メガネザル(その3)
トイレから戻った後すぐ、近くの休憩所でお弁当を食べることになった。
小さな丸テーブルの傍に四つ椅子を集めて座る。ママがリュックサックから黄緑色のナプキンで覆われた二段重ねのお弁当箱を取り出して開ける。ポテトサラダとかウィンナーとかから揚げとかが入ったおかずの段と、おにぎりが詰まったご飯の段。
「美味しそうだね」
矢野さんが呟く。もうちょっと気の利いたことを言えばいいのに。「例えば?」とか聞かれても困るけど。
「あ、そうそう。それと――」
ママがリュックからお弁当箱より一回り小さな箱を取り出した。家で見たから知っている。昆布のおにぎりの入ったランチボックス。ママはそれを両手で抱えて、微笑みながらテーブルの中央に差し出す。
「はい。コースケくん用の昆布おにぎり」
「あざーっす! めっちゃ嬉しいです!」
――お前かよ。
全身から力が抜けた。それにしても、なんでわたしが知らないコースケの好物をママが知ってるんだろう。コースケの口はヘリウムより軽いから、どっかでポロッと言っちゃったんだろうけど。
「それじゃあ、食べようか」
矢野さんが両手を合わせて「いただきます」と呟いた。わたしはピクニックのお弁当にそんなうやうやしくしなくていいのにと思ったけれど、ママもコースケも同じようにするので合わせた。それから四人でランチボックスのおかずをつまみ、みんなでワイワイと盛り上がる。わたしを除いて。
「唐揚げめっちゃ美味いですね。オレんちのやつより全然好きです」
「そう? 唐揚げは家の味が一番って人が多いと思うけれど」
「いや、斎藤さんの唐揚げ、本当に美味しいですよ。僕も実家の唐揚げより好きかもしれません」
そんなに美味しいならお喋りしてないで食べればいいのに。そんなことを考えながら、わたしは「早く食べないとなくなるよ」みたいな感じで次々と唐揚げを口に放り込む。それでもママもコースケも矢野さんも無駄話を止めない。結局、口の周りが油っこくなってわたしの方が先に折れてしまい、謎の敗北感を覚えながらポテトサラダに手を伸ばす羽目になった。
お弁当をだいたい食べ終えた頃、ママが突然すっと立ち上がった。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
「あ、オレも行きます」
コースケも立ち上がる。え、ちょっと待って。そう抗議する間もなく、二人はスタスタと近くのトイレに向かって歩いていく。残されたのはほとんど空になったお弁当箱とわたしと矢野さん。気まずい。気まずさマキシマム。
わたしもトイレに行こうかな。でもご飯を食べる前に行ったばっかりだし、さすがに感じ悪いかも。どうしよう。困った。
「ハルカちゃん」
穏やかな笑みを浮かべながら、矢野さんがわたしに声をかけてきた。
「ハルカちゃんは、どんな食べ物が好きなのかな?」
今それ?
