第3話「獅子の仔、仔獅子」

ライオン(その1)

 誰が悪いのかと言われたら、勢いでタクシーに飛び乗った俺が悪い。

 電車で行くべきだった。ここは花の都、大東京。駅から離れる電車の轟音と次の電車の到着アナウンスが耳の中で合流出来る街。タクシーは金を使って手間を削減するための交通手段であって、時間はその対象ではない。そんな分かりきったことを焦りに捉われて忘れてしまった俺が悪い。それは分かっている。

 だけど情状酌量の余地はあると思う。業務進捗会議という名の下っ端晒し上げ祭りから解放され、携帯を見たら妻が出産のために入院している病院からの着信が何件もあり、折り返したら陣痛が始まってもうすぐ出産、立ち会うと聞いているがどうするのかなんて言われたら、そりゃあ、焦る。会議でしこたま怒鳴り散らしてくれた上司にしどろもどろな説明を施し、「お前の話はどうしていつも要点を得ないんだ!」と無駄に怒られ、出退勤ボードの名札を欠勤表示にすることも忘れて会社を飛び出し、そんな時にタイミング良く――結果的にはむしろ悪かったのだが――空席表示のタクシーが通れば、そりゃあ、飛び乗る。飛び乗って運転手に事情を告げて「全速力で飛ばしてください!」ぐらいのことは言う。自然な流れだ。

 しかし、その要求にタクシーの運転手が「分かりました!」と返すのは違うのではないだろうか。彼は焦っていない。落ち着いて事態を判断出来る。だから彼が返すべき言葉は「お客さん。今の時間は道が混んでいるかもしれませんから、電車で行った方がいいと思いますよ」という、冷静さを欠いている俺を諭すものではないだろうか。例え不利益を被ろうともハンバーガーとポテトとコーラを単品で買おうとする客には「セットにした方がお安くなっております」と声をかける。それが商売を越えた、人としてあるべき姿ではないだろうか。

 だから俺も悪いけれど、延々と続く首都高の渋滞を気の抜けた目で眺めながら、退屈そうに欠伸をかましているてっぺん禿げの中年タクシードライバーも、少しは悪い。

「動かないですねえ」

 んなもん見れば分かるわと噛みつきたくなる衝動を堪え、俺はスーツのポケットから携帯電話を取り出した。病院から連絡は来ていない。

「お客さん」フロントガラスを見つめたまま、運転手が俺に話しかけた。「男の子か女の子か、もう分かってるんですか?」

 世間話。俺はぶっきらぼうに答えた。

「男の子です」

「なら確定ですね。いや、私にも倅がいるんですけどね、医者には女の子だーって言われていたのに実際出て来たのは男の子だったんですよ。男の子判定はモノが見えたということだから確定だけど、女の子判定はただ確認できないだけのパターンもあるから間違えることもらしいですね。おかげで字画まで考慮して考えていた名前がほとんどパーになりまして、どうにか男の子にも使えそうなやつを選んでつけたんです。ところがその倅が最近小生意気になって、どうしてこんな女みたいな名前をつけたんだーってこの前――」

 運転手が流暢に喋る。『俺の息子大全』という名のレコードを脳内のレコードプレイヤーで回し続ける。反して渋滞は、微動だにしない。

「お子さんのお名前は、考えていらっしゃるんですか?」

「考えています」

「いくつぐらい?」

「一つです。これという名前をもう決めています」

 運転手が「ほお」と呟いた。しかし話を広げることもなく、再び『俺の息子大全』に針を落とす。小学四年生。薫くん。背は低め。犬派。算数が得意。寿司はサーモンばかり食べる。会ったことはないし会うこともないであろう子どもの情報を聞き流しながら、俺はこれから生まれる我が子の将来像を思い描く。

