パンダ(その3)
上野動物園は東園と西園に分かれている。東園はパンダやクマやゾウやライオンなどの大型哺乳類が多いのに対し、西園は鳥類や小型の動物、それに両生爬虫類館や動物と触れ合える広場などの一風変わった企画展示物が多い。
ライオンをひとしきり見て回った後、朋香と新藤は西園に向かった。私は二人を尾行しながら不穏な気配が流れる時を待ち侘びるが、その瞬間は一向に訪れない。結果、私は動物園を見て回る二人に連れまわされる形になった。汗まみれになりながら、縋るような気持ちで二人を見つめる。
――頼む。早く別れてくれ。
やがて夕方も近くなった頃、二人が西園の食堂に入っていった。パンダ弁当なる笹の葉に包まれた炊き込みご飯を買い、窓際の席に腰かける。私は朋香の背後に回り、二人のすぐ近くの席に座った。
「今日は歩いたねー」
朋香が弁当を食べながら新藤に話しかける。新藤は「そうだね」と穏やかな微笑みを浮かべながら頷く。なぜだか、無性にイラッと来た。
「でもマー君、体力あるよね。全然疲れてないみたい」
「ジムに通ってるからね。これぐらいなら、別に」
やかましい。いい年ぶっこいて何がマー君だ死にさらせ。ジムに通う前に道徳教室に通った方がいいぞ、アホタレが。
「テレビのイメージだけど、社長さんってジム好きだよね」
「そうかもね。ジム仲間にも自営業者が多いかな」
「やっぱり。時間とお金に余裕があるのかな?」
「……余裕なんてないよ」
新藤の声のトーンが下がった。にわかに、重たい雰囲気が場を支配する。
「前にも言った、会社の件なんだけど」
言いにくそうに目線を流しながら、新藤が口を開く。前にも言った。そういえばトイレで新藤は「伏線を張ってある」と言っていた。未来のない退廃的な色恋沙汰に耽る一方で退路はしっかり確保している。抜け目のない男だ。
「やっぱり難しい。借金がかさんで、どうにも上手くいかない。それで――」
新藤が、朋香に向かってわずかに身を乗り出した。
「僕たち、距離を置かないか。僕もこれから資金繰りに忙しくなる。それに今の僕は、君にふさわしくない」
今まではふさわしかったのか。妻子持ち中年親父がハタチなりたての女子高生とキャッキャウフフという絵面は正しかったのか。自惚れるのも大概にしろ、ボケナスが。
「……それって、別れようってこと?」
新藤は答えない。クーラーの送風のせいではない、底冷えした空気が辺りを包む。
「あたし、マー君が借金まみれでも全然いいよ? ご飯だって奢ってあげる」
テーブルを殴りそうになった。
朋香よ、その男のどこがそんなにいいんだ。パンダから可愛さを差し引いた私に前向きなものは何も残らないのに、この好色社長から肩書きと金の臭いを差し引いて何が残るというのだ。教えてくれ。父さん、出来る限りお前に気に入られるように努力するから。
「……ごめん」
新藤が囁いた。議論にしない。ひたすらに取り付く島もない態度を見せつける。このやり方、知っているぞ。リストラだ。
「ごめんじゃわからないよ」
朋香が言葉を促す。しかし新藤は口を開かない。自分の言いたいことだけを一方的に告げ、相手の聞きたいことは拒絶する。
こういう所業を「狡い」と言うのだろう。そしてそれを「狡い」と問いただせば、新藤はそれも拒絶するという狡さを重ねるのだろう。そうやってこの男は人生を渡り歩き、一つの会社の主となるまでに至ったのだ。
「本当にごめん。どうしようもないんだ。今だって、今月中に五百万どうにか工面しないといけなくて大変なんだよ。それでも君とはしっかり言葉を交わさないといけないと思って、今日はここに来たんだ」
リアリティを出すためか、随分と具体的な数字が出てきた。朋香が浮かない表情でぽつりと呟く。
「わたしじゃ、力になれないの?」
悲痛な声。骨の髄から目の前の男を愛しているのだと分かる響き。
「大変だから別れるんじゃなくて、大変だから一緒に乗り越える。そういう風にはならないの?」
今の朋香と似たようなことを、私も会社の人事部長に言った。
我が社が苦しい状況なのは分かります。しかし、だからこそ、社員一丸となってこの苦境を乗り越える。そういうことにはならないのですか。そのために私に出来ることはないのですか。そう、最後の慈悲を期待して訴えかけた。
その返事は、短く、冷たかった。
「……申し訳ない」
新藤が頭を下げる。投げられたボールを受け止めることなく、壁を張って跳ね返す。朋香の顔が、絶望に染まった。
