アライグマ(その3)

 時間になり、僕たちはなかよし広場に向かった。

 広場の前に一組と二組の全員が集まって点呼を取る。一組がいるということは当然、村上さんと三つ編みの女の子もいるということだ。僕はあえて探さないようにした。僕たちを睨みつける村上さんと目があったりしたらイヤだからだ。優羽も同じ気持ちのようで、不自然なぐらい一組の方から顔を背けていた。

 点呼が終わり、みんなでなかよし広場に入る。ヤギやヒツジが放し飼いにされているからあちこちに動物のフンが落ちていて、とても汚くて臭い。ニワトリとかウサギみたいな小さな動物を触れるスペースもある。アライグマは――

「アライグマ、いないね」

 優羽ががっかりしたように呟いた。すると落ち込む優羽を慰めるように一匹のヤギがすり寄ってくる。身体を優羽にこすりつけ、甘えるように鳴くヤギを見て、優羽は目を細めて右手をヤギの身体に伸ばした。

「かわいい」

 優羽が、ヤギの身体を優しく撫で始めた。

 僕は考える。止めさせるべきか、続けさせるべきか。揉め事が起きる可能性を消したいなら止めさせるのが正解だけど、僕はあまりそれをしたくない。「お前はただでさえ変なやつなんだからこれ以上変に思われないように気を付けよう」と言いたくないのだ。優羽が空気を読んでくれるのが一番良かったんだけど、やっぱりどこまでもマイペースなやつでそれは叶わなかった。

 ――どうしようかな。

 僕はとりあえず周りを見回した。誰かに見られていないかどうか確認するために。

 口をあんぐりあけ、僕たちを見やる鈴原と目が合った。

「山崎、動物さわれんのかよ!」

 鈴原が大声で叫んだ。菅野やユリ先生を含むたくさんの視線が優羽に集中し、僕は頭を抱えそうなる。鈴原、お前は悪くない。悪くないけれど、もうちょっと周囲に気をつかって欲しい。

 優羽は、動物を触ることが出来る。

 大きな犬を撫でるのが特に好きだ。温かくて、気持ち良くて、触っていると幸せな気分になるらしい。そして『ケッペキ王子』と呼ばれる優羽が動物を触れる理由はとても簡単。優羽は潔癖症ではないからだ。

「何それ!」

 金切り声が背中から聞こえた。忘れようもない声を耳にして、僕と優羽はおそるおそる振り返る。思った通り、顔を真っ赤にして僕たちを睨みつける村上さんがそこにいた。

「じゃあ、わたしの手が動物より汚いってことなの!?」

 そうだよな。村上さんだけじゃなくて、今まで優羽が触れなかった人たちみんな、普通はそういう風に考えるよな。だから優羽が動物を触れることは黙っておきたかったんだ。

 村上さんがツカツカと優羽の近くに歩み寄った。そして上向きにした右手を優羽に突きつけ、有無を言わせぬ口調で言い放つ。

「ハンカチ出して」

 優羽はすっかり怯えた様子で、素直にハンカチをポケットから出した。すると村上さんはハンカチをひったくるように優羽の手から奪い取り、地面に落とした。落としたハンカチを靴で踏みつけ、グリグリと動物のフンで汚れた地面に擦りつける。

「これもう、手は洗えないね」

 村上さんが息を切らしながら笑った。僕の背筋をゾクッと悪寒が駆け抜ける。怖い。今度は女じゃなくて、村上さんが怖い。

 優羽が俯き、足元の汚れたハンカチをじっと眺める。優羽は変なやつだけど、クラスのみんなはそれを少しずつ分かっていけたから、こんな剥き出しの敵意をぶつけられたことは今までにない。だからここから優羽がどう動くか、それは山崎係の僕にも読めない。

 泣くか、怒るか。僕はそのどちらかだと思った。だけど、どちらでもなかった。

 優羽は黙ってハンカチを拾い上げ、茶色く汚れたそれを小さくまとめて右手でギュッと包み込んだ。

「――何、それ」

 血走った眼を見開き、村上さんが叫んだ。

「動物どころか、動物が放し飼いになってるところの地面より、わたしの手の方が汚いっていうの!? なんなの、あんた。なんなんだよ。何様なんだよ!」

 村上さんが喚きながら泣き出した。もう夏の暑さなんか比べ物にならないぐらい熱くなっている。泣きたいのは優羽で、何様なのは村上さんだと思うけれど、今はそんなことを言ってもしょうがない。事態を収める方が先だ。

「村上さん!」

 僕は村上さんを呼び、優羽の左手を右手で強く掴んだ。

 びくりと手を引こうとする優羽を力づくで押さえつけ、繋いだ手を村上さんの前に差し出す。村上さんの涙が止まった。赤く腫れた目で、不思議そうに繋がった手を見やる。

「――わかるかな」

 村上さんが僕と優羽の顔を交互に見比べ、首を傾げた。

「ホモ?」

 違う。そうじゃない。僕は大きく息を吸い、お腹の底から声を出した。

「こいつは、相手の方から強く手を繋ぎに来てくれれば嫌がらないんだ。最初はびっくりして抵抗するけど、それでも離すもんかって繋いでやれば暴れたりはしない」

 繋いだ手を優羽がギュッと握り返してきた。――いいんだな。言うぞ。

「こいつは汚れているものを触りたくないんじゃないんだ。みんなが汚れていて、自分は綺麗でいたいから、みんなを触らないんじゃない」

 村上さんが僕たちを見る。鈴原が、菅野が、ユリ先生が、三つ編みの女の子が、色々な人たちが僕たちに注目している。ちょうどいい。みんな、知ってくれ。山崎優羽の、『ケッペキ王子』の本当の想いを。