 俺はアウトドア派だから、息子もそうしたい。スポーツをやらせるのがいいか。格闘技なんかも悪くない。もっとダイレクトにボーイスカウトに入れるのも良さそうだ。上手いこと釣りなんか趣味にしてくれれば、日曜日は男同士で出かけることも出来る。高校生になったらバイクを勧めて親子ツーリングと洒落こんでみようか。酒は日本酒を好きになってくれたら嬉しいな。新潟辺りの飲み口が上品なやつじゃなくて、少しひっかかりがあるぐらいの方が好きだと話が合う――

「お客さん」

 俺はハッと顔を上げた。眉間に皺を寄せた不機嫌そうな運転手の顔が、バックミラー越しに見える。

「ぼうっとしちゃって、どうしました?」

 ――俺がお前の話を聞かずにぼうっとして何が悪い。

 出かかった言葉を飲み込み、「いえ、別に」とだけ答える。運転手が軽く首を捻り、「ぼうっとすると言えばうちの倅もね」とレコードの再生を再開した。


     ◆


 病院に着いた。

 金を払ってタクシーから飛び出す俺に、運転手が「お気をつけて」と声をかける。何に気をつけろというのか。そう思いながらも「ありがとうございます」と礼を返す。こういうものはぼんやりと誠意が伝わればそれで良い。大事なのは意味ではなく意図だ。

 病院に駆け込み、息を切らしながら総合受付の職員に要件を伝える。若い女性職員が目を丸くしてどこかに内線をかける。そしてしばらく後、どこか申し訳なさそうな顔をして俺に衝撃の事実を告げた。

「奥さまのご出産ですが、ついさっき、無事に終わったそうです」

 終わった。

 俺は腕時計を見た。病院からの電話を受けてから約四時間。馬鹿な。早すぎる。俺のオフクロは、俺を産むときは二日がかりの大仕事だったって――

「お産は、早い人は二時間程度で終えてしまいますから」

 職員が俺の心を読んだ。続けて「つまり安産だったということですよ」とフォローを入れ、呆然と立ち竦む俺に尋ねる。

「まだ分娩室にいらっしゃるようですが、行かれますか?」

 俺はこくりと頷いた。職員が「承知しました」と答え、通りがかった中年女性の看護師が俺を案内することになる。道中、看護師は俺の子が無事に生まれたことを喜び、しきりに祝いの言葉を贈ってくれた。しかし俺は生まれて来るその瞬間に立ち会えなかったショックが尾を引き、上手くやりとりを交わせない。

「こちらです」

 看護師が分娩室の白い扉を示す。俺は扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。医薬品の匂いが、ツンと鼻腔の奥を刺激する。

 泣き声が聞こえた。

 声の方に顔を向ける。医者と助産婦とストレッチャーの上に横たわる俺の妻が視界に入る。妻が眼球だけを動かして俺をじろりと見やり、はあと溜息をついた。

「遅い」

「……ごめん」

 消え入りそうな声で答え、妻にそろそろと近づく。妻は胸に白い布に包まれた塊を抱えていた。泣き声の発生源。医者が塊を取り上げ、笑いながら俺に差し出した。

「元気な男の子ですよ」

 命の塊を受け取る。目を瞑り、小さな手をキュッと握りしめ、羊水で濡れた髪の毛をぺたりと頭に貼り付けた、摩訶不思議な生き物が俺の腕に収まる。俺の息子。俺の半身。俺の――この先の生き甲斐。

 俺は、息子の名前を呼んだ。

「怜央」

 ライオン。

 雄々しく、気高い、百獣の王。君が男の子だと分かったその瞬間から、君にその名をつけると決めていた。何者にも怯えることなく、屈することなく、逞しく胸を張って生きて欲しい。そういう想いを込めて。

 泣き声が小さくなる。そうか。伝わったか。俺は唇をだらしなく緩ませながら、腕の中の息子に声をかけた。

「お前は強くなる」

 迷い無く言い切る。強くなるさ。強くなるとも。俺の呼びかけに応えたお前は、獅子と呼ばれて泣き止んだお前は、絶対に強くなる。

 絶対に――

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