Chapter 5  夜明け

1 クステフ

 エヴァがキッチンに消え、新しいコーヒーを注いできた。

 彼女は二杯目で、僕は三杯目だ。

 エヴァはまた、コーヒーから立ち上る湯気に、匂いを嗅ぐ猫みたいに鼻の先を当てた。


「私は小さい頃から、クステフと話ができたのよ」と、エヴァは言った。

「物心付かぬうちから、私は漠然とではあったけれどクステフの心が読めたみたい。最初はそれが私だけの特別な力だなんて思ってなくて、誰だってクステフとは話ができるんだって当然みたいに思ってたわ。私にとってクステフは、双子の姉妹みたいなものだったかもしれない。

 私はクステフと色んな話をした。

 Fのこともクステフから聞いて知ってた。

 クステフは、Fがどこへ消えたのかを知りたがってたわ。

 クステフがFのことを未だに好きだってことも知ってて、当時の私は、Fのことをおとぎ話の中の王子様みたいに思ってた。

 だって、クステフがそんなに思い続ける相手なんだから、それはそれはすごい美男子か、あるいはそうじゃなくても、クステフと同じ姿をした立派な雄の猫なんだろう、なんて思ってたの。

 Fが実は歳老いた精神病患者だったということを知ったのは、随分とあとになってから。

 その頃の私は、今ほどに心を明確には読めていなかったし、クステフの方も、まだ普通の猫とあまり変わらなくて、しっかりとしたイメージを常に心に抱いているというわけではなかったから」