いや、確かにわたし、なにが好きとか嫌いとか矢野さんに話した記憶ないけど、なにも今このタイミングで聞かなくていいと思う。っていうか、仮にも二か月ぐらい付き合いあるんだからなんとなく予想つくよね。別に本気で知りたいわけじゃなくて、ただ場を繋ぎたいだけなんだよね。だったらもうちょっとマシな話の振り方あるでしょ。好きな食べ物って。小学生か。
「……お寿司」
「そうなんだ。特に何が好きなの?」
「いくら」
「へえ。僕も好きだよ」
沈黙。
え、そこで黙っちゃうの? やわらかめにいってトーク力貧弱過ぎない? だいたいそっちが好きな食べ物とかしょーもない話題出すからこうなるんじゃん。責任取ってよ。「話を広げないわたしも悪いのかな」みたい気分になるじゃん。理不尽。
矢野さんがちらりとトイレの方を見やった。この場にいない人に助けを求める仕草。ダメだ、この人。残念すぎる。いい人っぽいのは分かるけど、それだけなんだよね。あのゴリラパパの後釜は厳しいんじゃないかなあ。わたしが嫌とかそういうことじゃなくて、客観的に見て。
「矢野さんは」
仕方ないのでわたしから話を振ってやる。わたし、優しい。
「ママのどこが好きなんですか?」
質問に、矢野さんは少し恥ずかしそうに頬を緩ませた。もう三十越えてるのに、なんか子供っぽい反応だ。
「しっかりしてるところかな」
「そうですか? けっこーズボラですよ」
「そんなことないよ。ハルカちゃんがとてもいい子に育っているのを見れば分かる」
わたし、矢野さんの前でいい子なところ見せたことないですよ。適当なこと言わないで下さい。――そう思っても言わないわたしは、確かに、それなりにいい子なのかもしれない。
「わたしは」でもこの言葉を止められないから、それなり止まりだ。「矢野さんはもっと若い女の人と恋愛して、普通に子どもとか作った方が幸せだと思いますけど」
ひゅう。
生温かい風がわたしと矢野さんの間を駆け抜けた。幼稚園児ぐらいの男の子が「ちょーつかれたー!」と言ってわたしたちのすぐ近くの椅子にドカッと座り、お父さんとお母さんらしき人が苦笑いを浮かべながら遅れてテーブルにつく。そう、ああいうのだよ。ああいうの。矢野さんはああいう普通の家庭を作った方が絶対にいい。何ものっけからケチがついてる家で頑張ることないって。矢野さん、ちょっと頼りないけどいい人だし、相手見つかるよ。わたしは矢野さんのためを思って忠告してあげてるんだ。
「――トイレ行ってきます」
わたしは立ち上がった。そして早歩きで休憩所からトイレに向かう。結局こうなるなら最初からトイレに行っておけば良かった。大失敗だ。
矢野さんから十分に離れたところで歩く速度を落とす。細い柵に囲まれたスペースに展示されているツルが道の右側に見える。そういえば、ママとコースケ遅いな。ぼんやりとツルを見やりながらそんなことを考えたちょうどその瞬間、神さまが「ほれ」と答えを出したみたいに、わたしはそれを見つけた。
並んでツルを眺める、ママとコースケの背中。
全力でイラッと来た。わたしが矢野さんの低コミュ力に悪戦苦闘している間、こんなところで呑気に時間を潰していたなんて。少しは気をつかって欲しい。特にコースケ。
ゆっくりと二人に近づく。ママが休憩所の方を軽く見やり、物憂げに呟いた。
「あの二人、大丈夫かな」
わたしは、足を止めた。
あの二人。間違いなく、わたしと矢野さんを意識した言葉だ。湿り気のある夏の風に溶けて、耳にママとコースケの会話が次々と飛び込んでくる。
「大丈夫ですよ。どーしようもないぐらい嫌いならハルカもここまで来ないですって」
「コースケくんの目から見て、見込みありそう?」
「うーん。そう言われると……矢野さん次第ですね」
「じゃあダメかも。あの人、一対一の会話苦手だから」
「それは特訓して下さいよ。本人が頑張ってくれないと、周りがどんだけ協力しても意味ないじゃないですか」
コースケがカラカラと笑う。明るく、無邪気な、裏表のない笑顔。
「そうね。色々手伝ってくれてありがとう、コースケくん」
「いいですよ。オレもおばさんとハルカには幸せになって貰いたいんで」
少しずつ話が読めてきた。要するにママとコースケは共謀して、わたしと矢野さんを仲良くさせようと企んでいるのだ。もしかすると、コースケが矢野さんに「会いたい」と言い出したその時から。
心臓が高鳴る。
