メガネザル(その2)

 動物園に行く日、天気は曇りになった。

 朝、リビングに行くとママがキッチンで弁当を作っていた。わたしは「なんか雨降りそうだよ」と言ってみたけれど、ママは昆布のおにぎりを握りながら「大丈夫よ」とわたしの言葉を一蹴した。昆布のおにぎりはわたしもママも食べない。食べないものをわざわざ作るということは誰かの好物で、きっと矢野さん。わたしは「昆布の味が移るとイヤだから別々に分けてね」とママに言ってから、顔を洗いに洗面所に向かった。

 露出多めのキャミソールとキュロットスカートに着替えて、リュックを背負ったママと一緒に地元の駅へ向かう。そこでコースケと合流して、次に上野駅の公園口で矢野さんと合流。矢野さんの服装は何の変哲もないチノパンと何の変哲もないポロシャツの合わせ技で、優しめに言ってダサかった。「一応デートなの分かってる?」って気持ちでコースケを改めて見たら何の変哲もない半袖シャツと何の変哲もないジーパンの合わせ技で、さらによく見たらシャツの胸のところに『Fuck me』と書いてあった。わたしはコースケの背中をグーでどんと叩き、コースケは「なんだよ」と口を尖らせた。

 東京文化会館の脇を抜けて広い十字路を真っ直ぐ進むと、すぐに動物園が見えて来た。矢野さんが「チケットを買ってくるよ」と言って列に並ぶ。わたしはどんよりと曇った空を見上げた。そして入園ゲートの上に並ぶ赤い「上野動物園」の文字を見て、頭の後ろの方にもやっとした引っかかりを覚える。

 ――ん?

「ねえ、ママ」

「なに?」

「わたし、もしかしてここ、前に来たことある?」

 ママが目を大きく見開いた。困ったように目線を横に流しながら、口を開く。

「あるよ。二歳ぐらいだったかな。覚えているものなのね」

 ――誰と一緒に?

 質問は口にしないで飲み込む。だって、聞くまでもないから。わたしはパパとここに来たことがある。間違いない。

 わたしはそれを覚えていない。覚えていないけれど、ぎりぎり残ってはいる。パソコンで言うとデスクトップにはもうなくて『ゴミ箱』の中に入っちゃっているけれど、消去はされていないのだ。なのにママはすごく似た名前のファイルを勝手に作ってわたしのデスクトップに置こうとしている。まるで最初からそうなっていたみたいに。

「お待たせ」

 矢野さんが戻ってきた。そして買ったチケットを一枚ずつ配る。最初はママ。その次にわたし。

「はい。ハルカちゃん」

 わたしは無言でチケットを受け取った。パンダの写真の下に「中学生」という文字が記されている。何だか「お前はガキ」だと言われているみたいで気に食わなくて、わたしはこれからすぐに使うチケットを無意味に二つに折り曲げてみた。


    ◆


 動物園に入ったわたしたちは、まずパンダを見に行った。

 生で見るパンダは思っていたより汚かった。黒いところは別にいいんだけど、白いところがあちこち茶色がかっているのはいただけない。ママは「かわいいー」とか言ってどこの女子高生だって感じではしゃいでいた。コースケは「でけー」とか言ってどこの男子小学生だって感じではしゃいでいた。矢野さんはわたしの反応が気になるみたいでちらちらこっちを見ていた。温かめに言ってうっとうしかったので、無視した。

 パンダの後はゾウとかクマとかを見たり、『夜の森』っていう洞窟みたいなところで夜行性の動物を見たりしながらうろうろ歩いた。だいたい、わたしとコースケ、ママと矢野さんのペア。コースケはたまにママとか矢野さんに話しかけたりしたし、その逆もあったけれど、そういう時わたしは日本語を忘れちゃったみたいに無言を貫き通した。

 『夜の森』を出た後は『ゴリラ・トラの住む森』というところに向かった。『ゴリラ・トラ』の住む森なのになぜかトラはライオンと一緒にいて、ゴリラは周囲をガラスで覆われた別の展示場にいた。ゴリラには一頭ずつ名前がついていて、名前と写真とそれぞれの簡単な説明が展示場横の壁に貼りだされている。正直、どれもこれもザ・ゴリラって感じで全部一緒に見えた。

「こんなの出されても、分かるわけないよね」

 上野ゴリラーズの名簿を見ながらコースケに話しかける。コースケは「じゃあ、あいつはどれだと思う?」と言って大きな岩に座っているゴリラを指さした。何が「じゃあ」なんだかさっぱり分からないけど、とりあえず乗ってやることにする。

