3 エヴァの部屋

 そいつの持った懐中電灯だけを頼りに、靴が全部埋まるくらい積もった雪の中を進んで、ようやく辿り着いた先は、アドミニストレーションビルの裏にあるパンホールの入り口だった。


 来賓か職員しか利用できないパンホールに、僕は一度も入ったことがない。

 学生は立ち入り禁止になっている。


 建物の中もまた暗かった。

 電気は消えている。

 しかし、非常灯の緑の光が廊下を照らしている。


 扉を潜り、廊下に入ると、十分に温められた空気が、寒さで強張った僕の全身を包むのが分かった。

 その温かさに、並々ならぬ安堵感を得て、僕は思わず、

「助かった」

 と、独り言を呟いて溜め息をついた。


 僅かな光だが、非常灯の存在にも、僕は感謝した。

 雪の降りしきる視界のきかない闇の中にいて、光もなく、色もなく、音もなく、本当に世界から取り残され、二度と夜は明けないのではないか、というほどの心細い気分になっていたのだ。


 そいつが傘を畳む間に、僕は、自分の全身をびっしりと覆った雪を手で払った。

 そいつは畳んだ傘を、入口の隅にある傘入れに放り投げた。


 廊下を進むそいつのあとをついて歩いた。

 廊下は消臭剤の臭いがした。

 そいつの履いているブーツのかかとが、床をこつこつと叩く。

 その音が、暗い緑の廊下に静かに反響した。


 いくつかの扉の開いたままの部屋の前を通り過ぎたが、どの部屋も真っ暗だった。

 誰も宿泊していないのだ。

 居残って残業をする職員はほとんどいないし、たまに遠方からの来賓を泊めるくらいで、普段は無人の建物になっているようだ。


 そいつは、廊下の突き当たりの部屋の前で止まり、扉を開けた。

 扉が開くと同時に、眩しい光が溢れた。

 室内は電気が点けっ放しになっていた。


 扉を入ってすぐ横の壁に、そいつは脱いだコートやマフラーやニットを掛けた。

「入って。あなたもそこに濡れた上着を掛けなさい」

 と、そいつが言ったので、僕は言われた通りにした。

 僕の上着は、雪の水分を吸って随分と重くなっていた。


「コーヒーを入れるわ。座って待ってて」

 そいつはキッチンの方へ姿を隠した。


 丸いガラステーブルを挟んで置かれた二つのソファの片方に、僕は腰を下ろした。

 僕のズボンもまた、上着と同じように濡れていたので、座るのが少しだけ躊躇われた。

 ソファは高級そうな黒い毛皮に包まれていて、座るとお尻がそのまま吸い込まれた。

 ガラステーブルの上には、僕が昨夜仕上げたばかりの新作の漫画があった。

 やはり、ローウェンに漫画を届けると、それはすぐにエヴァの元へ渡るようになっていたのだ。


 僕はソファに座って、部屋をぐるりと見渡した。

 マリアンやウォルシュとは造りが大きく違う。

 ちゃんとキッチンは別の部屋になっているし、寝室もまた別にあるようだ。

 天井も倍くらい高い。

 そして壁には、いくつもの写真が額に入れられて飾られていた。

 写真はどれも白黒で、エリックの授業で使ったラボの展示室を思わせた。

 そしてまさに、展示室で見た写真と同じものが、この部屋の壁にも飾られてあるのを、僕は発見した。


 僕はソファから立ち上がると、その写真の前へと移動した。

 ソファと同じく高そうな絨毯に、僕の濡れた靴下が水跡を付けた。


 写真は、やはり同じものだった。

 一つ右隣の写真を見ると、そこにも、狭山と思われる青年と、隣に並ぶ子供の頃のエヴァと、そして一匹の猫の姿が写っていた。

 その写真では、エヴァが猫を重そうに抱いて持ち上げている。


 僕は立ち位置を少しだけ右にずらし、更に右隣りの写真も見た。

 そこには、狭山とエヴァと猫の他に、背広姿の中年男性も写っていた。

 さっきの写真でエヴァが猫を抱いていたみたいに、中年男性はエヴァを抱き上げていた。

 男性は恐らくエヴァの父親に違いない。

 狭山はそのすぐ隣に立っている。

 並んで立つと男は狭山よりもずっと背が高い。

 男の足に尻尾を巻き付けた猫は、抱かれたエヴァを雲を仰ぐみたいに見上ている。

 エヴァは父親の腕の中で、空を飛ぶみたいに両手を広げていた。


 僕はまた、一歩右へと移動した。

 今度の写真では、バレエのチュチュを着た少しだけ大きくなったエヴァが、一人だけで写っていた。

 エヴァは暗いステージの上でポーズを取っている。

 中学生くらいの頃の写真だろう。

 幼い可愛らしさと、大人っぽさが半分ずつ混ざったような、少しアンバランスな表情で微笑んでいる。


 僕はそこで不意に、シーシーのことを思い出した。

 エヴァも、当時、アドミニストレーションの五階のダンスホールで練習したのかもしれない。

 髪を綺麗にまとめ、白いチュチュに身を包み、軽やかにポーズを取る姿は、発表会で見たシーシーの姿と、よく似ていた。

 

