パンダ(その2)

 パンダのところへ早足で向かう途中、数多くの子供連れ家族とすれ違った。

 私も遠い昔、幼い朋香を連れて家族でこの動物園に出向いた。あの頃の朋香は天使のように愛らしく、私も今より十キロ痩せていた。しかしあの二人はもういない。今いるのはリストラされて平日に行き場なく公園をうろつくメタボ予備軍の親父と、その親父と大して年の変わらない男と逢引に耽る不埒な成人女性である。

 ――どうしてこうなったんだ。

 いくら考えてもこうなった理由が分からない。そもそも私の人生のどこにそんな大げさな分岐点があったというのか。一本しかない道を真っ直ぐ歩き続けたら、辿り着いた先が断崖絶壁などあんまりだ。「ヨブ記」において神はヨブという男の信仰心を試すため、家畜を全て奪い、使用人と子どもを皆殺しにし、ヨブの全身を悪性の腫れ物で覆った。ヨブが何をしたというのか。私が何をしたというのか。阿呆なのか、神は。こんな理不尽な仕打ちを受けて信仰を保ち続ける人間など、人間のあるべき姿として間違っている。

 パンダの展示エリアにたどり着くと、思った通り朋香たちはそこにいた。朋香がガラス越しにパンダを指差し、何事かを話しかけながら男に向かって微笑んでいる。「パパに似てる」。――いや、あるまい。夢を見るのは止めよう。

 生で見るパンダはテレビで見るそれよりも遥かに存在感があり、そして遥かに怠惰だった。もはや餌を喰うのすら面倒といった風体で、寝転がり壁に寄りかかりながら申し訳程度に細い笹を啄んでいる。

 ――もう少しキビキビ動けないのか、お前は。

 他人事どころか他生物事にも関わらず、私はすっかりパンダに感情移入してしまっていた。しかし私の気持ちなど露知らず、パンダはのそのそと笹を喰い続ける。仕方ない。私は淡く無意味な期待を捨てて視線をパンダから外し、そして気付いた。

 朋香がいない。

 私は慌てた。私は自分から姿を表すことが出来ないゆえに朋香と男の逢引きを歯がゆくも陰から見守るしかなかったわけだが、では朋香の方から私を見つける分には問題ないかというと、そんなことはなくむしろ最悪である。一刻も早く、朋香に発見されるよりも先に朋香を発見しなくてはならない。

 私はパンダの下を離れ、近くにあった園内図から朋香たちが次に向かいそうな場所を想像する。ゾウか、クマか、ライオンか。園内の外周を回るようにコースを歩むならライオン、最も近場にある有名所を抑えるならゾウ、パンダと似たような生き物に無意識のうちに釣られて流れるならクマだ。

 私はライオンに向かった。しかし朋香は見当たらない。続けてゴリラも見に行ってみるが、そこにもいない。曇り空で日は照っていないとはいえ季節は夏真っ盛り。私のシャツは汗に塗れ、額には大粒の汗が浮かんでいる。

 売店で冷たいペットボトルのお茶を買い、木陰の下の椅子に座って一息つく。そしてお茶を飲み、焦点の合わない目を虚空に向けながら、私はぼんやりとこの先について思考を巡らせる。

 ――もう、諦めるか。

 そもそも朋香とあの男を尾行したところで私に出来ることはない。神経をすり減らしながら腹立たしい逢瀬を黙って眺めているしかない。その行為に果たして何の価値があるというのだろうか。いや、ない。あるわけがない。

 私はのっそりと立ち上がり、すぐ近くのトイレに向かった。積み重なった心と体の疲労にすっかりぽっきり意志は折れていた。トイレの後に手を洗っている時にはもう、動物園を出て上野駅の喫茶店で涼む自分しか想像していなかった。

 トイレの鏡に映る、あの男の姿を見かけるまでは。

 私は固まった。男は素知らぬ顔でさっさと小便を終え、私の横の洗面台を使って手を洗い始める。自分がトイレに入ってからずっと洗面台で流水に手を浸している不審人物のことなど、まるで気にも止めていないようだ。