「こいつが汚れていると思っているのは、自分なんだよ。自分が汚れていて、みんなを汚したくないから、だからみんなの持ち物や身体に触れないんだ」


    ◆


 初めて会ってからすぐ、僕と優羽は友達になった。

 夜のお仕事をしている優羽の母さんは、優羽をよくひとりぼっちにした。僕はそんな優羽を家に呼んで一緒に遊んだ。かわいそうだと思ったわけではない。趣味が全く違う姉ちゃんと遊んでもあんまり面白くないから、隣に住んでいて暇な時すぐに呼べる優羽は、僕にとっていい遊び相手だった。

 そうやって遊んでいるうちに、僕は優羽の変なところがあまり気にならなくなっていった。だから優羽がどうしてそんなに手を洗うのか、他人の持ち物や身体に触れないのかを聞いたりはしなかった。一度姉ちゃんに聞いてみたら「潔癖症なんじゃない?」という答えが潔癖症の説明と一緒に返って来たので、そうなのかなと何となく思っていた。優羽は自分以外のものを汚いと思い込んでいて、だからそれに触れない病気なのだと、そういう風に理解していた。

 だけど違った。優羽が自分からそれを教えてくれたわけじゃない。僕が「もしかして」と思う出来事を目撃し、後で優羽に聞いたら「そうだ」と答えたのだ。その頃にはもう優羽はクラスで『ケッペキ王子』と呼ばれていて、僕は誤解を解いた方がいいんじゃないかと言ったしたけれど、優羽はなんだか寂しそうに笑うだけだった。

 三年生の冬のことだ。

 僕は母さんと一緒にスーパーに出かけていた。夕食のお鍋の買い出し。僕はカートを押す母さんの後ろについて回り、お肉のパックや野菜を買い物カゴに放り込んでいた。「お肉ばっかり入れないで」と怒られたりしながら。

 そこに、優羽と優羽の母さんが現れた。

 優羽の母さんはてかてかした赤いドレスのような服を着て、その上に毛皮のコートを羽織っていた。優羽の母さんが仕事に行くときの格好だ。押しているカートの買い物カゴには、レンジでチンして食べる焼きおにぎりとかチャーハンとか、冷凍食品がたくさん入っていた。

「山崎さん」

 僕の母さんが優羽の母さんに話しかけた。優羽の母さんが「どうも」と答え、僕たちの買い物カゴを覗いて「鍋ですか?」と続ける。女の人らしくない嗄れた声。お酒をたくさん飲むとそうなってしまうのだと、姉ちゃんが教えてくれた。

「ええ。寒くなってきたし、少し楽をしようかなと」

「鍋って楽ですか? あたし、材料切るのとか面倒なイメージしかない」

 優羽の母さんがカラカラと笑う。優羽の母さんは優羽のご飯を作らない。遠足のお弁当すら作ってくれなくて、コンビニのお弁当をそのまま持ってきていた。優羽は全く気にしていないみたいだったけれど、周りはみんな気にしていたし、僕も何だかイヤな気分だった。だから僕は優羽の母さんが料理をしないことを得意げに語る姿を見たくなくて、母さんのシャツを引っ張って声をかけた。

「なー、はやく買い物しようぜー」

 思っていたより、子どもっぽく甘える感じになってしまった。優羽にじっと見られていることに気づき、僕は恥ずかしくなってパッと手を離す。だけど優羽はそんな僕を見て恥ずかしいと思うことはなく、むしろ自分も甘えたくなったのだろう。右手をおずおずと伸ばし、自分の母さんが来ているコートの裾を掴んだ。

 その時だった。

「汚い手で触んなって言ってんだろ!」

 優羽の母さんが優羽を怒鳴りつけ、コートの裾を掴む手をパンと払いのけた。僕は驚いた。僕だって母さんに怒鳴られたり、叩かれたりしたことはある。だけどそれは僕が部屋のお片づけをしなかったり、はしゃいで物を壊してしまったり、悪いことをした時だ。ただ着ている服を引っ張っただけで怒られたことなんて一回もない。

 優羽の母さんが優羽を睨み、優羽を払った手を軽くさすった。お前を叩いたせいで手が痛くなってしまったと言うように。それから優羽からプイと顔を背け、カートを押して僕たちの前からいなくなる。

 残された優羽は立ちすくみ、自分の右の手のひらをじっと眺めていた。まるでそこに宇宙の真理でも書いてあるみたいに、ただ、じっと。

 ――ああ。

 そうか。そうだったのか。でもダメだ。お前がどれだけ手を洗っても、お前があのコートを掴むことは出来ない。だって、お前の手は汚くないんだから。お前はなにも悪くない。悪いのは、間違っているのは、世界の方なんだから。

 優羽がパタパタと自分の母さんを追ってかけていく。僕はその後ろ姿を呆然と見送る。やがてだらりと下がった僕の右手が、温かくて柔らかい感触に包まれる。

 僕の手を取り、母さんが優しく笑った。

「じゃあ、お買い物の続きしようか」

 僕は泣いていた。自分でも、気付かないうちに。

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