4 彼女達の出会い
エヴァは、テーブルの下に付いた棚から一枚の写真を取り出して、チョコクッキーの入ったバスケットの隣に、滑らすように置いた。
写真は、やはり白黒だったが、写真の印画紙そのものが茶色く焼けていて、また、角や端がひび割れたように破れており、それが随分と古いものだと分かる。
僕は、ソファから少しだけ身を乗り出して、その写真を覗き込んだ。
写真に写っていたのは、一人の老人だった。
頭は禿掛かっており、目は焦点が合っておらず、頬はこけ、カッターで切り刻んだような皺が、顔の至る所にある。
まるでミイラのよう。
「そこのマリアンホールが、二十年前まで病院だったのは知ってる?」
と、エヴァはコーヒーを飲みながら言った。
「知ってる」
僕は、ランドリーの下の階を思い出した。
学生達は、一度は肝試しだと言ってそこを訪れる。
僕も一度だけ行ったことがある。
……鍵をこじ開けて、手術室だった部屋に忍び込んだ。
薬品の臭いがして、暗い室内を懐中電灯と照らすと、中央には手術台があり、床の割れたタイルの上には、シャーレや点滴用のチューブなんかが散乱しているのが見えた。
そして、同じく床に落ちた真っ黒なボロ雑巾を見て、それが血に染まった布だと思い込んだ僕らは、悲鳴を上げて逃げ出した……。
「この学校が、昔は修道院だったことも知っているわよね。それはもう百年以上前のことだけど。当時は、精神を病む修道士が多かったらしくて、そうした修道士達を治療するための精神病院として開業したのが始まりよ」
エヴァは話しながら、コーヒーカップを頻繁に顔に近づけては、そこから立ち昇る湯気に鼻の先を当てた。
やがてコーヒーが冷めて、湯気が立たなくなると、彼女は残りのコーヒーを一気に飲んで、コップをテーブルの上に音を立てずに置いた。
「修道院が閉鎖されて、建物を大学として利用し始めたのが、今から五十年前。それで修道院はなくなったけど、病院の方は独立してしばらくは営業を続けたらしいわ。精神病院としてね。修道院時代からの患者がまだ何人か残っていたからよ」
「それで、この写真はその頃の患者の一人?」
僕は、エヴァの話の少し先を言い当ててやろうと思い、そう言った。
「そうよ」
と、エヴァは言った。
僕は一ポイントを得点した気になった。
「精神病の患者で、その後、病院が閉鎖されるまで残った、最後の一人とか?」
「その通り」
僕は二ポイント目をあげて、勝ち誇ったような気分になった。
しかしそこまでだ。
では、この写真の人物がいったい誰なのかと言うと、結局それは、僕には皆目見当も付かない。
エヴァは、僕が次の答えを言い当てるのを待つみたいに、足を組んで、膝の上に両手を置いた。
「降参。僕には分からない。この人は誰なの?」
エヴァは足を組み替えて、一呼吸置いてから答えた。
「当時の記録によると、この患者は脳に重い障害があって、数年おきに記憶を無くしてしまったそうよ」
「記憶?」
僕は聞き返した。
「そう。自分の名前も、過去の思い出も、何もかもを忘れてしまったんですって。それも数年が過ぎる度に」
僕は緊張した。
もう寒くはなかったが、一瞬だけぶるっと身震いをした。
「でもね、ドクターが飼ってあげていた猫のことだけは、不思議と憶えていたそうよ。猫の名前はやっぱり毎度忘れちゃうんだけど、それでも顔を見たら、すぐに嬉しそうに抱いて背中を撫でたらしい。記憶を失ってすぐは、どんな人や、どんな他の猫を見せても怖がるのに、そのドクターの猫にだけは、毎度瞬時に心を開いた。ドクターが記録していたカルテから分かったことよ」
僕は、エヴァの言葉を聞きながら、テーブルの上の古い写真に写ったミイラのような老人の顔を、じっと見ていた。
じっと見ながら、僕は当時の老人の心の様子を、できるだけ想像しようとした。
老人の身になって、全てを忘れてしまう恐怖を想像しようとした。
しかし無理だった。
そしてまた同時に、僕は『彼女』がかつて僕に話して聞かせた、昔の夢の話を思い出していた。
そこに登場にした男と、今エヴァが語った老人の話には、多くの共通点があるからだ。
