ライオン(その4)
ようやく立ち上がった俺は、オヤジの後を追いかけなかった。
ふらふら、一人で動物園をあちこち回る。サル、クマ、ゾウ、パンダ。どの動物も寂しい目をしているように見えた。俺に言いたいことがあるのに伝える術がない。それを悲しく思いながらも諦めている。そういう風に、なぜか思えた。
近くにライオンがいることを示す案内板が、ふと視界に入った。
導かれるまま、ライオンの展示エリアに向かう。ガラスのすぐ傍で雄ライオンが横になって眠っている場所を見つける。俺は眠るライオンの傍に歩み寄り、そこに足を落ち着かせてガラスに手を載せた。
太い尻尾。大きな身体。地面に投げ出された四本の足は太く逞しく、足先についた無骨な爪が力強さを強調する。口を開けばその中には、獲物の肉を引きちぎる鋭い牙が見えるはずだ。
百獣の王、ライオン。気高く、雄々しい、俺の憧れ。
「こんなところにいたのか」
背中からしわがれた声が届いた。俺は振り向かない。俺に声をかけたオヤジがすっと俺の左隣に立ち、肩を並べる。
「怜央は大丈夫だ。身体に異常はない。やられたのは、心だ」
そんなこと、言われなくても分かっている。嘔吐するほどに追い詰めたのが俺だということも、ちゃんと。
「――俺は、間違っているのか?」
分厚い透明な壁を隔てたライオンに向かって、俺は語りかける。
「強い子になって欲しい。イヤなことはイヤだと言って欲しい。誰かから何かを奪われるばかりの人生は歩んで欲しくない。そういう俺の想いは、間違っているのか?」
眠っていた雄ライオンがむくりと起き上がった。ガラスの向こうから俺たちをどこか冷めた目で見やり、ぷらぷらと尻尾を揺らしながら離れていく。
力強い声が、左耳の鼓膜を揺らした。
「猫の仔、仔猫。獅子の仔、仔獅子」
ゆっくりと左を向く。ずっと俺の横顔を見ていたのであろうオヤジと視線がぶつかる。オヤジはニッと並びの悪い歯を見せて笑い、どこか上機嫌に言い放った。
「いい言葉だろう。中国のことわざだ」
反応を待つように、オヤジが俺を真っ直ぐ見据える。俺は何も言えず、ただ口を噤んで立ち竦む。やがてオヤジはつまらなそうに口を尖らせて俺から顔を背けると、遠くでのそのそと歩く雄ライオンに目をやった。
「お前は、猫だ」
オヤジは躊躇いなく言い切った。我が子に獅子の名前をつけ、獅子のように育って欲しいと願った俺を、獅子ではなく猫であると。
「俺はちゃんと覚えてるぞ。お前も怜央に負けず劣らずの弱虫だった。そんで俺も今のお前みたいに、そんなお前にやきもきしてなあ。このままじゃ不味いと思って少年野球にぶち込んだわけだ。それでお前は変わったと思ってるみたいだがな、変わっとらん。なーんも変わっとらんぞ。ちびっと偉そうになっただけだ。身内限定でな」
辛辣な言葉が、グサリと俺の胸に刺さった。偉そうになっただけ。身内限定で。
「今日も随分とあっちの家族にイライラしていたみたいだな。だがな、我慢できないならお前が釘を刺せばいいんだ。昴流くんはともかく父親の方になら言えるだろう。それをしないでフラストレーションをぶつけた先が自分の息子か。情けない」
オヤジが大げさに溜息をつき、やれやれと首を振った。
「サルからヒトになるまでお前を育てて来た俺が保証する。お前は獅子じゃない。猫だ。大して強くもないくせに家の中では偉そうで、そのくせ一歩外に出たらビクビクしていて、どこか間が抜けていて――」
頭のてっぺんに、ポンとオヤジの手のひらが乗っかった。
「そういうところが、かわいい」
オヤジが俺の頭をくしゃくしゃと撫ではじめた。俺は勢いよくその手を振り払い、オヤジと向き合う。そして乱れた自分の髪を撫でつけながら、不敵に口元を歪ませるオヤジに向かってボソボソと口を開いた。
「……いくつだと思ってんだよ」
「俺の数え間違いがなけりゃ、今年で三十三だな」
「かわいいって年じゃないだろ」
「我が子はいくつになってもかわいいもんだ。覚えておけ」
ぬかせ。三十三年の人生でアンタにかわいいなんて言われた記憶は微塵もないぞ。気でも狂ったか。ボケジジイが。
俺はふてくされた顔でオヤジを見る。オヤジは余裕ぶった笑みを崩さない。チノパンのポケットに手を入れ、堂々と言い放つ。
「俺は猫のお前をそのまま愛している。だから――」
オヤジが、遠い過去を見やるように目を細めた。
「お前も、猫のあの子を、そのまま愛してやれ」
――クサい。
オヤジには申し訳ないけれど、何よりも先にそう思った。クサい。クサすぎる。人間は年を取ると説教臭くなると聞いたことがあるが、こういうことか。昔のオヤジならば絶対に言わなかった台詞ばかりだ。
オヤジはうっとりと自分に陶酔しきっていた。なに一人で気持ち良くなってるんだ、この野郎。教えてやるよ。俺が猫ってことはな――
あんただって、猫なんだぞ。
「――ことわざじゃない」
顔を上げ、肺の奥からはっきりと声を出す。きょとんと目を丸くするオヤジに向かって、言葉を続ける。