 次の写真では、アドミニストレーションビルの入口をバッグに、一人の老人を、大勢が囲んで立っている。

 老人の隣には、エヴァの父親と思しき先ほど男性が立っており、更にその隣に、もう大人になったスーツ姿の今のエヴァが立っている。

 恐らく最近撮られたものだろう。

 そして、エヴァの斜め後ろには、少しだけ老けた狭山が立っていることにも気付いた。

 口髭を生やしていて、すぐには気付かなかったが、確かに子供の頃のエヴァの隣に立っていた青年と、同一の人物だ。

 とすると、狭山は今も、このコロラドにいるのかもしれない。


「面白いものでも見つけたかしら」

 二人分のコーヒーとバスケットを載せたトレイを持ったエヴァが、キッチンから戻ってきて言った。

 エヴァはテーブルの上の『our crime』と描かれた漫画の隣に、慎重な手付きで音を立てずにトレイを置いた。

 コーヒーの入った二つのカップからは湯気が立ち上っている。

 バスケットの中には、チョコクッキーが入っていた。


「やけに丁寧なもてなしだね」と、僕は警戒するように言った。

「そうかしら。まあそうかもね。私って、イカれてる人を見ると放っておけない性格らしいから」

 それは譲歩のようにも受け取れたが、馬鹿にされていることには変わりない。

「早く座りなさいよ」と、そいつは言った。


 まだ油断できない。

 僕は、そいつに背を向けないように、常にそいつの目の動きを確かめながら、ゆっくりとソファへ移動して、腰を下ろした。

 そいつもソファに座った。

 僕らは、コーヒーとチョコクッキーを挟んで対峙した。

 コーヒーと香ばしい匂いと、チョコクッキーの甘い匂いがして、僕は口の中に唾液が溢れた。

 そう言えば、昨日の昼食は暗室に篭もっていたせいで取っていないし、夜も食堂へは行かずに狭山の本を読んで、そのあとはそのまま雪の中で眠ってしまったんだ。

 つまり、僕は昨日の朝から何も食べていない。


 空腹が表情に出たのか、それとも心を読まれたのか、そいつはチョコクッキーを食べたそうに見つめる僕を見て、くすくすと笑った。

「食べていいのよ」と、そいつは馬鹿にするみたいに言う。

「分かってる」

 僕は苛ついた声で答えた。


 せめての反抗のように、チョコクッキーよりコーヒーカップを先に手に取った。

 一口飲んだだけで冷えていた体が歓喜する。

 そして、体は猛烈にチョコクッキーを寄越せと訴えたので、どうせ心が読まれてるのなら我慢するだけ無駄だと諦めて、バスケットの中から一枚を取って口に入れた。

 そのチョコクッキーは、普段食堂から取ってきているものよりずっと高級なものだったようだ。

 口に入れた瞬間、クッキーの部分もチョコレートの部分も、舌の上で雪みたいに溶けた。

 僕はすぐに二枚目を食べ、三枚目を食べた。

 糖分がやっと補給されて、疲労感に包まれていた体に、力や熱が戻るようだった。

 柔らかいソファに身を委ね、コーヒーとクッキーを交互に口に入れた。


 気が付くと、そいつが真正面で微笑んでいるのが見えた。

 はっとして、慌ててソファの背もたれから体を起こす。

 そいつは立ち上がると、空になった僕のカップを持ち、微笑みながら僕を見下ろして、再びキッチンへと消えた。


 ついつい気が緩んでしまったようだ。

 しかし糖分が脳にも回り、ようやくはっきりと物事を考えられる。

 僕は下唇を噛んで、気を引き締め直した。

 そして、壁に飾られた写真の方を見た。


 エヴァと、エヴァの父親と、狭山との間に、何かしらの繋がりがあるのは確かだ。

 そして彼らは、写真の中に写っていた一匹の猫とも関係がある。


 僕の中には、その猫が『彼女』であるという、確信のようなものがあった。

 もしそうなら、やはりエヴァ達は、『彼女』について何かを知っている。

 僕は今こそ、エヴァから全てのことを聞き出さなくてはならない。


 そいつはキッチンから戻ってきた。

 僕のために新しくコーヒーを注いだカップと、チョコクッキーの入った筒を手に持って。

 そいつはソファに座り、カップを僕の前に置き、そして、バスケットにチョコクッキーを補充した。


「本を読んだんでしょう? シンジの」と、そいつは言った。

「読んだよ」

「でもあの本に、クステフは出てこない」


 そいつの口から出た『クステフ』という名を聞いて、僕の中で何かがわっと燃え上がった。

 それはエネルギーであり、衝動であり、痛みのようであり、切なさのようでもあった。

 僕は、ほんの数回しか会ったことのない、謎めいた、その名前の女の子が好きだった。

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