ライオン(その2)
「ヘタクソだなー。ちょっと貸せよ!」
耳障りなキンキン声が電車内に響く。元気の良さそうな短髪の少年が、隣に座る気の弱そうな眼鏡の少年から携帯ゲーム機を奪う。眼鏡の少年は「あ」と声を上げ、だけどそれ以上は何も言わない。ただ名残惜しそうに、ゲーム機を奪った少年がゲームをプレイする様子をじっと眺め続ける。
――イヤならイヤだって言えよ。
俺は向かいの座席からゲーム機を奪われた少年――俺の息子、榎本怜央に向かって胸中で悪態をついた。怜央がちらりと俺を見る。『パパ、助けて』。俺はギロリと睨み返す。『自分で何とかしろ』。怜央がさっと顔を伏せた。
「榎本さん」
左隣からゲーム機を奪った少年の父親、神崎竜也が話しかけてきた。安いサラダ油みたいにてらてら輝く金髪を逆立て、穴の開いたデニムをだらしなく腰まで下げたヤンキー崩れ。十八の時に自分の子をこさえたらしく、おかげで息子同士は小学三年生の同級生なのに、父親同士の年齢は干支が半回りするぐらい違う。
「あのゲーム機、いくらぐらいするんすか? オレもあいつの誕生日近いんで買ってやろーかなーって思ってんすけど、あんま余裕なくて」
自分で調べろ。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、俺は大人の対応を返した。
「さあ。私が買ってやったわけではないので」
「え、そーなんすか? じゃあ、奥さんっすか?」
「私ですよ」
俺の右隣から、デコの広い白髪の老人が口を挟んだ。俺のオヤジ、榎本公彦。俺が小さい頃はいつも難しい顔をしている厳格な父親という印象だったが、加齢の共にだんだん角が取れ、今ではすっかり穏やかな微笑みを絶やさない好々爺だ。心なしか輪郭まで丸くなった気がする。
「いくらぐらいでした?」
「二万ぐらいでしたね」
「あー、けっこーしますね」
「孫の笑顔に比べたら安いものです」
「いいおじーちゃんっすね。オレの親父に聞かせてやりたいっすよ」
オヤジと神崎が家族トークで盛り上がる。蓮向かいの席に目をやると、俺の妻と神崎竜也の妻が母親同士で話しこんでいる。妻はそれなりにいいとこ出のお嬢さんなのに、どういう経緯であんな茶髪ワンレンの元レディースと仲良くなったのだろう。「ちゃんと話せば良い人なのよ」と言っていたが、ちゃんと話すようになる経緯が想像できない。
今日は元々、俺と妻と怜央だけで上野動物園に出かける予定だった。
まず、そこに話を聞きつけたオヤジが参加を表明した。まあ、それはいい。数年前に定年退職を迎え、残る人生の全てを費やす勢いで怜央を溺愛しているオヤジが話を知れば、一も二もなく飛び付くのは読めていた。用事があって来られないオフクロ曰く「少しは遠慮しなさいよ」と釘を刺したが、オヤジは「毎日会いに行かないだけ遠慮している」と答えたらしい。とんだ孫バカだ。
しかしその後、神崎一家まで参加することになったのは納得いかない。そりゃあ俺の妻としては、仲良くしている母親仲間から「一緒に行きましょうよ」と言われたら断りづらいのは分かる。でも断って欲しかった。俺は神崎一家が苦手なのだ。元ヤン丸出しの父親も母親も苦手だが、特に苦手なのは息子――神崎昴流である。
「あー、死んだー」
昴流がゲーム機から顔を上げ、素っ頓狂な声を上げる。そしてすぐに再びゲームに熱中する。死んだなら怜央に変わってやれよ。というか、そもそもそれは怜央のゲーム機だろうが。イライラを抱えながら隣の怜央を見やると、眉をハの字にした情けない顔で昴流を伺っており、さらにイライラが増す。
神崎昴流と俺の息子、榎本怜央の関係を一言で言い表すと、漫画版ドラえもんのジャイアンとのび太だ。放送倫理による修正が一切入っていない「むしゃくしゃするから一発殴らせろ」がまかり通る間柄。怜央が昴流に貸したまま返ってこない玩具は数え切れず、その逆は一つたりとも存在しない。なのに、何をされても、何を奪われても、怜央は唯々諾々と昴流に従い続ける。