 男がポケットからハンカチを取り出して手を拭く。このまま放っておけば男はこの場を立ち去る。そして親子ほど年の離れた恋人との逢引きを思うさま楽しみ尽くす。

 今しかない。

「すいません」

 私は男に話しかけた。男が振り返り、切れ長の瞳で私を伺う。

「なんですか?」

 なんですかじゃない。お前こそなんだ。私はあの子の父親だ。神妙にそこに直れ。

「あの――」

 トイレの鏡が、私と男を同時に捉える。

 汗だくで顔を真っ赤にしている私と、涼しい顔でうっすらと額に汗を浮かべる男。残り少ない髪の毛をぼさぼさに乱している私と、丁寧に撫で付けた豊かな頭髪を微塵も崩していない男。汗で脇が濡れたワイシャツをでっぷりとした身体に貼り付ける私と、芸能人の私服のような洒落たシャツに痩せぎすの身体を包む男。

「私――」

 元々、深い意図があって男を引き留めたわけではない。

 それでも私は自分が朋香の父親であることを明かし、正々堂々とやりあおうぐらいのビジョンは持っていた。私が朋香を心から愛していること、そしてこの状況を親として看過出来ないことを説く。そして男を説得し、別れてもらう。それが正道であり、取るべき行為であると理解はしていた。

 しかし鏡に並ぶ自分と男の格差を見て、私は素直にこう思った。

 名乗り出たくない。

「――探偵なんですけど」


       ◆


「探偵?」

 男が眉をひそめる。無理もない。こんな見るからにサラリーマンな探偵が平日の動物園にいるものか。探偵のくせに目立ってしょうがない。

「ええ、まあ」

 私は首の後ろを掻く。大変なことになってしまった。もう、押し通すしかない。

「――あなた、随分若い女性を連れてますね」

 男の頬が強張った。私はさらにカマをかける。

「ある方から、あなたの素行調査を依頼されているんです。いやあ、羨ましい。あの子、まだ二十歳ぐらいでしょう。ご相伴に預かりたいものですな」

 私は出来るだけ皮肉っぽく、厭らしい言葉を発した。男が居心地悪そうに目を伏せ、トイレの汚い床にポツリと言葉を落とす。

「妻ですか」

 ――やはり、既婚者か。

 私だって男だ。いついかなるどんな事情と可能性があろうとも浮気は良くないなどとフェミニストぶるつもりはない。正直な話、この男の妻への同情心はない。他人事なら勝手にやっていてくれというところだ。

 しかし自分の娘が絡んでいるとなると話は別である。少なく見積もっても二回りは下の女の子に道ならぬ道を歩ませて恥ずかしくないのか、とらしくもない義憤に駆られる。男性としての私は目の前の男を許せても、父親としての私は許すことはできない。そして私は今、男性である以上に父親である。

「まあ、誰だっていいでしょう、それは」

 激情を抑えて淡々と言い放つ。まだ怒ってはならない。冷静になるべきだ。

「さて」

 ここからが本題である。この男が既婚者であると分かった以上、もう朋香とは別れてもらう以外の選択肢はない。仮に一億歩譲って交渉の余地を与えるとしても、自分の妻と別れてから来いという話だ。

「なぜ私があなたに調査のことをバラしたか分かりますか?」

 真一文字に結んだ口を少しだけ開き、男が「いいえ」と答えた。私はやれやれと大げさに肩を竦めてみせる。

「私はね、儲かればなんでもいいんですよ。あなたが幸せだろうと私の依頼者が幸せだろうと、より多くの金が手に入りさえすれば、それで」

 男の口元が僅かに緩んだ。事態を収める糸口が見えた表情だ。

「金ですか」

 芯の通った声が「金なら言い値で払う」と告げていた。得体の知れない自称探偵に予想不可能な金額をふんだくられそうなのに、狼狽える様子がない。どうやらこの男、自分の築きあげた足場が崩れることがあるとしたら、その理由は金銭ではなく体裁らしい。

「私の浮気の証拠を掴んだら、貴方は依頼者からいくら受け取るのですか」

 男の問いかけを受け、私は言葉に窮した。探偵の浮気調査の相場など知らない。しばし考え込んだ後、意地悪く笑いながら問い返す。

「あなたなら、いくら出しますかね」

 男は迷うことなく、右のひとさし指を立てて私の前に突き出した。

「最低でも、百は」

 百。

 百円――なわけはない。百万円だろう。探り合いの段階で当然のように下限を百万に設定してくる男に、私は言葉を失った。同じシチュエーションで私は下限いくらまで出せるだろうか。いや、そもそも下限を提示するという発想がない。私なら「二十までなら」と上限から入る。

