ライオン(その3)

 昼食は、上野動物園内の食堂で食べた。

 怜央はエビフライ定食を頼み、二本しかないエビフライの一本を「一本くれよ」と昴流に取られた。取られた瞬間、怜央は今にも泣き出しそうな表情で俺を見やったが、俺に睨み返されると意気消沈した様子で添え物のナポリタンをちまちま食べ始めた。昴流は「うめー」と美味そうにエビフライを頬張り、怜央への感謝の言葉は一言も無かった。

 誰の傍にいてもイラつくだけなので、俺は極力、集団から離れて動くようにした。怜央と昴流、オヤジと神崎、俺の妻と神崎の妻、そして俺。四つに分かれた二組の家族で動物園を回る。

 両性爬虫類館なる建物を出た時、妻が周囲を見渡ながら呟いた。

「あれ? 怜央は?」

 いつの間にか、怜央と昴流がいなくなっている。すぐ近くにトイレを覗いてみても見つからない。神崎竜也がポリポリと首筋を搔き、どこか間の抜けた口調で呟いた。

「あちゃー、迷子かー」

 手慣れた言い方だ。あの落ち着かない子どもを持てば、迷子にも慣れるか。

「じゃ、オレ、ちょっとあっち探して来ます」

 神崎が左右に別れた道の左側に駆け出した。続けてオヤジが「俺は中を探してくる」と出て来たばかりの両性爬虫類館にもう一度入る。俺は女性陣を「ここ待っていてくれ」と押し留めつつ、神崎の反対方向に足を進めた。『アイアイのすむ森』という名の巨大な檻をぐるりと回るように動き、子どもたちを探す。

 ――いっそ、昴流だけいなくなってくれないかな。

 思わず、不謹慎なことを考えてしまう。曇天の蒸し暑い動物園を巡りながら不愉快極まりない光景を延々と見せつけられ、俺のイライラは最高潮に達していた。俺は自分の子どもが他人の子どもに虐げられるさまを見たくて家族サービスを計画したのではない。そもそもこれでは家族サービスになっていない。満足しているのは神崎家ばかりだ。

 前方から、もうすっかり聞き慣れたキンキン声が俺の耳に届いた。

「見えねー!」

 残念ながら、昴流の方が先に見つかってしまったようだ。まあ、怜央もすぐ傍にいるだろう。俺は声が聞こえた方に向かい、『アイアイの森』のすぐ近く、エリマキキツネザルが飼育されている檻の前に立つ昴流を発見した

 違和感。

 昴流の頭がいつもより高い。俺と同じぐらいか、下手したら俺より上。どういうことだと俺は目を細めて昴流の足元を見やり、そして――息を呑んだ。

 四つん這いになった怜央が、檻を覗き込む昴流の踏み台になっていた。

 昴流は靴を脱いでいない。土足だ。両性爬虫類館に行く前、俺たちは放し飼いにされている動物を触れる『ふれあい広場』という場所に行った。そこには動物のフンがあちこちに転がっており、昴流は「ゲー! うんこ踏んだー!」と言ってゲラゲラ笑っていた。その動物のフンを踏んだスニーカーの底が、怜央の背中に擦りつけられている。

「もー、いーや。もーどろ」

 昴流がぴょんと怜央の背中から飛び降りた。そして立ち竦む俺の脇を走り抜けて両性爬虫類館の方に向かう。怜央がパンパンと背中についた土を払い、昴流と同じく俺の横を通り過ぎようとした。

 俺は、怜央の首ねっこを掴んだ。

「待て」

 怜央がびっくりしたように目を見開いた。俺は怜央の両肩を両手で抑え、しゃがみ込んで真っ直ぐに視線を合わせる。

「お前、いいのか?」

「え?」

「昴流くんに踏み台にされてたな。あんなことをされていいのかって聞いてるんだ」

 怒りで沸々と血液が煮えたぎる。声の震えを抑えられない。

「パパがどうしてお前に空手を習わせてるか、分かるか?」

 怜央が顔を伏せた。返事を待たず、俺は続ける。

「それはな、強くなって欲しいからだ。嫌なことは嫌だとはっきり言える子になって欲しいからだ。なのに、なんだお前は。ゲーム機を取られて、エビフライを取られて、あっちこっち引きずり回されて、踏み台にまでされて、それでも何も言わないのか。お前はそこまでされて悔しくないのか?」

