パンダ(その4)
めきゃ、と何かが砕ける感触がした。
思い切り腕を振り抜く。新堂の身体が大きく後ろに吹っ飛び、食堂の椅子を何個か巻き込んで倒れる。激しい騒音が食堂を揺さぶり、やがて嵐が去った後のように、シンと静寂が訪れる。
「……帰るぞ」
低い声で呟き、私は朋香の腕を掴んだ。そのまま食堂の出口へと朋香を引きずる。食事を楽しんでいた客たちが、ズカズカと歩みを進める私たちに奇異な視線を向ける。
「ちょっと! ちょっと、待って! 離して!」
朋香が私から逃れようと身を捩る。しかし私は逃がさない。力で朋香を抑え込みながら食堂を出て、曇天の薄暗い動物園を脇目も振らずに突っ切る。
「離してってば! 子供扱いしないで!」
子供扱い。私は前を向いたまま、力強く言い切った。
「子供なものか」
朋香の抵抗が、ほんの少し弱くなった。
「二十過ぎて、大学生にもなって、子供扱いなんてして貰えると思うな。お前は大人だ。立派な成人女性だ。ただ、バカなだけだ」
声が震える。感情が昂る。言葉が、涙が、抑えられない。
「お前はやっていいことと悪いことの区別がつかないバカだ。あの男も同じバカだ。そして、私もバカだ。お前がバカに騙されてバカやってることに全く気づかなかった、最低最悪の大バカ野郎だ」
私は朋香の腕を掴む手に、ギュウと力を込めた。
「お前はバカだ。あの男もバカだ。私もバカだ。みんな、みんな、バカばっかりだ!」
涙で滲む視界に、家族連れが映る。パンダの耳を模したカチューシャをつけた小さな女の子。その女の子とそれぞれ手を繋ぐ父親と母親。幸せいっぱいの光景を前に、私の涙腺がさらに緩む。
私の人生は、私の家族は、こんな風になるはずじゃなかった。当然だ。いつか捨て石となってクビとなるために働く男などいない。いつか既婚親父と未来のない不倫に溺れて欲しいと思って娘を育てる男などいない。それは誰も変わらない。
ではなぜこうなってしまったのか。簡単だ。誰かが幸福を追い求めればその分誰かが不幸を被る。私は、そのエゴの犠牲になった。
会社の利益確保のためにリストラの憂き目にあった。既婚親父の雄としての愉悦のために娘を弄ばれた。誤ったのではない。選ばれたのだ。神という名の悪魔に、ちょうど良い生贄として。
ふざけている。腹が立つ。涙が止まらない。ちくしょう、ちくしょう――
「――だから、子供扱いしないでよ」
朋香が、私に掴まれた腕をぶんと大きく払った。
私は手を離し、足を止めた。朋香が薄く唇を噛みながら私を睨む。夜の湖面に浮かぶ満月のように、潤んだ瞳がゆらゆらと揺れる。
「わたしだって、分かってるの。子供じゃないんだから、自分がバカなことぐらいちゃんと分かってる。でも、好きなんだもん。好きになっちゃったんだもん。どうしようもないじゃん。バカやり続けるしかないじゃん」
朋香の頬に、つうと一筋の涙が伝った。
「誰かが」
朋香が両手で顔を覆った。そして、震える声で語り出す。
「誰かが殴ってでも止めてくれなきゃ、どうしようもなかったの。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
幼子のように朋香が謝罪を繰り返す。肩を、背中を、声を震わせて泣きじゃくる。こんな朋香を見るのはいつぶりだろう。そんなことを考えているうちに、いつの間にか、私の涙はすっかり引っ込んでいた。
朋香の両肩を抱き、頭を優しく撫でてやる。謝罪が途切れ、朋香が盛大に泣き出す。身体から立ち上るシトラス系の香水の匂いを嗅ぎながら、しゃくりあげる朋香の髪を撫でつけるたび、腐りかけていた父性が息を吹き返していく。