「猫の仔、仔猫。獅子の仔、仔獅子。それは中国のことわざじゃない。日本の漢文の言葉遊びだ。『子』って字は『ね』とも『こ』とも『し』とも読めるだろ。そして漢文で『の』はわざわざ一文字を使って表現しない。だから『子』という字を十二個並べれば『
俺は自分を指さし、ついさっきのオヤジを真似て得意気に言ってやった。
「それをオヤジに教えたのは、昔の俺だ」
漢文で聞いた与太話をオヤジに話す高校生の俺。興味無さそうに聞き流す髪が黒かった頃のオヤジ。しっかり聞いていて、こんな十数年後まで覚えていやがった。それが無性におかしい。
オヤジが眉間に皺をよせ、納得いかないように首を捻った。
「そうだったか?」
間の抜けた返事。俺は笑った。遠くに行ったライオンがちらりと俺たちを見て、同じように笑った気がした。
◆
怜央が横になっているベンチに着くと、妻がじろりと俺を睨みつけてきた。
いたたまれない雰囲気の中、怜央に「大丈夫か?」と声をかける。怜央はこくりと首を縦に振り、固い声で「うん」と答えた。緊張を感じる仕草。元よりそのつもりではあったけれど、どこかで顔をつきあわせて話す必要がありそうだ。
最後に土産を買って、俺たちは家に帰ることにした。小さなギフトショップに入り、榎本家と神崎家に分かれて店を巡る。相変わらず神崎昴流はギャンギャンうるさく、祖父母へのお土産をこれにしようあれにしようと次々と両親に進言していた。
対してうちの怜央は、いるかいないかも分からないぐらいに静か。一緒に店を回るオヤジが「おばあちゃんへのお土産は何がいいと思う?」と尋ねても、小さく口を開いて「分かんない」と答えるだけ。借りて来た猫、という言葉が俺の頭に浮かんだ。オヤジは身内だけれども。
やがてオヤジがレジに向かい、怜央が一人になる。妻が俺の脇腹を肘でつつき、顎で怜央の方を示した。『行って来い』。無言のメッセージを受け取った俺は、ぼんやりとした顔でぬいぐるみの並ぶ棚を見つめる怜央に近づき、声をかけた。
「怜央」
ビクリと怜央が大きく身体を震わせた。そして振り返り、恐る恐る俺を見やる。完全に怯えている。俺は腰を少しかがめ、怜央と視線を合わせた。
「お前は、何か欲しいものはないのか?」
怜央がチラリとぬいぐるみの棚を見た。俺はニコニコと笑みを浮かべながら、焦ることなく怜央の動きを待つ。やがて怜央は棚から家猫ぐらいのサイズのぬいぐるみを一つ取り出し、おずおずと俺に差し出した。
「……これ」
ライオンのぬいぐるみ。
丸っこい身体と黒々とした瞳が愛らしい雄ライオンのぬいぐるみを前に、俺は固まる。ぬいぐるみってお前、男の子だろ。それ買ってどうするんだよ。まさか抱きしめながら眠ったりするんじゃないだろうな。そんなことしていたら、どんどん――
――いや。
「いいぞ。買ってやる」
いいんだ、これで。自己主張が弱くて、いつもビクビクオドオドしていて、女の子が好むようなかわいらしいぬいぐるみを欲しがる。俺はそういう息子を、確かに愛しているのだから。
「――あのな」俺はわずかに目を逸らし、怜央に告げた。「空手、もう辞めてもいいぞ」
怜央の頬がピクリと動いた。俺はなるたけ優しく、言葉を紡ぐ。
「おじいちゃんに聞いた。辞めたいんだろ。お前は優しい子だから、喧嘩したり、人を殴ったり、そういうの好きじゃないもんな。ずっと無理させて悪かった」
俺は頭を下げた。怜央が俯き、フローリングマットの張られた床に視線を落とす。そして少し顔を上げて自分の抱いているライオンのぬいぐるみと見つめあった後、続けてゆっくりと俺を見やる。
「辞めないよ」
今まで見たことのない強い意志の光が、怜央のつぶらな瞳に宿っていた。
「辞めない。ちゃんと続ける。頑張る。ぼくも――」
ライオンのぬいぐるみを抱きしめながら、怜央がにこりと笑った。
「強くなりたいから」
――そうか。
なるほど。理解した。そのぬいぐるみは愛玩用じゃなくて、御神体か。獅子のように強くあれ。俺がそう願ったように、お前もそう思ってくれるのか。
「分かった」
怜央からライオンのぬいぐるみを受け取る。綿と布で出来たぬいぐるみが不可解な重みを持って俺の手にずしりと収まる。俺はその重さを楽しみながら、土産物を選ぶ神崎家に目をやり、ニヤリと笑みを浮かべた。
俺は猫だ。怜央も猫だ。だけど、猫にだって牙も爪もちゃんとある。あんまり舐めた態度を取っているといつか後悔するかもしれないぞ。獅子に憧れる猫と獅子。どっちが強いかなんて、分からないんだからな。
――将来が楽しみだ。
背中が大きく見えるよう少し肩をいからせながら、ライオンのぬいぐるみを手にレジに向かう。レジの傍にいたオヤジが俺と怜央とぬいぐるみを順々に見やり、ふっと何かを悟ったように頬を緩ませた。
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