「不服ですか」

 黙り込む私に、男が心配そうに尋ねる。私は慌てて首を横に振った。

「いえ、そんなことは」

 つい、小市民の馬脚を現しかけた。男がいぶかしげに私を見やり、私は一つ大きく咳払いをして場を仕切り直す。

「お金は問題ありません。ただ、足りないんですよ、お金だけでは」

「……どういうことでしょうか」

「私が依頼者に、あなたに浮気の兆候はありませんと伝えたとしましょう。しかし依頼者はそれで納得するでしょうか。依頼者は、あなたが浮気していると思うから調査を依頼しているのです。もしかしたら別の探偵を雇うかもしれない。その時、あなたがまたしてもあの若い彼女との不貞の現場を見られ、今度は正しく報告されたとして、私の探偵としての評判はガタ落ちだ。下手をすれば依頼者が怒鳴り込んでくる。だから――」

 私は大きく息を吸い、声調を整えた。

「別れてもらいたいんですよ。あの彼女と。今日中に、私の目の前で、即刻。そしてその上で私は、依頼者にあなたは浮気などしていないと伝えます。そうすれば私は虚偽の報告はしていないし、その後に何を調べられても困ることはない」

 男が俯く。私は畳みかける。

「いいじゃないですか。どうせ軽い火遊びなんでしょう?」

 違う、と言って欲しい。

 もちろん、もしこの男が仮に心から朋香のことを愛しているとして、私はそれを許すつもりはない。別れることは別れてもらう。しかし私は、自分の娘が既婚親父の息抜きとして便利にあてがわれているなど認めたくはない。どう転んでも茶番劇は茶番劇だが、せめて救いのある茶番劇であって欲しい。そこに愛があって欲しいのだ。

「それとも、まさか本気だとでも?」

 誘導を入れる。男が、ゆっくりと顔を上げる。

 毒気のない、何の葛藤も感じられない朴訥とした表情が、私の視界に収まる。

「いや、それはないですけど」

 男があっけらかんと言い放つ。なんだ、あれと別れるだけでいいんですか。心配して損した。そういう気持ちを微塵も隠さない言い方。

 ――貴様。

 いつの間にか、右手が勝手にグーを作っていた。いかん。堪えろ、私。

「では、別れていただけるということでよろしいですね」

「はい。まあ、そろそろ引き時だとは思っていましたので、伏線は張ってあります。私もこういう火遊びには慣れていますからね。綺麗に別れてみせますよ」

 男が得意げに声を張った。面倒な下準備を全て終え、明明白白な結末に向けて邁進するだけになった人間の声だ。私に退職用書類の書き方を説明していた時の人事部長の声がこのような感じだった。

「……それなら、持っていたら名刺を一枚、私に貰えませんかね」

「名刺?」

「契約を交わした証拠が欲しいんですよ。普段は身分証明書のコピーなどを頂いているのですが」

「ああ、そういうことですか。分かりました」

 男がポケットから革財布を抜き、そこから名刺を取り出して私に寄越した。横文字の聞いたことのない会社の名刺。名前は新藤正人。肩書は――社長。

 ――なるほど。

 平日に動物園デートと洒落こむ曜日感覚。やたらと整った身なり。世間体を気にしているような素振り。百万を下限に設定する余裕。全てが繋がった。なるほどなるほど、そういうことか。金と時間の有り余った中年社長の道楽か。残りのそう多くない人生を華々しく彩るために、金で買った装飾物が私の娘か。

 ふざけやがって。

「では、頼みましたよ」

 私はそう言い捨てて男――新藤から離れ、トイレを出た。そしてトイレを出てすぐ、私がお茶を飲んで休んでいた広場で涼む朋香を見かけ、慌てて身を隠す。まもなく私に続いて新藤がトイレから現れ、朋香は「おそーい」と普段より二オクターブは高い声で文句を言いながら、新藤の腕に抱きついた。

「ごめん。じゃあ、行こうか」

「うん。どこ行く?」

「どこ行きたい?」

「えっとねー、じゃあー、ライオンかなー」

 ――朋香。

 色々、本当に色々、お前には言いたいことがある。軽く二時間は説教できる自信がある。だが許そう。全て不問にしよう。やがて目を覚ますお前の全てを受け入れる。受け入れてみせる。

 私は、この世でたった一人の、お前の父親なのだから。

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