物心ついた時からずっと、怜央は気弱で内向的だった。スポーツやアウトドアには一切興味を示さず、一日中ジグソーパズルをやったり絵を描いていたりすれば幸せという引きこもり体質。最近は精神鍛錬のために空手を習わせているが、その効果は今のところ微塵も出ていない。この間、道場の師範に稽古中の怜央について尋ねたら「いい子ですよ。いつも誰よりも床をピカピカに綺麗にしてくれて」という返事が返って来た。俺が鍛えたいのはそこじゃない。
「また死んだー」
昴流が嘆く。そして隣の怜央を一瞥もせずに次のゲームを始める。神崎昴流には「誰かと何かを分ける」という概念が存在しない。家でどういう教育を受けているのだろう、といつも疑問に思う。
「――ねえ」
怜央が、昴流に声をかけた。
俺は少し上体を前に傾けた。来たか。ようやく空手の成果が出たのか。期待に胸を膨らませ、次の言葉を待つ。
ゲーム機の画面を指さし、怜央が口を開いた。
「そこ、ダッシュジャンプじゃないと越えられないよ」
「マジで? なんだよそれー、早く言えよバーカ」
「……ごめん」
――期待した俺が馬鹿だった。
身体を座席に深く沈め、首を捻って窓の外を見やる。一面に広がる厚い雲が夏の青空を覆い隠ししている。いっそ、雨でも降ってくれないだろうか。俺は心の疲労を吐き出すように、小さな溜息をついた。
◆
「でっけー! ウンコくせー!」
背の低い柵で覆われた岩場をのそのそ歩くゾウを見上げ、昴流が耳障りなキンキン声を上げる。その隣では怜央が口を半開きにした間抜けな顔で同じくゾウを見上げている。同じ年なのにあのエネルギーの差はいったいなんなのだろう。ガソリン車と電気自動車のように、違う理屈で動いているとしか思えない。
「次いこーぜ! 次!」
昴流が怜央の腕をグイと引っ張る。怜央はもう少し見たかったのか、チラチラと名残惜しそうにゾウを見やりながら昴流に引きずられていく。二人の子どもを追いかけて歩きながら、神崎竜也が能天気に呟いた。
「ほんと、アイツら仲いいっすよね」
そうか、お前の目にはあれが「仲がいい」としか映らないのか。まあ、そうだよな。そうじゃなきゃああいう子どもは育たない。
「腕白な昴流くんと大人しいうちの怜央で、噛み合うんでしょうなあ」
オヤジが神崎に便乗した。オヤジよ、あれを「腕白と大人しい」なんてレベルで済ませないでくれ。「暴君と奴隷」だろう、どう見ても。
「オレは、もーちょいあいつには大人しくなって欲しいんすけどね」
「いや、子どもは偽ることを知らない、剥き出しの個性の塊ですから。無理矢理変えようとするのは良くないですよ」
悟ったようなことを言うオヤジに、思わず舌打ちが出そうになった。妻は相変わらず神崎の妻と話しこんでいる。子ども組、女組、男組といつの間にかすっかり三グループに分かれてしまっている。俺は榎本家と神崎家の二グループに分かれたかったのに。
精神衛生上よくないので、俺はオヤジと神崎から離れてぶらぶらと怜央を追った。そのうち、人工岩と強化ガラスで広々とした空間を囲った、水族館のような展示エリアに辿り着く。飼われているのは大型の猫科哺乳類。すなわち、トラと――
ライオン。
周囲をぐるりと回り、俺は怜央と昴流を探した。すぐ、ガラスに両手をあててへばりついている怜央を見つける。昴流は一人でどこかに行ったようだ。俺は怜央の傍に寄り、声をかけた。
「何を見てるんだ?」
怜央が眼鏡の奥から上目使いに俺を見やった。他人のご機嫌を伺うような目つきがすっかり板についている。小心者の人見知りめ。
「ライオン」
「そうか」