 コーヒーの表面を見つめるエヴァの表情が、少し弱々しくなっていることに気付いた。

 エヴァは、猫だったクステフとの遠い思い出を振り返って、感傷的になったのかもしれない。

 彼女特有の強気な笑みが、今は一時的に姿を隠しているように見える。

 僕は熱くなったコーヒーカップに唇を当てたり離したりしながら、エヴァの続きを聞いた。


「そのうち、少しだけ大きくなると、と言っても、まだ四歳か五歳くらいの頃なんだけど、私はクステフだけじゃなくて、人の心もだんだんと読めるようになった。

 それが、私だけの特別な力だということも、何となく理解したわ。

 そして、私がそうやって成長するのと同じように、クステフもまた、少しずつ成長したの。

 クステフは以前よりも、ずっと安定した自我を持つようになったし、人と変わらないくらい論理的に思考するようにもなった。

 それだけじゃないわ。

 私が人の心を読めるようになったみたいに、クステフも、何らかの新しい力を得たみたい。

 クステフは、それまでは私と一緒に眠っていたのに、その頃には、夜になると私の部屋を抜け出して、マリアンホールの裏の芝生の上で眠るようになった」


 僕はコーヒーカップを唇から離して、顔を上げた。

 エヴァは、さっきからずっと時間が止まっていたみたいに、まだコーヒーの表面を見つめたまま、湯気に鼻の先を当てている。

 僕の視線に気付いたのか、彼女も顔を少しだけ上げて、

「そう。あなたが毎晩寝てるあの場所よ」と言った。


「どうしてそんな所で寝るの、と訊いたら、クステフはこう言ったわ。

 『Fを探してるの』って。

 まるで今のあなたみたいよね」


「それってどういうこと」と、僕は訊いた。


「私にも分からないわ。でももう少し話をさせて」

 僕は頷いた。


「クステフは、Fの居場所をぼんやりとだけど感じ取る力を身に付けたみたいだったわ。

 『芝生の向こう側のどこかに彼がいる』

 クステフはそう言って、毎晩芝生の上で寝たの」


 そこまで話して、エヴァは一旦口を横に結び、眉間に僅かな皺を寄せた。

 コーヒーカップはまだ手に持ったままだ。


「当時の私はそれがすごくショックだった」と、エヴァは言った。

「今まではどんな時も一緒だったのに、彼女は突然、私のベッドじゃなくて、芝生の上なんかで眠りだしたのよ。

 私はそれが悲しかった。

 私は、彼女が自分だけの新しい場所を見つけたことに、焼き餅を焼いたの。

 私もそこで一緒に寝ると言ったら、彼女は私を拒絶したわ。

 一緒にいると彼が現れないから、って。

 私は、Fを一人占めする彼女が許せなかったし、それにまた、まるで、Fに彼女を取られたような気持ちにもなった。

 私はFが嫌いになったわ。

 そして次第に、……彼女のことも。

 そして、怒った私は、彼女に対抗するみたいに、私も私で、自分だけの秘密の場所を作ることにした……」


「屋上?」と、僕は予想を言った。


「そう。あなたの読んだ留学記を書いた著者……、シンジと私が出会ったのは、その頃なのよ」


 そう言うと、エヴァはようやくコーヒーカップに口を付けた。

 それに合わせるように、僕もコーヒーを飲んだ。

 温度は丁度良かった。


 コーヒーを少し口に含んだエヴァの表情には、さっきあった眉間の皺が消えている。

 けれど、依然コーヒーの表面だけを見つめ続ける彼女の表情は、どこか悲しげだ。

 俯き気味の彼女の目は、金色の睫毛が邪魔をして、僕の角度からは見えない。


「私はクステフと、以前ほど話をしなくなった。

 だけどその代わり、狭山と仲良くなった。

 しょっちゅう屋上で狭山と会って遊んだわ。

 狭山はずっと年上だったけど、私は彼が好きだった。

 そうするとね、今度はクステフが、そのことを気に食わなくなった。

 ね、おかしいでしょ?

 クステフが自分だけの場所を見つけて、Fにかまけるばかりで私をないがしろにすることに私が腹を立てたのと同じように、彼女の方もまた、私が狭山とばかり遊ぶのが許せなかったのよ。

 特別な力を持ってはいても、私達はまだまだ幼くて、そんな子供地味たことで、いがみ合っていたの」


 僕は再び、エヴァの後ろに飾られている写真を見た。

 そのうちの二枚には、猫のクステフが写っている。

 そこには、小さなエヴァと狭山も、一緒に写っている。


「私達三人が一緒に写ってるのはその二枚だけ。そんな風に詰まらないことで喧嘩をしてたから、私も彼女も一緒に写るのを嫌がったんだけど、写真の授業でどうしても必要だからって、シンジが三脚を立てて撮ったのよ」と、エヴァも後ろを振り返って写真を見ながら言った。


 彼らのちょっと複雑な関係というのが、何となく想像できる。

 エヴァやクステフより何歳か年上の狭山は、二人が本当は仲がいいはずなのに、ちょっとしたことでこじれてしまっているのを見て、写真を撮ることで、二人の仲直りのきっかけを作ろうとしたのかもしれない。