僕は『彼女』から、ある年齢に達すると、自ら若返り手術を受けて記憶をリセットしてしまう狂った男の話を聞いた。
男は毎度あらゆる記憶を忘れてしまったが、まだ猫だった頃の『彼女』が彼を訪れると、彼は毎度同じように『彼女』を愛したと言った。
僕はその話を聞いた時、その狂った男に嫉妬したものだ。
僕はもう一度、テーブルの上の写真の老人の顔を見やった。
エヴァは、向かいのソファに座って、僕の方を見ていた。
エヴァの視線に気付いて顔を上げると、エヴァのエメラルドグリーンの目が、深く沈んでる。
まるで僕の心の中を覗いているような目だ。
現にそうなのかもしれない。
「そうよ」
と、エヴァは唐突に言った。
僕はひやりとする。
「そう。この写真の老人の名前はF。クステフがあなたに話して聞かせた男と、同じ名前よ」
僕は頭がこんがらがった。
Fが実在した人間だというなら、『彼女』はいったいどうなるんだろう。
『彼女』は自分のことを元は猫で、ロボットだと言った。
しかし『彼女』の話の中では、Fは数年おきに記憶を失うのではなく、ある一定の年齢に達すると自ら若返り手術を受けるのだ。
エヴァの話と『彼女』との話には若干のズレがある。
二人の言うFが、同一人物かどうかまではまだ分からない。
けれど、二つの間にある類似点は、偶然とは思えない。
僕は自分を落ち着かせようと意識的に深呼吸をした。
深くゆっくりと。
既に冷めていたが、エヴァがさっき新しく注いでくれていたコーヒーを口に運んだ。
すると、エヴァの後ろの壁に飾られている、狭山と幼いエヴァと猫の写った、例の写真が目に入った。
じゃあ、あそこに写っている猫というのは、この老人が毎度憶えていたと言う、ドクターの猫なのだろうか。
「その通りよ」
と、心を読んだエヴァが頷きながら答える。
「さっきも言った通り、この患者は、病院が閉鎖される直前まで残った最後の患者だった。閉鎖後はデンバーの市立病院に移る予定だった。ところが、病院が閉鎖されると決まって数日が経った頃、この患者は忽然と姿を消したの。この患者は独房に閉じ込められていた。姿を消した時も、独房には鍵が掛かったままになっていた。病院内には何人もの人がいたのに、誰も彼が逃亡する姿を見なかった。彼は嘘みたいに消えたの。そして、いなくなった彼の代わりに、彼の独房には一匹の猫と、一人の赤ん坊がいた」
「え?」
僕はエヴァの話の中に唐突に現れた、赤ん坊という言葉に躓いた。
「猫の方はあなたの想像通り、ドクターの猫よ。いつもはドクターの部屋で飼われていたのに、この日に限って、いつの間にか独房の中にいたの」
「赤ん坊って?」
僕は溜まらず訊いた。
猫の方は分かったが、赤ん坊なんて、今までの話には一度も出てきていないし、そんな写真もなかった。
「独房の中には、ドクターの猫と、赤ん坊が取り残されていた。Fという患者がどこへ消えたのかが分からないのと同様、その赤ん坊が、何故そこにいたのか、今も誰にも分からない。完全な謎なの。赤ん坊は、その時大学の職員をしていた私の父に引き取られたわ。私の父はその頃、事故で妻と娘を失ったばかりで、赤ん坊を引き取ることで悲しみを埋めようとしたの。父は引き取った赤ん坊を実の娘のように育てたわ。そして、赤ん坊の傍にはいつもドクターの猫がいた。猫を取り上げると赤ん坊が泣いたの。だから父は、ドクターから猫も譲り受けた。赤ん坊は猫と一緒に育ったのよ」
僕はエヴァの顔をまじまじと見た。
ボーイッシュな金色のショートヘアをしていて、目はエメラルドグリーンで、鼻筋の通った端正な顔。
その顔は、僕の脳内で、狭山の撮った写真の中のおさげの少女の顔へと変わり、更に時を遡って、小さな赤ん坊のあどけない無垢の表情へと変わった。
「まさか。つまり、その、その時の赤ん坊が、君?」と、僕は唖然としながら訊いた。
「そうよ。そして猫の名前は、クステフ。私達はそうやって出会ったの。それが私と彼女との出会いよ」
と、エヴァは真っ直ぐに僕を見つめながら言った。
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