第4話「メガネザル・ダンディ」

メガネザル(その1)

 交通事故で死んじゃったパパのことを、わたしはほとんど覚えていない。

 別にわたしがハクジョーモノなわけじゃないと思う。だってパパが死んだのは、わたしが三歳の時だ。パパのことはそんなに覚えてないけど、パパ以外のことだって同じように覚えてない。「死」がどういうことなのかすら分かってなかった。ちょっとずつ、ちょっとずつ、パパがもうこの世にいないことを理解して、小さな頭の中で「パパがいない」を「パパは死んだ」に置き換えていった。

 お仏壇の遺影とか、リビングのテレビ台の上に飾ってある写真とかに残っているパパの顔はかなりゴツくて、正直「娘は父親に似るっていうけど、わたしが将来こんな顔になったらいやだなあ」って感じ。太い眉、厚い唇、四角く角ばった輪郭。見るたびにゴリラみたいだと思う。

「ママは、なんでこんなゴリラみたいな人と結婚したの?」

 小学校高学年ぐらいの頃、わたしは写真を指さしてママにそう尋ねた。子どもなりに色気づいてジャニーズのアイドルグループにハマっていたわたしにとって、細い眉と薄い唇とシュッと尖った輪郭を持つ男こそが「いい男」でパパはその正反対だった。ママは苦笑いを浮かべながらパパの写真を見て、とても眩しいものを見るように目を細めながら穏やかに呟いた。

「ゴリラみたいな人が好きなのよ」

 なるほど、と思った。だからそれ以上は聞かないで「世の中には変な人がたくさんいるなあ」で済ませた。自分のママを変な人扱いはどうかと思わなくもないけれど、やっぱりわたし的にパパは男としてアリかナシで言ったら「ナシ」で、だからそういうパパと結婚するママはどうしても変な人だったのだ。

 それから中学生になって、二年の秋にクラスメイトのコースケに告白された。コースケは別に超カッコイイわけじゃないけどアリかナシかで言うと「アリ」だったので付きあうことにしてみた。コースケはバカで、おっちょこちょいで、あんまり物事を深く考えてなくて、だけど明るくていいやつだった。わたしの家に来た時にママともすぐ仲良くなっちゃって、おかげでわたしはママから「コースケくんとは上手くやってるの?」とか「コースケくん、次はいつうちに来るの?」とか毎日聞かれるようになった。わたしは軽くうっとうしいなあと思いながら「やってる」とか「そのうち」とか適当に答えて、ママの攻撃をやりすごした。

 だけどある日、その質問がピタリと止んだ。

 日課みたいに聞かれていたことがいきなりなくなって、わたしは戸惑った。子育てについて書かれた本とかコラムとかを読んで、そこに「思春期の子どもの恋愛を詮索するのは止めましょう」と書いてあって、それで止めたのかなとか考えていた。

 だけど違った。確認したわけじゃないけれど、わたしは確信している。その頃、ママは自分も恋を始めていたのだ。だからわたしの恋愛を自分とは別世界の話みたいにからかう気になれなくて、その話題を避けた。

 それをわたしが知ったのは、中学三年生の六月。

 その日は採点の終わった数学の中間テストが返ってきた日だった。わたしは良くもなく悪くもなく。コースケは見事に赤点。わたしは「受験生なんだからちょっと焦った方がいいよ」とか説教しながらコースケと一緒に通学路を歩いて帰った。肩まで伸ばしている髪が湿気であちこちくっついて、もう梅雨だなあなんて思ったりしていた。

 そのうちにコースケと別れて、自分の住んでいるマンションに着いた。いつものように鍵を使ってマンションの総合玄関を開けて、いつものようにエレベーターで四階に上がって、いつものように「ただいまー」と自分の部屋のドアを開けた。そして、いつもとは違うものが玄関にあることに気づいた。

 男物の革靴。

 リビングから楽しそうな話し声が聞こえた。ママと、知らない男の人の声。わたしはもう「ただいまー」と言ってしまっているからとっくに手遅れなのに、そろそろと音を立てないようにローファーを脱いで、忍び足でリビングに向かった。それからリビングに繋がるドアの前で小さく深呼吸をして、ゆっくりとドアを開けた。