 僕はふと、ビッケ君の盗んだ雑誌『ワンダーライフ』に載っていた、ピントのズレたカラー写真のことを思い出した。

 そう言えばあの写真には二人は写っていたが、猫のクステフの姿はなく、代わりに水色の光が写っていた。

 あの写真もやはり狭山が撮ったのだろうか。


 すると、エヴァは目を丸くして、

「よく、そんな写真見つけたわね」と、驚くように言った。


「日本の雑誌に載ってたんだ」


「それはあの時の……」と言って、エヴァは何かを思い出すように目を細めた。


「そう。それは三枚目よ。二枚を撮った数週間後に、シンジが同じ場所で、もう一度撮ろうと言ったの。……でも、でもね、それが最後になった」


 そこでエヴァは重たい溜め息をついた。

 それから、持っていたカップをテーブルに静かに置いた。


「三枚目を撮る時、シンジのセットしたカメラが、シャッターを切ったその瞬間、カメラのフラッシュと一緒に、水色の光が私達を包んだの。

 眩んだ目に視界が戻った時には、後ろにいたはずのクステフの姿が消えていた。

 本当に嘘みたいに消えたの。

 跡かたもなく。

 私とシンジは、彼女を必死に探し回ったわ。

 消えたんじゃなくて、どこかへ走って逃げたんだ、って思って。

 でも、どんなに探しても彼女はいなかった。

 次の日も、次の日も探したけど、どこにも彼女はいない。

 私達には、とうとう彼女を見つけられなかった。

 私達は、現像された写真に写る、私達を囲う水色の光を見て、彼女がその瞬間に、超常的に消えてしまったことを、納得するしかなかった」


 エヴァは、限りなく弱々しい表情をしてそう言った。

 表情どころか、声までも。


 僕も、カップをテーブルに置いた。

 エヴァみたいに音を立てずに置きたかったが、僅かに音が鳴ってしまった。

 僕のコーヒーは、半分にまで減っていたが、エヴァのコーヒーはほとんど減っていない。


「でも、彼女がどこへ消えたのか、私には分かってたわ……。

 Fの居場所を感じ取る力を得ていた彼女は、きっと、ついには、Fの元へ自分から移動する力を手に入れて、旅立ってしまったのよ。

 私は後悔した。

 とっても後悔した。

 何を後悔したかっていうとね、ちゃんと『いってらっしゃい』を言ってあげられなかったことをよ。

 私の友達は、シンジが現れるまで、ずっと彼女だけだったのに。

 そして彼女の友達も、私だけだったのに。

 最後は、お互いに気まずいまま、彼女は行ってしまったの。

 私、私ね、その写真を撮る時……」


 そこでエヴァの声が滲んだ。

 僕は、びっくりしてエヴァの方を見た。

 エヴァは堂々と胸を張り、背筋を伸ばしてソファに座っている。

 しかしその顔は歪んで、目から大きな涙の粒が一つ、ぽたりとガラスのテーブルの上に落ちるのが見えた。

 エヴァは震え出した声を元に戻そうと精一杯息を吸って、それからもう一度言い直した。


「……私ね、その写真を撮る時、彼女を後ろに立たせたの。

 最初は、彼女はシンジと私の間にいたのよ。

 シンジがそうしようって言ったの。

 でも、私はそれがやっぱり嫌で、シャッターが切れる直前に、クステフを……足で蹴って、後ろに追いやったのよ。

 彼女、きっとびっくりしたでしょうね。

 その時、どんな気持ちだったろう。

 私、彼女がいなくなったあとになって思って、なんてことしたんだろうって、私達、本当は仲のいい友達だったのに、ずっと一緒にいた、双子の姉妹のような友達だったのに……、詰まらない意地の張り合いで、ほんのちょっとだけ気まずくなってただけなのに……、そんなのすぐにまた仲直りできたのに……。

 私は、三人が仲良く笑って写るはずの撮影で、彼女の小さな体を足で蹴飛ばして、そして彼女は、Fの元へと消えたのよ」


 エヴァの顔が赤くなっていた。

 目も腫れている。

 エヴァは服の袖で涙を拭った。


「ごめんなさい。

 ずっと忘れたけど、あなたが見つけたその写真を、あなたの心の中で見て……思い出しちゃって。

 そうよ。

 それはその時の写真ね。

 その写真がそのあとどうなったのかまでは知らなかったけど」


 僕は何となく、クステフと僕との最後の時のことを思い出した。

 僕がクステフの話すFに嫉妬して、そのままお別れを言えず、最後になってしまったことを。

 似ている。

 僕も、エヴァと同じように、クステフに笑って手を振ることができなかった。

 

