アライグマ(その2)

 クラス全員でパンダを見た後は、小グループに分かれての自由行動だ。僕と優羽は同じグループ。僕が山崎係になってから、僕と優羽が学校の行事で別々のグループになったことは一回もない。たぶん、別々になりたいと言っても周りがさせてくれないと思う。

 僕たちのグループは男子三人と女子一人。僕と、優羽と、お調子者でムードメーカーな男子の鈴原と、頭が良くてクールな女子の菅野。グループに分かれてすぐ、鈴原が動物園の地図を開いてみんなに問いかけた。

「じゃ、どこ行くか決めよーぜ。おれはライオン推し」

「わたしはホッキョクグマ見たいな。須藤くんは?」

「んー。特にこれといって見たい動物はないかなー」

 あと一人。三人の視線が優羽に集まり、鈴原が声をかけた。

「山崎は?」

「……アライグマは、いないんだよね」

「アライグマ?」

 鈴原が聞き返す。菅野が地図を覗きながら「いないみたいだね」と呟き、今いるところからだいぶ離れた場所を指さした。

「でもなかよし広場にいるかもよ。ここにいる動物は地図に載ってないから」

 なかよし広場。

 上野動物園の西側にある動物と触れ合えるコーナー。僕たちは小グループで動物園を回った後、時間になったらそのなかよし広場に集まることになっている。パンダから始まってなかよし広場で終わる、他は自由というのが遠足のルートなのだ。ただしこれは一組と二組だけで、三組と四組は逆になかよし広場から始まってパンダで終わるルートになっている。

 山崎係として言わせてもらうと、このなかよし広場、とても危険だ。

 優羽がいつの間にかいなくなって手を洗っていることぐらい、別にどうってことない。「またか」で済む。だけどなかよし広場では「またか」で済まないことが起こる可能性がある。そうなった時、みんなが優羽を受け入れてくれるかどうか、僕には分からない。

「じゃあ、途中のフクロウとかを見ながらライオンの方に行こう。それからホッキョクグマとかアシカのところに行く。まずはそれでいい?」

 菅野が話をまとめ、鈴原が「オッケー」と同意した。僕と優羽も頷く。その時、地図を囲んで向き合っている僕たちの耳に、甲高い声が届いた。

「あの!」

 四人揃って振り返る。ふわふわした髪の毛とぱっちり開いた目がかわいらしい背の低い女の子と、固そうな三つ編みと少し釣りあがった目が勝ち気そうな背の高い女の子が、僕たちと向かい合うように立っていた。二人とも知らない子だけど、見覚えはある。たぶん隣のクラスの女子だ。

「山崎優羽くんにお話があるんです」

 背の低い方の女の子が震える声でそう言った。ほっぺたをほんのり赤くして、恥ずかしそうに縮こまっている。どんな話なのか。――聞くまでもない。

「……じゃあ、わたしたち、先に行ってるね」

 菅野が空気を読んで場を離れた。鈴原が黙って菅野の後についていき、僕もそうしようとする。だけど優羽にシャツの裾をくいと引っ張られ、僕の足は止まった。

「ケンヤはここにいてよ」

 ――馬鹿か、お前。

 これから愛の告白を受けるのを分かっていないのか、それとも分かっていて傍にいて欲しいのか。本当、こいつは何を考えているのだろう。誰か教えて欲しい。山崎係の僕が分からないのだから、分かる人なんて誰もいないだろうけど。

 僕は渋々その場に留まった。まあ、相手も二人がかりなのだ。こっちも二人いて問題ないだろう。三つ編みの子に睨まれているのが気になるけれど。

「わたし、村上愛梨って言います」

 ふわふわした髪の子が優羽に一歩近づいた。優羽は身体を後ろに傾けて遠ざかる。一応、後ずさりしてはいけないぐらいの思いやりはあるらしい。

「クラスは違うし、話したこともないし、山崎くんはわたしのことを全然知らないと思います。でもわたしは山崎くんのこと、ずっと気になってたんです。だから――」

 どうも話したこともないのに好きになったらしい。さすが、僕の最低八十八倍カッコイイと言われるだけのことはある。

「今日の動物園、一緒に回ってください! お願いします!」

 村上さんが頭を下げ、優羽に右手を差し出した。だけど優羽はその手を取らない。当たり前だ。優羽が他人の手を自分から触るわけがない。ずっと気になってたわりには調べが足りないんじゃないか、この子。

「ねえ」

戸惑う優羽に、三つ編みの子が厳しい口調で話しかけてきた。

「アイリは一生懸命なんだよ。別に今すぐ付き合って欲しいわけじゃないの。今日一緒に動物園回って、無理だと思ったらおしまいでもいい。なら、オッケーでしょ?」

 三つ編みの子がずいと優羽に迫る。優羽がオロオロと目を泳がせ、僕にすがりつくような視線を飛ばしてくる。僕は思いっきり横を向いて、その視線を避けた。

「握手ぐらいしてやってよ! ホラ!」

 三つ編みの子が優也の右手を掴み、村上さんの手に触れさせた。

 ――あ。

 思わず、声を上げそうになった。優羽にそういうことをするとどういうことになるか、山崎係である僕は良く知っている。一言で言うと、びっくりするのだ。熱いストーブを触ってしまった猫が慌てて前足を引っ込めるのと同じ反応をする。