「モモコじゃない?」

「いや、オレはモモカと見た」

「なんで?」

「モモコはもっと彫りが深いだろ」

「なにそれ。違いわかんないし」

「全然違うじゃん。見比べてみろよ」

 言われた通り、写真のモモカとモモコと岩の上のゴリラを見比べてみる。やっぱりさっぱり分からない。わたしは「分かんない」と呟き、上目づかいで軽くかわいさアピールをしながらコースケに尋ねる。

「ところで、どっちが正解とかはどうやって決めるの?」

「うーん。そうだなー」

 コースケがちらりと目線を横に流した。そして、わたしたちと同じように何か話しながら笑いあっているママと矢野さんを指さして、自分も笑う。

「矢野さんにでも決めてもらうか」

 ――笑えない。わたしは唇をすぼめ、拗ねるように言ってみせた。

「なんで矢野さんなの」

「別に深い意味はないけど、色々知ってそうだし」

「ゴリラの見分け方なんて知ってるわけないじゃん」

「いや、知らなくても適当に決めてくれればいいんだけど」

「ならその辺の通行人でもいいでしょ」

「その辺の通行人よりは矢野さんだろ」

 確かに、と思ってしまった。だから膨れ顔で不機嫌アピールをしつつ黙り込む。するとコースケは困ったように首の後ろを掻きながら、わたしのハートに向かって何の遠慮もない直球を投げ込んできた。

「ハルカはさ、矢野さんのこと嫌いなの?」

 嫌い。

 改めて考えてみる。わたしは矢野さんのことが嫌いなのだろうか。好きではないのは確かだ。なるべくなら一緒にいたくないし、話したくもない。だけどじゃあ矢野さんがわたしに何か悪いことをしたのかというと、別に何もしていない。むしろ矢野さんの奢りで外食に行ったりしている。しゃぶしゃぶ美味しかったな。それはどうでもいいか。とにかくわたしが矢野さんを嫌う理由は一欠片もなくて、だからわたしは矢野さんのことを嫌いではない。なぜなら、わたしは理由もなく人を嫌うような人間ではないからだ。

「別に」

「嘘つけ。嫌いって顔に書いてあんぞ」

 わたしが一生懸命考えた結論が一秒かからずに否定された。ムカつく。コースケのくせに。

「本当に嫌いじゃないし」

「じゃあもっと話してやれよ」

「なにを?」

 コースケがグッと怯んだ。そう、わたしは矢野さんが嫌いだから話したくないのではない。話すことがないから話したくないのだ。だんだん分かってきたぞ。

「……進路のこととか」

「はあ? なんで矢野さんに進路の話するわけ?」

「そりゃ、だって、親になるかもしれないし。相談しないと」

 矢野さんが、わたしの親。

 頭の中にパパのゴリラ顔が浮かぶ。なんとなく、ゴリラーズの名簿の上にパパの顔を乗っけてみる。タカユキ。オス。気難しそうな顔立ちですが根は優しい性格です。家族のことをとても大事にしていて、特に娘のハルカを思いやる行動がよく見られます。

 今はもういません。

「――進路なんか、わざわざ親に相談するほどのことでもないでしょ」

 わたしは、ぷいとコースケから顔を逸らした。

「もうわたし、行きたい学校決まってるし、相談することないもん」

「将来の夢とかあるだろ」

「そんなのまだ先でしょ。コースケだって何も決まってないくせに」

「決まってるけど」

 わたしはバッとコースケの方を振り向いた。コースケが照れくさそうにはみかむ。

「ぼんやりだけど、警察官になりたいなーって思っててさ。親戚に警察の人がいて、その人からたまに仕事の話を聞くんだけど、仕事の話をしてる時のその人は目が輝いてるんだよね。自分の仕事に誇り持ってるんだなーって感じ。そんでオレもそうなりたいと思ってその人から色々聞いてる。スポーツで段持ってたり、英語とか中国語とか出来たりすると採用試験で有利だっていうから、語学は今から勉強始めてるんだ」

 ――なにそれ。

 聞いてない。一ミリも聞いてない。彼女なんだから言ってくれてもいいじゃん。教えてくれてもいいじゃん。っていうか『Fuck me』シャツ着てるくせに語学の勉強とか、説得力ないんですけど。ぜんぜん本気を感じないんですけど。

 右手でグーを作り、コースケの胸を正面からドンと叩く。コースケは「お?」とか言いながらよろめいて、一歩だけ後ろに下がった。それから不思議そうな表情でわたしを覗き込み、尋ねる。

「どうした?」

 なんでもない。どうもしてない。わたしは、正常通りに運行中だ。

「――トイレ行ってくる」

 コースケに背を向けて歩き出す。コースケが「トイレあっちだぞ!」とママと矢野さんのいる方を指さす。うるさい。歩きたい気分なんだ、バカコースケ。わたしは情緒を理解しないコースケへの怒りを地面にぶつけ、大きな足音を立ててその場を離れた。

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