「でも、もしかしたら彼女は、Fを見つけたのかもしれない。

 あるいはまだ見つけていなくて、探してる最中かもしれない。

 いずれにしたって、クステフは人間の姿になったのよ」

 と、エヴァは僅かに笑みを取り戻して言った。


「じゃあやっぱり、僕が芝生の上で会ったのはクステフなんだね? エヴァの友達だった猫のクステフが、人間の姿になった……」

 僕は確認するように言った。


「そうよ。彼女が時折この丘に戻って来ていることは分かってるの。

 今は暗いから分からないけど、そこの窓からあなたの寝ている場所が見えるわ」

 エヴァは僕の右手にある窓を指した。

 ブルーのカーテンの隙間から見える外はまだ真っ暗だった。


「私は大学に入るまでずっとこの部屋に住んで、毎日窓の外を見ては、彼女が戻ってくるのを待っていたし、私がギリシャの大学に留学している間は、この上の階に住んでいる父やシンジが、私の代わりに丘を見守っていたの。

 でも四六時中見守ってることはできなくて、私達が目を離してる隙に、彼女は戻ってくるみたい。

 まるで私達から隠れるみたいに。

 もしかしたら彼女はまだ私のことを怒っているのかもしれないわ」


「どうしてクステフが戻ってきてるとか、人間の姿になったとか分かったの? 僕の漫画で知ったの?」

 僕は、テーブルの上に置きっ放しになっている自分の漫画を見て言った。


「あなたの描いた『sleeping on the hill』も情報の一つだったし、それ以外にも、極稀にだけど、ここの従業員や生徒達の中から、目撃情報があったりするのよ。