――決まった。
私はそう思った。新藤もそう思ったのだろう。形の良い唇が、ほんの少し歪む。
しかし朋香が次に取った行動の前に、その歪みは消えた。
「……分かった」
朋香が、すっくと立ちあがった。
新藤が朋香を見上げる。朋香が「ちょっと待ってて」と言い残して席を離れる。そしてそのまま早足に食堂の出入り口に向かい、後には困惑する新藤だけが残された。
新藤と目が合った。「どうしたんですか?」「私にもさっぱり……」と視線で会話を交わす。私は、そういえばあの子は昔から思いつめると突拍子もないことをする子だったと、私と妻が夫婦喧嘩をしている最中に幼い朋香がカスタネットを打ち鳴らしながら乱入してきた出来事を思い返す。
ズボンのポケットで、スマホが震えた。
会社を辞めてからしばらく、電話なんてかかってきたことはない。私はポケットからスマホを取り出した。そしてディスプレイに浮かぶ無慈悲な一文字を目にし、息を呑む。
『娘』
私はほとんど直感的に事態を理解した。いやだ。出たくない。でも私が電話に出なかったせいで、よりおかしな方向に暴走されたら、目も当てられない。
通話状態に切り替え、右耳にスマホを当てる。
「……もしもし」
「パパ? わたしだけど、今、仕事中? 大丈夫?」
仕事中ではないけれど、あまり大丈夫ではないよ。お前のせいで。
「……大丈夫だよ」
「良かった。あのね、わたし、パパにお願いしたいことがあるの」
ああ、そうだと思った。内容も検討がつく。だから出たくなかったんだ。
「なんだ? 言ってごらん」
まだ怒ってはいけない。自分に言い聞かせながら、私は優しく続きを促す。いやに深刻そうな声が、私の鼓膜を震わせた。
「お金、貸して欲しいの」
◆
お金で困ったらまずお父さんに言いなさい。
朋香が大学生になったばかりの頃、私は朋香にそう忠告した。世の中には悪い人間がたくさんいる。そういう人間に都合のいいカモとして認識されたら人生が狂う。だから消費者金融から借金をしたり、胡散臭い儲け話に乗ったりしてはならない、と。
朋香はわたしの言いつけを忠実に守っている。しかし同時に、悪い人間に都合のいいカモとして認識されて人生が狂いかけている。ああ、なぜ私は「既婚者と付き合ってはならない」と朋香に忠告しなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。
「いくらだ?」
「……三百万」
二百万足りない。大したバイトもしていないのにそんな貯金があるのだろうか。まさか、身体を売ったりして残りを稼ぐつもりじゃないだろうな。キリキリと胃を痛ませながら私は問い尋ねる。
「そんな大金、何に使うんだ」
嘘をつかれたら死にたくなる。本当のことを言われてもそれはそれで死にたくなる。なんだこの新手の拷問は。神よ、私が何をした。
「――わたしの」
くぐもった声が、私の右耳に届いた。
「わたしの大切な人が困ってるの。その人を助けたい。お願い、分かって。絶対に働いて返すから」
大切な人。
ちらりと、どこか呆けた様子で私を見つめる新藤に目をやる。なんだ。本当になんなんだ。この男のどこがそんなにいいんだ。ほんの少し冷静になって考えれば、いいように遊ばれていることなど、誰の目から見ても明らかではないか。
「大切な人って、誰だ」
語勢を強める。電波の向こうからは、ただ沈黙が返ってくる。
「それが言えないで、三百万なんて大金を貸せると思っているのか」
言葉が止まらない。苛立ちが抑えきれない。
「お前は何を考えているんだ。昔のお前はそんな子じゃなかった。頭が良くて、冷静で、少し間の抜けた父さんを窘めたりしてくれるいい子だった。これなら立派な大人に育ってくれる。そう思える子だったはずだ」
「……パパ」
「それが、なんだ。いきなり三百万なんて大金を親に無心して、理由を聞けば大切な人のためだとかそれっぽい言葉で誤魔化して。自立の意味をはき違えているんじゃないか。自立っていうのはな、どこに出しても恥ずかしくない自分を確立することだ。自分のやりたいことを好き勝手にやることじゃないんだぞ」
「パパ」
「お前は父さんを見下しているのか? 馬鹿で間抜けでダサい父親だから、適当に言いくるめればそれでいいと思っているのか? 父さんから学ぶことなんて何もないから、正面向いて腹割って話す価値なんかないってことか? だったらこっちにも考えが――」
「パパ!」
左から、朋香の声が聞こえた。
