悪いことしたなって思って」
「でもそれ、ママが頼んだんでしょ?」
「まあ、それはそうだけど……」
コースケがもごもごと唇を動かす。わたしはその仕草を「かわいい」と思ったけれど、たぶん矢野さんが同じことをしたら苛立つのだろう。ほんと、人間って自分勝手だ。だからゴリラが好きだと言っておきながら、メガネザルとつきあったりする。
「それを言うならハルカこそ、なんで謝ったんだよ」
――ガキっぽいことしたなあと思ったからだよ。
「大事なこと、黙ってたから」
「大事なこと?」
「うん。あのね」
わたしは含み笑いを浮かべながら、コースケの胸を指さした。
「そのシャツの英語、『僕を犯して』って意味だよ」
コースケがポカンと口を開く。それからシャツをグイと引っ張り、『Fuck me』のところを引きのばして見つめながら叫んだ。
「マジで!?」
ママと矢野さんがこっちを向く。そして戸惑うコースケとケラケラ笑うわたしを見て、穏やかに口元を緩ませる。たったそれだけのことでこれからも上手くやって行けるような気になってしまうわたしはきっと、バカでガキで単純で、とても幸せな人間なのだろう。
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