 最初は何かの間違いかもしれないとも思ったけど、目撃した人達の心を覗けば、それが本当に彼女だとすぐに分かった。

 そして、そんな情報がある度に、私達はその情報がいたずらに広まらないように対応したりする。

 そしたまた同時に、その情報によって、彼女が今もどこかで生きているということを知って、私達は彼女の幸せを願うのよ」


「じゃあ、夏の間、僕を脅したのも、その対応の一環だったけわけだ」


「まあね。ごめんなさい」


 ここまでの話が全部が本当なら、エヴァのこれまでの態度には、おおよそ納得がいく。と言っても、エヴァの言葉を今更疑ってなどはいないのだが。

 しかしそれでも、

「なんだそうか。そういう理由があったのなら仕方ない」

 だなんて納得のいく素振りをしながら、素直に言うつもりはない。

 そんなことを言ったら、僕はエヴァの脅しにぶるぶると震えていた、と認めるようなものだ。

 だから僕は、全然気にしていないし、脅されたとも実は思っていなかった、というような態度で、「別にいいさ」と、なるべく興味なさげに答えた。


 が、するとエヴァは、いつものように見下すような目をして、にやりとほくそ笑んだ。エヴァは僕の心を覗ける。僕の強がりなど、丸っきり筒抜けだった。

 僕はそれに気付くと小さく溜め息をついた。もしかしたら顔が赤くなっていたかもしれない。


「でも、まさか雪が降ってるのに、それでも芝生の上で寝続けるほどとは思わなかったわ。

 ローウェンがここに漫画を持ってきた時には、もう雪が降り積もってて、もしやと思って行ってみたら、案の定雪の中に埋もれてる。

 しかも、それでも朝が明けるまで出る気はない、なんて決め込んでるんですもの。

 私の負けよ。

 それで、あなたには全部を話すことに決めたわけ」


 僕は、ソファの背もたれに、ずしりと体を埋めた。

 温かい部屋で温かいコーヒーを飲み、十分に体温も回復できていたし、エヴァとの会話の中で、ようやくいくらかの謎も解けて、緊張の糸はほぐれていた。


「クッキーはまだあるわよ。もっと食べれば? お腹が減ってるんでしょう?」と、エヴァがにやにやとしながら言った。


 僕はもう強がるのを止めて、素直にその言葉に従った。

 チョコクッキーを口に放り込むと、やはり美味しい。

 僕はその甘さを堪能した。

 落ち着いた気持ちでチョコクッキーを食べていると、僕は自然とクステフとのことを思い出した。

 彼女もチョコクッキーが好きだった。

 頭の中に彼女の声が響いて、あの時の光景が蘇った。


 ……「あのさ、君は私のこと忘れちゃったけどね、でも、私のこと好きなら、なってもいいよ?」

 と、彼女は小さな声で囁くように言った。

「私のこと好きなら」という言葉の部分にどきりとしながらも、彼女が何のことを言っているのか、すぐにはその意味が分からなかった。

 彼女の唾液の付着した自分の口をぽかんと開けていると、彼女は言葉を付け足した。

「なってもいいよ? 私達、友達に」

 それを聞いた途端、僕はその場で飛び跳ねたくなった。

 昇りつつある朝日と、その光を浴びたロッキーに向かって、東と西の両方の空に向って、大声で歓喜の声を上げたくなった。

 昨日、彼女が消えてしまう直前に僕が言った言葉を、彼女は憶えていたのだ。

 昨日僕は少しだけ声を震わせながらこう言った。「友達になる? 僕ら」

「やった……」と、僕は喜びを噛み締めながら言った。

 すると、彼女は少しだけ意地悪そうに笑った。

 それから人差し指を僕の顔のすぐ目の前に立てて、

「その代わりさ、また持ってきてくれない? いひひ。チ、チョコレートクッキー」と言った。

「持ってくるよ。友達だから」と僕は言った。

「やったね。ありがと。明日も現れるからねっ。一緒に食べよ?」


 気付けば、僕の目から涙が落ちていた。

 口の中に広がるチョコクッキーが甘くて、切なくて、僕は泣いてしまったようだ。

 それは、もう二か月以上前の、非現実的な出来事だった。


 それからの二か月、彼女を求め続けた月日を振り返ると、彼女との出会いはずっと昔のことのようにも思えたし、また、心の中に蘇った鮮明な彼女の笑顔が、それをつい昨日のことのようにも思わせる。