 俺は怜央の肩を掴む手に、ギュウと力を込めた。

「パパは、悔しいぞ」

 悔しい。本当に悔しい。ライオンのように雄々しく、気高く、生きて欲しい。そういう祈りを込めて俺はこの子に「レオ」と名付けた。なのになんで、あんな躾の足りないクソガキに奴隷扱いされなくちゃならないんだ。許せない。許されない。

 もう、呑気に構えている場合ではない。

 空手で精神を鍛えるなんて回りくどい方法に頼っていたら手遅れになってしまう。荒療治が必要だ。壁を乗り越えるための体力をつけさせるのではなく、下からケツを押して壁を乗り越えさせる。そういう成功体験がこの子には必要なのだ。

「次、昴流くんに嫌なことをされたら、必ず『嫌だ』と言いなさい」

 有無を言わせぬ口調で言い切る。怜央の背中が小さく震えた。

「必ずだ。いいな?」

 ほんの少し、怜央の頭が前に傾いた。俺は「よし」と怜央の頭を撫でて立ち上がる。待っていろ、神崎昴流。俺は怜央の手を引きながら、ずんずんと、妻たちの待つ両性爬虫類館に向かって歩き出した。


     ◆


 それから、怜央は自分から昴流に近寄ろうとしなかった。

 今日一日を何も起こすことなくやり過ごし、俺との約束を有耶無耶にしようとしているのは明らかだった。しかし、昴流はそんなことはお構いなしに怜央につきまとい、断われない怜央は何だかんだで昴流の相手をしてしまう。これなら今日中に機会は訪れる。俺はそう確信した。

 動物園を一通り回り終え、そろそろ帰ろうかという頃、昴流が自分の母親のスカートを掴んで甘えるように言った。

「のど乾いたー」

 神崎竜也が「そこの自販機で好きなもの買って来い」と小銭を昴流に渡す。昴流が小銭を握りしめて自動販売機に猛ダッシュする。その背中を眺める怜央に、オヤジが尋ねた。

「怜央も何か飲みたいか?」

「うん」

「じゃあ買ってきなさい」

 オヤジが五百円玉を怜央に渡した。怜央はほくほくと嬉しそうな表情で昴流と同じ自販機に向かう。やがて怜央は缶のオレンジジュースを、昴流はペットボトルのコーラを買って戻ってきた。戻ってきた時点で昴流のコーラは既に半分無くなっていた。燃費の激しい子だ。

 上野公園に出る門に向かって歩きながら、昴流が美味そうにゴクゴクと喉を鳴らしてコーラを飲む。怜央は温かいスープでも飲んでいるかのように、ちびちびとオレンジジュースを飲む。当然、コーラが先に無くなる。やがて昴流は道端のゴミ箱に空のペットボトルを投げ捨て、怜央が大事そうに抱えているオレンジジュースに目をつけた。

「それ、ちょーだい」

 ――来た。

 昴流が怜央の手からオレンジジュースを奪い取った。怜央が「あ」と声を上げて俺を見る。俺は「分かっているよな」とばかりに頷いて見せる。怜央は一切の遠慮なく他人のオレンジジュースを飲む昴流を見やり、しかし、何を言わずに俯く。

「怜央」

 少し威圧的に名前を呼んでみる。怜央はビクリと身体を大きく上下させるが、やはり固まったまま動かない。情けないが、やはり「壁を乗り越えろ」と命じるだけでは足りないようだ。補助が要る。

 俺は、ツカツカと昴流に歩み寄った。

 オレンジジュースを持つ昴流の右腕を掴み、グイと引っ張る。昴流がきょとんとした顔で俺を見た。妻も、オヤジも、神崎夫妻も、険しい表情で他人様の子どもの腕を掴む俺を不思議そうに見やっている。

「昴流くん。うちの怜央から、君に言いたいことがある」

 俺は昴流の腕から手を離し、代わりに怜央の腕を引っ張って昴流の前に立たせた。丸まった怜央の背中を平手でバンと叩き、「しゃきっとしろ」と命じる。怜央がゆっくりと顔を上げ、不安げに揺れる瞳を昴流に合わせた。

「あ、あのね……」

 怜央の足が、小刻みに震え出した。

「だから、えっと……」

 細い足の震えが全身に伝わる。ガクガク、ガクガク。局地的な地震に見舞われているかのように怜央の身体が揺れる。俺は胸を張り、腕を組み、そんな怜央を黙って見守る。千尋の谷に我が子を突き落とし、這い上がってくるのを待つ親獅子のように。

 頑張れ。

 お前は出来る。

 お前は――ライオンだ。

「その、ジュース……」

 昴流が「ジュース?」と缶に目をやった。怜央の唇が大きく開く。

 コプッ。

 液体の溢れる音が、俺の鼓膜に届いた。


     ◆


 ビチャ、ビチャ、ビチャ。

 濡れた魚を叩きつけるような音を立てて、固形物を含んだ液体が断続的に落ちる。「うえっ、うえっ」とえづく怜央の小さな唇からアスファルトの上に滴る。灰色の地面に、エビフライの切れ端が浮かぶ乳白色の海が広がる。

 ぷん、と饐えた酸っぱい臭いが俺の鼻腔に届いた。臭いは頭蓋に忍び込み、黒い澱となって脳を覆う。思考の焦点が、ぼやける。

 ――吐いた。

 俺は目の前の現実を認識した。だけど俺の脳は、認識した現実の理解を拒む。小説を読むように、映画を観るように、自分とは関係のない世界で起こった自分とは関係のない出来事だと捉えようとする。

 違う。

 俺が見たかった景色は、これじゃない。

「怜央!」

 甲高い妻の叫び声を聞き、俺はハッと我に返った。慌てて怜央の傍にしゃがみ、小さな背中をさすりながら声をかける。

「怜央、大丈夫か?」

 怜央は細い喉を上下させ、苦しそうにはあはあと荒い呼吸を繰り返していた。顔色は真っ白だ。吐しゃ物の臭いが混ざった吐息が、湿った夏の空気に溶けて俺の元に届く。

 怜央が振り返り、涙で潤んだ瞳を俺に向けた。


 『ぼくをいじめないで』


 ――違う。

 違う、違う、違う。そうじゃない。俺はお前をいじめたいわけじゃない。お前を誰からもいじめられない、強い子にしたいんだ。俺はお前のためを思って、お前のためにこういうことをしているんだ。分かれよ。分かってくれよ。

「――怜央」

 肺の奥から、冷たい息が喉を抜けた。

「やり直しだ」

 怜央の瞳が震えた。俺は這いつくばる怜央の肩をポンと叩き、微笑む。

「大丈夫。お前は出来る。お前は、強い子だ」

 優しく、穏やかに、俺は怜央に語りかける。

「パパな、お前が生まれてすぐ、泣いているお前に向かってお前の名前を呼んだんだ。そうしたらお前は少し泣き止んだんだよ。その時にパパは思った。ああ、この子は俺が名前に込めた想いを分かってくれている。ライオンのように強く、逞しく育って欲しいという願いを受け止めてくれている。この子は強くなるぞって。だから――」

 こめかみに、強い衝撃が走った。

 身体がぐらりと揺れる。がりがりとアスファルトに頬を削られながら、俺は地面に倒れ込んだ。殴られた。それはすぐに分かった。誰に。それは分からなかった。俺は両手を地面につき、上半身を起こしてその人物を確認した。

 握り拳を構えたオヤジが、俺を見下ろして吐き捨てるように言い放った。

「いい加減にしろ」

 オヤジが怜央を背負い、「どこか休めるところに行こう」と俺から離れる。妻が、神崎夫婦が、昴流が、俺をチラリと一瞥してオヤジの後についていく。俺はしばらく立ち上がることすら出来ず、怜央が残した吐しゃ物の傍でぼうっと、ただぼうっと、厚い雲に覆われた仄暗い空を見上げていた。

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