「おかえり」

 リビング中央に置いてあるテーブルの傍から、ママがにこりと笑いながらわたしに声をかけた。妙に笑顔がぎこちない気がした。続けてママと向かい合って座っていた、スーツ姿の男の人が口を開いた。

「はじめまして」

 男の人は、眼鏡をかけていた。

 今時そんな眼鏡あるんだって感じの大きな野暮ったい黒縁眼鏡。男の人にしては頭も身体も小さいせいか余計に大きく見える。だけど耳だけはとても大きい。年齢は分からないけれど、顔つきはかなり子どもっぽい。スーツが全然似合ってなくて、サラリーマンというより大学生の就職活動みたい。

 ――なんか。

 なんか、こう、何かに似ている。なんだっけ。芸能人じゃなくて、アニメとか漫画のキャラクターでもなくて、もちろんわたしの友達でもなくて――

 テレビ台の上の写真が視界に入る。パパがこっちを見ている。今にも「おい、なんだその男は」と声をかけてきそうなゴツいゴリラ顔。

 ――あ。

 分かった。

 メガネザルだ。


    ◆


 ミスター・メガネザルこと矢野圭介さんは、ママの恋人だった。

 四月、生命保険のセールスレディをやっているママが矢野さんの働いている会社の食堂に派遣されて、新入社員っぽい人を捕まえては保険に勧誘する仕事をしている時に出会ったらしい。矢野さんは実は三十歳を超えていて、新入社員だと思って声をかけたママはかなり驚いたそうだ。わたしも驚いた。どう見たって大学生だ。アラフォーのママと並ぶとちょっと犯罪感がある。

 それからどう仲良くなったのかは「色々あって」ではぐらかされた。ママが「色々あって」と言った時に矢野さんが照れたように笑いながら首の後ろを搔いていて、なんか無性にイラッと来た。「枕営業じゃん、それ」と言ってやろうかと思ったけれど、その言葉で傷つくのはママの方なので止めておいた。

「そういうわけで、これから仲良くしてね」

 一通り説明した後、ママはそう言った。正直どういうわけなんだか全く分からなかったけれど、わたしは「分かった」と頷いて自分の部屋に行った。その日の夕食はママとわたしと矢野さんで食べた。何を食べたかは忘れちゃったけど、いつもより油っこくて不味かったことだけはよく覚えている。男の人用の味付け。

 それからも矢野さんはちょくちょくうちに来て、わたしとママと一緒にご飯を食べたりどこかに出かけたりした。矢野さんはママのことは「斎藤さん」と苗字で呼ぶくせにわたしのことは「ハルナちゃん」と名前で呼んで来て、控えめに言って気持ち悪かった。ママや親戚の人はわたしのことを「ハルちゃん」と呼ぶし、コースケは「ハルナ」だし、仲の良い友達もそのどっちかだから、わたしのことを「ハルナちゃん」と呼ぶのは世界にただ一人矢野さんだけ。それも何だか気に食わなかった。

 わたしから話を聞いたコースケは、何よりも先に「会ってみたい」と言った。

 ママも「会わせたい」と言って、夕ご飯を一緒に食べてみたらコースケと矢野さんは五分で仲良くなった。テレビで野球を見ながらなんかめちゃくちゃ楽しそうに野球の話をしていた。ついには調子に乗った矢野さんが「今度四人で野球の試合を見に行こうか」とか言い出して、わたしは慌てて「わたし、野球って何が楽しいか全然分かんないし行きたくない」と釘を刺した。

 それが間違いだった。わたしは「野球なんか見に行きたくない」ではなくて「親とダブルデートなんかしたくない」と言うべきだったのだ。そこを間違えたから、恋で頭がパープリンになったママはきっとこう考えてしまった。

 ――野球じゃなきゃいいのね?

 わたしが浮かれきったママから、わたしとコースケとママと矢野さんの四人で上野動物園に行く計画を聞かされたのは、夏休みに入ってすぐのことだった。

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