 そして、今では確信がある。

 それは非現実ではなく、現実に起きたことだ。

 彼女は存在していて、今もどこかにいる。


「ねえ、そうすると、クステフは今も時々、この丘に現れてるんだよね」と、思わず流した涙を拭いながら僕は言った。


「そうよ。

 私は一度も巡り合えていないけれど。

 いつ現れるのかが不確定なの。

 でも、もう会えなくてもいいのよ。

 彼女がFと会えて、幸せならね。

 そして、私や父やシンジには、この大学を守っていくという使命があるの」


 エヴァは、僕を見下すような目から一変し、とても優しい深い目で、そう言った。

 心から、クステフの幸せを願っているのが分かる目だ。


 僕は、エヴァのその言葉を訊いて、体中にみるみると力が湧き上がるのが分かった。今なら何でもできるというくらい。

 僕は間違ってなどいなかった。

 確かに、クステフがいつ現れるのかは誰にも分からない。

 しかし、絶対に現れないということはないのだ。

 ずっとあの芝生の上で朝を迎える限り、いつかは出会えるのである。

 もしかしたら、僕が芝生の上で寝るのを諦めていた夏の終りの数日の間にだって、彼女は現れていたかもしれない。

 そう思うと、僕はそわそわとして、いても立ってもいられない。

 僕はブルーのカーテンの隙間から見える窓の外を見た。

 外はまだ暗かった。

 だが、朝はさっきよりずっと近くなっているはずだ。


「今何時?」と、僕は訊いた。


「五時半よ」と、エヴァは、僕の背後に視線をやって答えた。

 振り返ると、僕の丁度真後ろの壁に時計が掛けてある。


 僕は急いで立ち上がると、扉の横に掛けておいた上着を取って羽織った。

 上着はまだ乾き切っておらず、水分を吸ってずしりと重い。

 袖を通すと、肩の辺りが冷たかった。

 僕の後ろでソファから立ち上がったエヴァが、溜め息を漏らすのが分かった。


「あなた……、本当に好きなのね」と、諦めたように言う。


 僕は振り返って、エヴァの顔を見ながらただ頷いた。

「そうだ」という意味と、「話してくれてありがとう」という感謝の意味を込めて。

 エヴァはにこりと笑った。

 言葉にしなくても、彼女は僕の心が読める。

 彼女はもう見下すような目ではなく、僕に何かを託すような、あるいは羨ましそうな目をして、僕を見つめていた。


 僕は扉を開けると、非常灯だけが灯った廊下に出ようとして、ふと足を止めた。

 後ろを振り返り、「チョコクッキー、少し分けてもらえる?」と、エヴァに言った。

 エヴァは僕がそれを言う前に、既にチョコクッキーの入った筒を手にして持って来ていた。


「私達の大好物だったの」

 エヴァはエメラルドグリーンの瞳を目の右上に寄せて、昔を懐かしむように言った。

「そうだったんだ。クステフは憶えてたよ。食べた時、懐かしい味だって言ってたんだ」

 エヴァは嬉しそうに頷いた。

 そして、扉の横に掛けてあった彼女のマフラーを取ると、それを僕の首に巻いた。

 エヴァのマフラーもまた、少し濡れていて冷たかったが、いい匂いがした。


「マフラーを貸すわ。あと懐中電灯も。凍死しないでちょうだいね」


 エヴァは、僕の手に懐中電灯を握らせ、その上から自分の手を重ねて言った。

 僕がかつて脅えていたエヴァの手は、思っていたよりずっと細くて小さい。


「うん。もし会えたら、君が会いたがってることを伝えるよ」と、僕は言った。

「ありがとう」と、エヴァは言った。


 僕は、暗いパンホールの廊下を一気に駈け出した。

 走る足音が、寝静まった建物内に、うるさいくらい反響した。

 でも、僕はもっと速く走りたかった。

 早くしないと、朝が明けてしまう。


 僕は、ビッケ君のことを思い出した。

 去年の夏、彼はウォルシュホールの廊下にライターの油を捲き、そこに燃え上がった馬のたてがみのような炎と、全力で競争をした。

 僕は、その時の彼のようなスピードで廊下を走った。


 パンホールの入り口の扉を、体当たりするみたいに開け放つと、真っ暗な外に飛び出た。

 雪は、これっぽっちも衰えていない。

 懐中電灯で照らすと、僕とエヴァの足跡はすっかり消えていた。

 踏み出すと、膝まですっぽりと埋まる。

 僕は前のめりになり、両腕を振り回しながら走った。


 なんとかいつもの場所に戻ると、寝袋やリュックは雪に隠されていた。

 それを手で掘り返す。寝袋はびしょ濡れだった。


 寝袋に入り直すのを諦めて、濡れた手を、自分の両脇に挟んだり口に当てたりして温める。

 体は走ったおかげでそんなに寒さを感じなかった。

 それより耳が痛い。

 手で覆うと信じられないくらい冷たくなっている。

 特に左耳が痛かった。


 ふと、空の黒さが僅かに薄まってきていることに気付く。

 東の空を見やると、真っ暗な雲の中に、一部分だけ、まるで抜け落ちたみたいに穴が開いている。

 穴の向こうには、朱色の空が覗き、そこだけ燃えてるみたいに見える。

 雪の中に立ち、その部分を貫くように見つめ続けた。

 その穴は、まるで僕の視線によって溶け出したみたいに、どんどんと広がっていった。


 そして、ついに輝く朝日の先端が顔を出した。

 ただ真っ黒だった周囲の雲の輪郭が、見る見る内に立体的に浮かび上がり、東の空が一気に荘厳な雰囲気に包まれ出す。

 眩しい命の光が、その雲の割れ目から溢れ、未だこちらで降り続ける雪と、反対側に聳え立つロッキー山脈の山肌を、幻想的に照らした。


 夜が明け、朝が訪れた瞬間だった。


 僕はその朝の中に、『彼女』の姿を探し、そして『彼女』の名前を叫んだ。


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スリーピング・オン・ザ・ヒル Chapter 4 未明 AaaassaAAAAASSSAA @jiscald

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