この子も戦っていたのだ。バカな自分と、バカな自分の目を覚まさせようとする自分の狭間で。そして待っていた。バカな方の自分の理屈になど一切耳を貸さず、強引に腕を引いて連れ去ってくれる、私のような存在を。
「いいんだ。いいんだよ。お前は悪くない」
お前は悪くない。
私はそう言い切った。例えば新藤の妻からすれば、朋香が悪くないなどとんでもない暴論だろう。だがどうでも良い。私はただ泣きじゃくる自分の娘を安心させてやりたい。それだけだ。
「大丈夫。お前は悪くない」
もう、私はいい。誰のエゴの犠牲になっても構わない。だが朋香をそうするわけにはいかない。この子は、私のエゴで守ってみせる。
人はおしなべてエゴイストだ。人事は会社の利益のために従業員のクビを切り、伊達親父は自分の見栄のために若い異性を弄ぶ。
だが最強のエゴイストは親である。朋香は悪くない。絶対に。誰が、何と言おうとも。
◆
泣き止んだ朋香に、私は「最後にパンダを見て帰ろう」と提案した。
新藤を殴り飛ばした西園を離れて、東園に戻る。戻りながら、朋香がポツポツと新藤のことを語る。付き合って三か月ぐらい。友達と行ったバーで知り合った。チヤホヤしてくれて嬉しかった。不倫が悪いことなのは分かっていたけれど、友達もやっていたから何となく流されてしまった。拙くも正直に語る朋香の言葉を、私は黙って聞き続けた。言いたいことはたくさんあったけれど、それは後で良いと思った。
やがて、私たちはパンダの展示エリアに到着した。二人並んでガラスの向こうのパンダを見やる。パンダは相変わらず緩慢な動きでのそのそと笹を口に運んでいた。もしや今日最初に見に来た時から今までずっとこうだったのではないかと思えるほどに、怠惰な態度が板についている。
「前も言ったけど、デブがゴロゴロしてるだけで仕事になるってのは羨ましいよな」
「前も言ったけど、パパはならないもんね」
「ほっとけ」
「仕事、どうするの?」
「頑張って探すよ。お前たちに苦労はかけないさ」
「ママにも言わなきゃね」
「そうだな。驚くかな」
「驚くでしょ。わたしは超驚いたもん」
「そうか。そうだよな」
「私のことも、言う?」
「何を」
「あの人のこと」
「必要ないよ。もう会わないんだろ」
「――うん」
パンダがゴロゴロと寝転がり、笹を啄む。どれほど見ても、どれだけ見ても、まるで他の行動を示す気配がない。
「こいつから可愛さを引いたら、何が残るんだろうな」
「分かんない。でも一応クマだし、結構強いみたいよ。パンチとか痛そう」
朋香が自分の顔の前に拳を突き出す。そして私を見て、不敵に笑った。
「パパ。あの人のこと、殴ったじゃん」
「ああ」
「あれさ――」
私からもパンダからもプイと顔を背け、朋香が囁くように呟いた。
「ちょっと、カッコ良かったよ」
――そういう言葉は、照れずに真正面から言って欲しい。まあ、いい。言ってくれただけ御の字だと思おう。
「ありがとな」
朋香の頭にポンと手を乗せる。朋香はすぐその手を振り払い、私から少し離れる。私は行き場のなくなった手を下げ、目を細めてガラスの向こうのパンダを見やった。
順当に行けばいつか朋香も、今度はまともな交際相手を私に紹介するだろう。非の打ち所がない完璧超人よりは、どこか少し抜けている男が来ると嬉しい。そうしたら難癖をつけて、怠惰な生活で蓄えた体重を存分に載せた一撃をお見舞いしてやろう。私にはその権利があるはずだ。なぜなら、私はこの子の父親なのだから。どこの誰をどれだけ犠牲にしてでもこの子を守り続ける覚悟を持つ、最強最悪のエゴイストなのだから。
どちらがこの子を一番愛する男か、白黒はっきりしようじゃないか。なあ、未来の旦那様よ。
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