どくん、どくんと、張り裂けそうなぐらいに鼓動が早まる。頭が痛い。息が苦しい。わたしじゃないわたしが、わたしを乗っ取ろうとしている。
「じゃあ、そろそろ――」
ママが、くるりと振り返った。
ママがわたしを見つける。口に手を当てて、瞳を大きく見開いて驚く。「しまった」って感じの表情。――ああ、なんだ、ちゃんと分かってるんだ。自分が悪いことしてるって、わたしのこと馬鹿にしてるって自覚あるんだ。
なら、怒ってもいいよね。
「わたしのこと、騙してたんだ」
騙す。あえて強い言葉を使った。ママはふるふると首を振り、一歩わたしに近寄る。
「騙すなんて、そんな。ママはただ――」
唇の端を緩ませて、ママがにへらと気持ち悪く笑った。
「ハルちゃんに、矢野さんと仲良くして欲しくて――」
ブチッ。
頭の中で何かが切れた。わたしは両方の手をぎゅうと握りしめ、お腹の底から叫ぶ。
「それを、騙してるって言うんでしょ!」
二人に背を向けて走り出す。後ろから「ハルちゃん!」「ハルカ!」とわたしを呼ぶ声が聞こえる。だけどわたしは止まらない。がむしゃらに足を動かして、ママから、コースケから、矢野さんから、少しでも遠くに離れようとする。
分かった。やっぱりわたしは矢野さんを嫌いではなかった。わたしが嫌いなものは、気に食わないものは、いつだってたった一つ。
わたしの知らないところで動く世界だ。
◆
わたしは、走った。
走って、走って、気がついたら今までいた東園を離れて西園にいた。ポケットの中でスマホがブーブーうるさいので手に取ってみると、ママとコースケから大量に連絡が入っていた。わたしはスマホの電源を切り、とりあえず西園を見て回ることにした。
西園はカンガルーとかフラミンゴとか特徴的な動物が多くて、東園より面白かった。動物園より水族館のイメージが強いペンギンなんかもいた。そのうちに『小獣館』という建物を見つけて、なんか名前からしてかわいい動物がたくさんいそうだし、入ってみることにした。
予想通り『小獣館』にはちっちゃくてかわいい動物がたくさんいた。私的にはくんと背中を伸ばして斜め上を見上げるミーアキャットが特にお気に入り。ハダカネズミとかいう体毛が無くなって肌がウーパールーパーみたいな質感になったネズミがかなり気持ち悪かった。隣に「あれキモイね」って言えるコースケがいないことが、妙に寂しく思えた。
順路に沿って歩いていると一旦建物の外に誘導された。ゆるい坂道を下って地下から建物に入り直す。そして入ってすぐ、最近わたしの中で注目度急上昇中の小動物が展示されたガラスケージを見つけ、その前で足を止めた。
メガネザル。
手のひらに収まりそうなぐらい小さな毛むくじゃらの動物が、あちこちに張り巡らされた木の枝の上をウロチョロしている。まんまるな目、大きな耳。西園で見たゴリラと同じ霊長類カテゴリーにいる動物とはとても思えない、ちびっこくて弱そうで愛らしい生き物。
――ゴリラみたいな人が好きなのよ。
「嘘つき」
意味もなく、ポツリと呟いてみる。でも誰もわたしの呟きなんか聞いていない。手を繋いで歩く若い男女のカップル、小走りに動き回る兄弟っぽい小さな男の子二人組。世界はわたしを無視して、ゆるやかに回っている。
わたしはメガネザルの前を離れ、建物の奥に進んだ。アルマジロやモモンガを適当に見流していると、いつの間にか『小獣館』から外に出てしまう。そのままふらふら、シマウマ、カバ、サイ、キリンと見ていくうちに、上野動物園西園の出入り口である池之端門にたどり着く。
――帰っちゃおうかな。
時間はまだ昼間になったばっかり。出ていく人なんて全然いないゲートを見つめながら、わたしは腿に力を込める。でも最初の一歩を踏み出すことが出来ない。分かっている。わたしは誰かに引き留めてもらいたがっている。ガキなのだ。それを自覚出来てしまう程度には大人でもある、中途半端なガキ。
誰でもいい。誰か、わたしを大人の世界に引き上げて欲しい。わたしの知らないところでくるくる回っている、あの世界へ。
誰か――
「ハルカちゃん!」
――なんで、よりによってあんたなの。わたしはついさっき心の中で呟いた「誰でもいい」という言葉をすっかり忘れ、追いかけてきた矢野さんをじろりと睨みつけた。
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