 優羽が右手を大きく払い、村上さんの手を弾き飛ばした。

 パンと乾いた音が響く。優羽が申し訳なさそうな顔をして肩を竦める。村上さんの大きな丸い瞳に、じんわりと涙が浮かんだ。

「……ひどい」

 村上さんがくるりと僕たちに背を向けて走り去る。三つ編みの子が「アイリ!」と叫び、優羽をキッと睨みつけて鋭く言い放った。

「あんた、サイテー」

 すぐに、三つ編みの子も村上さんを追いかけていなくなった。場がシンと静まる中、優羽は村上さんを振り払った右手をパーにして顔の前にかかげ、手のひらをじっと眺める。僕はその仕草から昔のことを思い出した。優羽がしつこく手洗いを続ける理由を理解した、あの時のことを。

「――ま、気にすんなよ」

 僕は優羽の肩をポンと叩いた。優羽がだらりと腕を下げて「うん」と頷く。お前は悪くないぞ。言いかけて、なぜだか言えなくて、僕はキュッと口をつぐんだ。


       ◆


 合流した後、鈴原と菅野は僕たちに詳しいことを聞かなかった。優羽が浮かない顔をしていたから、気をつかってくれたのだろう。だけど気にならないわけはない。歩き疲れたから少し休もうと四人で道端の細いベンチに座り、優羽と菅野が近くのトイレに行った隙に、鈴原が僕に話しかけてきた。

「なあ。結局アレ、告白だったの?」

 僕は、大きく首を縦に振った。

「もち。っていうか、あれで告白じゃなかったらビビる」

「だよな。イケメンパワーってすげえな。おれが女子なら悪いけど、山崎はない」

 同感だった。世の中の女子はもっと見た目ではなく、心がイケメンな男子に目を向けるべきだ。僕とか。

「で、どしたの? フッた?」

「フッたというか、フラれたというか……」

 僕は少し考え、結局、起きたことをそのまま説明することにした。

「なんか小さい方の女の子が、一緒に動物園回ってくれって言いだして」

「うんうん」

「握手してくれって感じに手を出してきて」

「握手? 無理だろ。『ケッペキ王子』だぜ」

「うん、無理だった。それで、三つ編みの子が優羽の手を掴んで無理やり握手させようとしたんだ」

「へー。そんで、どうなったの」

「ユウが告白して来た子の手を思いっきり振り払って、その子に泣かれて逃げられて、もう一人の子にサイテーって言われて、おしまい」

「はー、なるほど」

 鈴原が肩を落とし、深く息を吐いた。

「確かに山崎は変なやつだけどさ、好きでもない相手とやりたくないことやらされそうになって嫌がったらサイテーってのも、変な話だよな」

 全くだ。世の中、変なやつと変な話だらけである。

「でもそっか。そういうことなら納得した」

「納得?」

「うん。別グループからの情報なんだけど、あの女子二人組がさ、今、おれたちのクラスのやつらに聞いて回ってるらしいんだよ」

 鈴原が身体を僕に寄せ、声のトーンを下げた。

「山崎優羽について、知っていることをなんでもいいから教えてくれって」

 僕はごくりとつばを飲み込んだ。あの感じだと「相手のことを良く知って再挑戦」ということではないだろう。もっとドロドロした、良くない感情が隠れているのは間違いない。

「それで、みんな教えたの?」

「おれはさっき小林から聞いたんだけど、一通り言っちゃったらしいよ。あだ名がケッペキ王子だとか、いつの間にかふらっといなくなって手を洗ってるとか、キレイ好きに見えるのにずっと同じハンカチを使っててよくわからないところもあるとか」

 最後の言葉に、僕は息を呑んだ。みんな、優羽のことを思ったよりよく見ている。

「小林は、イケメン顔に騙されて一目ぼれした女子が告る前に相手のことを調べてると思ったんだって。まさか告った後だとは思わなかったってよ」

「まあ、そうだよな。俺も握手しようとしてるの見て調べが足りないと思ったし」

「そんなんでよく告るよな、あの女子も。普通それぐらい調べるだろ」

 語り合う僕たちの背後から、女の子の声が被せられた。

「自信があったんだよ」

 僕と鈴原でバッと後ろを振り返る。いつの間にかトイレから帰ってきた菅野が、ベンチに座る僕たちを見下ろしていた。

「自分がフラれるなんて思ってないの。みんな自分と付き合いたいはずだって思ってて、自分はそこから付き合ってもいい相手を選ぶだけ。それなら相手のことをわざわざ調べるなんて馬鹿らしいでしょ。一組の村上さんだよね。あの子、そういうところあるって、友達からも聞いてるし」

 淡々と語る菅野の言葉を、僕は間抜けに口を開けながらただただ聞き入っていた。衝撃的な話だ。ただし衝撃の中身は、村上さんがそういう自信過剰な女の子で驚いたとかそういうことじゃなくて――

「女って怖えなあ」

 鈴原がしみじみと呟く。そう、それだ。

「そうかな。村上さんかわいいし、そうなっちゃうのも分からなくもないけど」

 村上さんが女子の中でも超特殊な百万人に一人の女の子ならむしろ怖くはない。全然タイプの違う菅野が「分からなくもない」と言ってしまう方が怖い。菅野、そして女子全体を敵に回していいことは一つもないから、言わないけれど。

「ところで、山崎くんは?」

 言われて初めて、僕は優羽がまだトイレから出てきていないことに気がついた。女子の菅野より遅いのはちょっとおかしい。鈴原が僕を見ながら口を開く。

「おい、山崎係」

 はいはい、わかってるよ。僕はベンチから立ち上がり、男子トイレに向かった。

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