曇り空のZOO
浅原ナオト
第1話「パンダ・パンチ」
パンダ(その1)
真夏の強烈な日差しを曇り空が覆い隠す昼下がり、上野駅公園口近くの野外カフェでコーヒーを飲んでいた私が彼女を目撃した際、最初に検討した可能性は「見た目がよく似ている全くの別人」だった。
いくら神が人間の顔面創造において卓越した造形幅を持っているとはいえ、その可能性には限界がある。我々が神の真似事とばかりに興じる福笑いと違って、パーツは自由に創造出来るが、逆に配置位置は極端に制限されるのだ。誰とも全くの類似性を持たない唯一無二の顔を用意出来るわけがない。私だって若い頃は田原俊彦に似ていると言われたことが二回ある。だからたった今、私の目の前を通り過ぎた若い女性が、私の最愛の一人娘によく似ているだけの別人だったとしても何ら不思議なことはない。
しかし残念ながら、どうやら私が目撃した女性は私こと青木伸太郎の娘、青木朋香で間違いないようだった。顔面だけではない。大学生になって急に色気づいてパーマなどをかけ始めた髪、二十歳の誕生日に母親と一緒に買いに行った有名ブランドのワンピース、何から何まで私のよく知る朋香である。彼女が朋香でないと可能性と、私の妻が双子を出産しておきながらそのうち一人を黙って他者に譲渡した可能性を比較したら、後者が勝ちかねない。私としてもまだ後者よりは前者の方が良い。認めよう、彼女は朋香だ。
私はまず事実を冷静沈着に受け止めた。その上で論理的に状況を分析する。視覚情報はあくまで事実であり、真実はその奥にある。その真実の見極めを誤った際に生まれる些細な誤解が後にどれほどのトラブルを生むことか。私や妻がかつて好んで視聴していた大映ドラマも、冷静に事に当たればボヤ騒ぎで済む火種に誤解やスレ違いなどのガソリンをありったけぶち込んだ結果、後世に語り継がれる規模の大火災に至っているような話ばかりではないか。だから、先走るのはよくない。私の娘の朋香が、私とあまり年の変わらなさそうな男性と仲睦まじげに手を繋いで歩いているとしても、それは単に盲人の手を引いて道案内をしているだけかもしれない。
しかしこれまた残念なことに、少なくとも男は盲目ではないようだった。朋香が男の手を引いているというより、男が朋香の手を引いている。傍から見たら仲の良い父と娘の心温まる一時だが、父親は私である。妻が不貞を働いて産まれた娘が朋香であり、私に黙って本当の父親と定期的に会っているというシチュエーションも否定できなくはないが、それならばまだ単なる年の差カップルの方が私にとって救いがある。もっとも、苦しんで死ぬ毒物ではなく楽に死ねる毒物程度の救いでしかないが。
朋香と男は手を繋ぎながら東京文化会館の脇を抜け、奥へと進んでいった。私は飲みかけのコーヒーをテーブルの上に置き、その後をそそくさと追いかける。二人はいったいどこに向かっているのだろうか。公園散策か、美術館か、あるいは――
――動物園。
瞬間、私は三日前に朋香と交わしたやりとりを思い出した。土曜の夕食前、二人でリビングのソファに座りニュース番組を視聴していた時のことである。
「パンダって、存在が奇跡だよね」
誕生日を迎えた上野動物園のパンダが大好きな笹を貰って大喜びという、日曜の予定を決め兼ねている家族に配慮した当たり障りのないニュースを見ながら、朋香が独り言のように呟いた。私は何の気なしに問い返す。
「どうして」
「絶妙なバランスでかわいいんだもん。目の黒いとこなくすだけで割とキモいのに」
私は隈取をなくしたパンダを想像する。なるほど、確かに愛くるしさ八割減だ。幼い頃から朋香の着眼点は鋭い。分析的思考を好む私に似たのだと思う。
ニュースのパンダはでっぷりした下半身を地面に預け、上半身だけを起こしてのそのそと笹を貪り食っていた。怠惰という言葉をそのまま生き物にしたかのような有様だ。
「デブがゴロゴロしながら飯くってるだけでキャーキャー言われるのは凄いよな」
私はテーブルの上に置かれたサラダせんべいに手を伸ばした。ご飯の前にお菓子を食べるのをやめなさいと朋香に言い聞かせ、私自身も染み付いていた間食癖を抑えていたのはもはや遠い昔の話である。
「パパはキャーキャー言われないもんね」
私はせんべいの袋を開けようとする手を止め、春の健康診断でメタボ予備軍と判定された自分の腹に目をやった。そして「まあな」と言葉を返し、せんべいを元に戻す。会話はそれで終わった。
――そうか。あのニュースを見て、上野動物園に行こうと思ったのか。
私は一人納得した。そしてその納得通り、朋香と男は動物園に向かう道を仲良さげに歩き続ける。どのような会話を交わしているかは聞き取れないが、いちいち大げさな動きをしながら満面の笑顔を男に向ける朋香から想像するに、私にとって好ましくない内容であることは間違いないだろう。あんな笑顔の朋香は久しく見たことがない。大学に合格した時ですらもう少し控えめだった。