怜央の左隣に立ち、俺もガラスの向こうを覗いた。立派なたてがみをつけた雄ライオンが目を瞑り、ごろりと地面に転がってすやすやと眠りこけている。こうなると威厳もクソもない、ただのでかい猫だ。
「あんまり強そうじゃないね」
同感だった。だが認めるわけにはいかない。
「ここには敵がいないからな。でもいざ戦いになれば、ちゃんと強いぞ」
「本当?」
「本当さ。勇敢に戦って、どんな敵にも勝つ。だからパパはライオンから名前を借りてお前の名前にしたんだ。そういう風に育って欲しいから」
ライオンから怜央に視線を移す。怜央は申し訳なさそうに俯いている。自分が弱く、情けなく、親の期待に応えられていないという自覚はあるのだ。俺はさらにダメ押しを加えることにした。
「だからな、怜央。お前も――」
「おー、ライオンかー」
呑気な声が、俺の言葉が遮った。声の主、オヤジが怜央の右隣で腰をかがませ、怜央と同じ目の高さでライオンを見る。
「こうなっちまうと、ただの大きなネコだな」
俺が胸に留めた感想を、オヤジが思い切り口にした。怜央が嬉しそうに声を弾ませる。
「でも、かわいいよ」
「そうだな。怜央とおんなじで、かわいいな」
オヤジが怜央の頭をくしゃくしゃと撫でた。怜央は首をすくめて照れくさそうに笑う。やがてどこからか昴流が「レオー!」と大きな声を上げ、怜央は慌ててパタパタと軽い足音を響かせて俺とオヤジから離れて行った。
不機嫌全開で顔をしかめる俺に、オヤジが話しかけてくる。
「ずいぶんと機嫌が悪そうだな」
「大事な話をしてたのに、オヤジが割り込んで来るからだよ」
「大事な話?」
「ライオンみたいに強くなれって話をしてたんだ」
「なんだ。まだ諦めてなかったのか。怜央はそういう子じゃないだろう」
そういう子じゃない。割り切った台詞が、俺の神経を逆撫でた。
「だから、そういう子にしようとしてるんだよ」
「無駄だ。お前、怜央が空手を辞めたがってるのを知ってるか? 俺に相談して来た」
知らなかった。目を丸くする俺に、オヤジは続ける。
「人には向き不向きがあるんだ。変わらないものはどうしたって変わらん。やりたくないことを無理やりやらせ続けても、いい結果になんかならんぞ」
人には向き不向きがある。やりたくないことをやらせて続けても無駄。オヤジの言葉を咀嚼しながら俺は考える。なるほど――
綺麗事だ。
「俺はオヤジに無理やりやらされた少年野球で、たいぶ変わったけどな」
俺もかつては、インドア少年だった。
興味のある本や昆虫の図鑑をめくって毎日を過ごす、今の怜央を馬鹿に出来ない立派な引きこもり体質。オヤジはそんな俺を地元の少年野球団にぶち込んだ。体力が無かったから練習は苦しく、不器用だったから監督から怒鳴られまくり、エラーを連発するから仲間から「エラ本」なんてあだ名で馬鹿にされ――と辛いことだらけだったけれど、ひいこら言いながらどうにか小学生時代は少年野球をやり通した。そして中学生になり、一応野球をやっていたんだからと運動系の部活を巡って陸上部に入り、そこからはアウトドア志向まっしぐらだ。おかげで神経もだいぶ太くなった。
環境は人を変える。俺は少年野球に一つも良い思い出を持っていない。だけど俺を少年野球に入れたオヤジには感謝している。あれが無かったら俺は、もっと日陰を渡り歩く人生を送っていたはずだ。
「変わった、ねえ」
オヤジが呆れたように呟く。上から目線で馬鹿にしやがって。いつまでもガキだと思ってくれるな。
「とにかく、うちにはうちの教育方針があるんだ。放っておいてくれ」
オヤジに背を向けて足早に歩き出す。眠っていた雄ライオンが目を覚まし、のっそりと起き上がる。猫みたいどころか、猫よりも鈍そうな動きだった。
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