私はスマホを当てているのは右耳である。左から朋香の声がするならば、その理由は一つしかない。私はスマホを耳から離し、ゆっくりと振り返った。
瞼を押し上げ、ぽかんと大きく口を開いた朋香が、予想通りそこにいた。
◆
会ったら言ってやろうと思っていたことが山ほどあった。
しかし一つも出てこない。唐突で最悪な邂逅に言語中枢が麻痺している。やがてどうにか喉から絞り出した言葉は説教ではなく、ただの現状確認だった。
「お前……外にいたはずじゃ……」
「食堂の方を見たら、パパが見えたから。それより――」
落ち着きなく瞳を動かしながら、朋香が私に尋ねる。
「なんでこんなところにいるの? 仕事は?」
一番聞かれたくないところをピンポイントで突かれた。私は反射的に顔を伏せ、小汚い床に言葉をこぼす。
「リストラされた」
朋香が両手で口を覆い、「嘘」と呟いた。嘘じゃない。全て現実だ。私がリストラされたのも、私の娘が既婚親父と付き合っているのも、その親父に入れ込んで私から金を無心しようとしてるのも、全て現実。
「嘘じゃない。リストラされて、でもお前たちには言えなくて、上野公園をぶらぶらしていた。そうしたらお前と――」
私は言葉を切り、所在なさげに私と朋香を伺う新藤を指さした。
「この男が一緒に歩いているのを見かけた。それで、ずっと後をつけていたんだ」
もういい。全て明らかにする。朋香よ、お前もこの男の本心を知るといい。
「後をつけて、浮気調査をしている探偵のフリをしてこの男と接触した。そして浮気を黙っていて欲しいならばお前と別れろと仕向けた。この男はそれを簡単に了承したよ。そろそろ潮時だと思っていたから、元より別れるつもりだったと言っていた」
朋香が新藤を見やる。新藤が視線を逸らす。私は朋香が新藤を問い詰め、新藤がしどろもどろになり、そのまま修羅場から離別に至るという最高の展開を夢想する。
しかし、そうはならない。
「パパ」
朋香が私に視線を戻した。その瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。
「どうして、そんな酷いことするの?」
酷いこと。
裏から手を回して不倫を止めさせようとした。不毛で誤った関係を終わらせ、自分の娘を正しい道に引き戻そうとした。それが、泣きたくなるほどに酷いこと。
「それは――」
私は、震えながら叫んだ
「それは、こっちの台詞だ!」
もうさすがに我慢できない。臨界点はとうに超えた。私は剝き出しの感情を朋香にぶつける。
「自分より二回りは上の既婚者と不倫なんかして、そいつのために親に金を無心して、自分が間違っているとは思わないのか! この男が一番腐っているが、お前も大概だ!」
「だって――」
「だってじゃない! だいたい――」
昂ぶる私と朋香の間に、ぬっと人影が割って入った。
「落ち着いてください。目立っていますよ」
新藤。私は周囲を見渡した。確かに、食堂にいるほぼ全員の視線が私たちに集中している。いったん激昂をおさめる私に、新藤がハキハキと語り出した。
「お父さんだったんですね。娘さんのこと、本当に申し訳ございませんでした。責任をとって、きっぱりと別れさせていただきます」
新藤が深々と頭を下げた。あまりにも素直すぎて毒気を抜かれる。「あ、ああ」ととりあえずの頷きを返す私に向かって、新藤がどこか媚びた笑いを浮かべた。
「それでお父さん。一つ、確認しておきたいことがあるのですが」
新藤が声を潜め、唇を大きく歪めながら私に尋ねた。
「妻には、黙っていてくれるんですよね?」
――この男は。
「いや、浮気調査をしていたわけではなかったようなので大丈夫だとは思うのですが、念のためにと思いまして。なんなら――」
この男は自分が引き起こした私たちの口論を聞きながら、自分の保身のことを考えていた。私への謝罪でも、朋香への言い訳でもなく、自分が最も傷つかない落としどころを、ただひたすらに。
「お金を契約通りにお支払いいたしますよ。手切れ金ということでいかがでしょう。事情を聞くに、これから色々とお困りだと思いますので」
声がやけに遠くに聞こえる。ああ、もうダメだ。止められない。
「――すまん、朋香」
朋香の方を見ずに呟く。朋香が「え?」と短い声を上げた。
「限界だ」
私は、固く握り締めた右の拳を、新藤の顔面に振り下ろした。
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