私は男を観察する。顔の皺などから察するに年齢は私とそう変わらないはずだ。しかし豊かな頭髪に整った甘いマスク、長身痩躯の体型、大人向けファッション紙で見るような洒落た服装と、年齢以外は全くと言っていいほど違う。上野公園より六本木ヒルズの方がよほど似合いそうだ。もし仮に、万が一、あの男が朋香の恋人だったとして『娘は父親と似た男性を好きになる』という俗説はどうなってしまったのか。似ているのは年齢だけである。私としては娘の恋人にそこだけは絶対似て欲しくない。
しかし気に喰わないのは、親子でもないのに白昼堂々と親子ほどの年齢差のある若い異性と手を繋ぐ神経だ。まるで自分の雄としての優位性を周囲に誇示しているようではないか。いい年をしてこれみよがしにああいうことをするのは、社会的には雄として認められない存在――既婚者と相場が決まっているのも気にかかる。身なりが小奇麗すぎるところも裏で男を支える細君の存在を意識させる要因の一つだ。独り者ならばもう少しくたびれていても良い。
本来ならば私は二人の前に姿を現し、直ちにその関係を問い質すべきだろう。恋人ではないのならば、まあ良し。恋人でも純愛ならば――私は反対させてもらうが――一考の余地あり。不倫ならば即刻別れてもらう。私にはその権利がある。なぜなら、私はあの子の父親なのだ。初めて話した言葉がなぜか「とうふ」だったこと、幼稚園の粘土の工作で玉二つ丸めて「雪だるま」を五分で完成させた後に他人にちょっかいばっかりかけていたこと、「つつもたせ」を棒倒しの棒を支える人のことだと思い込んで運動会の練習時に連呼していたこと、あの子の全てを知っている存在なのだ。
しかし口惜しいことに、今の私はその権利を行使することは出来ない。朋香と男に遠慮をしているわけではない。私の問題である。具体的に言うと、場所と時間が悪い。
パンダの誕生日のニュースをやっていたのは三日間の土曜日。すなわち、本日は火曜日である。大半の人間には生きていく金銭を得るための労働があり、私も仕事に出かけると言って家を出た。
しかし私に出かけるべき職場は、今、存在しない。
◆
日本の会社はなかなかクビにならないと言われている。その一般論を受け、つい先日二十年以上勤めた会社をクビになったばかりの私は思う。その通りである。日本の会社は基本的に一度雇った従業員を、能力がないという理由では解雇出来ない。
しかし、企業は人々に雇用を提供することを第一目的として経営を実施しているわけではない。最優先目標として自社の利益が存在し、雇用は副次効果である。副次効果のために本益を失ってしまっては本末転倒であり、支出を下げるために従業員を解雇したい場面というのは必ず生まれ得る。
そこで、従業員を不祥事以外でクビに出来ない日本企業はどうするか。簡単である。従業員の方から自主的に離れるように仕向けるのだ。少なくとも私はそうだった。何度あの陰険な目つきの人事部長と密室で向き合い、私が会社に居続けることが私の人生にとっていかに無意味であるかを蕩蕩と説かれたことか。あいつがどこかの居酒屋で「俺だって辛いんだ」とか悲劇の主役ぶっていると思うと腹が立つ。私の方が辛いに決まっている。
度重なる面談の中で私もそれなりには粘ったのだが、聞いたこともない国にある聞いたこともない孫会社へ出向する話を仄めかされ、さすがに折れた。それからの会社の対応は迅速そのものであり、普段からこの決断から実行へのスピードが出せていればそもそも従業員を減らす事態に陥らなかったのではないかと心の底から思った。そうして私は、無職になった。
まあ、それは良い。いや、全くもって良くはないが、今は問題ではない。問題なのは私がリストラされた事実を家族に話しておらず、月曜から金曜は家からスーツで出かけては都内の大きめの公園をブラブラ散策しているということだ。
もちろん私だって永久に黙っておけるなどとは思っていない。心が現実を受け入れる準備ができるまで、ほんの少し先伸ばしにしていただけだ。その準備期間中に、自分の娘が五十がらみと思われる男と手を繋いで仲良さげに歩いているという、もう一つ受け入れがたい現実が飛び込んで来るなど想定外である。
せめて夕方過ぎならば、あるいは昼間でもビジネス街ならば、朋香の前に姿を表すことも出来た。しかし昼間の上野公園ではそうはいかない。状況説明は不可避だ。
朋香と男は私の予測通り動物園に向かって直進し、入り口近くのパンダせんべいやらパンダまんじゅうやらの捻りの無い土産物には目もくれず、入園券を買って動物園の中に入っていった。私も受付に並んで六百円の入園券を買い、その後を追う。
平日とはいえ、さすがは年間総来客数日本一の動物園。園内は就学前の幼い子どもを連れた家族連れなどでそれなりに賑わっていた。私は迷うことなくある動物の展示エリアへ向かう。上野動物園に来て最初に見に行く動物など、アレしかいない。
パンダである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます