雨歌

雨歌 1


 よひらが着ている服が青色と白色しかない。と気付いたのは、小さな子ども――晶が買われた日より数えて四日目のことであった。

 今まで座っていた場所よりも広い箱庭の中だからか、窮屈さは特になく。晶はひとり、ふかふかの真っ白なベッドに腰掛けて、あてがわれた部屋の窓から外の世界を伺う。

 よひらの家、と言うより屋敷はとても大きく、真ん中の庭を囲うようにしつつも、上の線を書き忘れた四角の形で建てられている。何も建っていない方角は、よひら曰く南、昼になれば日差しがたくさん入る方角だ。晶の部屋は、最初に足を踏み入れた窓連なる廊下があった西側の二階で、四角い窓から見下ろせば広々とした庭園が近い距離で視界に飛び込んでくる。まだ、あの緑へ足を踏み入れたことがなく、何が生えているかは知らない。

 部屋自体は狭くもなく広くもなく、天井も低すぎず高すぎず、不満なんてこれっぽっちもない。気になることはあるけれど。

 この部屋は、というより、この屋敷は、白い。

 家のあらゆるところに窓があり、夜になれば柔らかな明かりが灯って、壁は白く絨毯も薄い黄色っぽい色で、ちっとも暗くならない。廊下や他の部屋に飾られている調度品は、透明や青、そしてやはり白が中心。

 これまでの、薄ぼんやりと覚えている部屋はどれも薄暗いもので、太陽の光なんて目に入らなかった、気がする。かろうじて耳が覚えている言葉は、目に悪い、だったろうか。思い出そうと目を細めるが、それ以上は何も思い出せない。

 晶は廊下よりうんと白い、毛の長い絨毯に足を付けた。次いで自分の衣服を見下ろす。靴こそはここに来た日と変わらない革靴だが、糊の効いたシャツは濃紺、細身のズボンは絨毯と同じ白っぽい色。よひらが用意したものだ。

 この屋敷に連れてこられた、あの日。よひらは『これから知っていけばいい』という風な言葉を口にして、それから。

『何かあれば、どれだけ些細な、うんと小さな事でも構わない。遠慮無く聞きたまえ。……ん? 私が傍にいない時はどうすれば? そういう時は、書斎に来て私の名前を呼んでごらん』

 声に出して聞いていないことまで、得意げにすらすらと述べたよひらの言葉を思い出す。

 書斎、というのは、屋敷の北側にありながらも南一面が窓、そして窓の光を受ける壁一面の蝶が飾られている、あの部屋のこと。だと、よひらが自ら説明してくれた。

 毛の長い絨毯は、晶の小さな一歩を無音にする。ベッドとは異なる柔らかさへ向けて、足がゆっくり、こわばりをほぐすような動きで進む。右を向いても左を向いても、当たり前だが誰も何もおらず、晶の両手は自然と胸元を押さえていた。

 出歩く、という行為は、晶を変な気分にさせる。

 自分で行き先を選ぶ必要もなかった。人形のように、そこに在れと言われていたから。しかしよひらは正反対、食事の時間と夕食以降を除いた時間全て、自分の為に使えばいいと言い切った。

 四日目になって漸く震えなくなった左手で、鈍い金色のドアノブを握る。大きく冷たく、けれど不思議と手に馴染むそれを回して、押して、開いて。

 人も何もない静かな、けれど光に溢れる廊下が目に飛び込む。左右を見て、晶は廊下へと足を踏み入れる。左へ、北へ、小さな歩幅で晶は慎重に進む。

 やがて見える広い階段もやはり、踊り場に大きな窓を設けているために明るい。そちらへ足を向け、手摺りに縋るような体勢で一歩ずつ、降りていく。

 階段を降りきって、更に近くなった庭を尻目に、晶は迷わぬよう視線を前方に向けて進む。

 ぎぃ、ぎい。小さくとも耳に届いてしまう音を出して扉を開く。水晶の壁に当たって一層眩しい光に目を細め、晶は頭だけ広大な書斎に入れた。

「よひら……いる?」

 こわごわ、扉の擦れる音よりも小さくか細く、晶は彼女の名を口にする。

「呼んだかな?」

 書斎の奥、ロフト部分の空間からひょっこり、よひらが顔を見せた。窓に沿う形で付けられている廊下へ進む彼女は、今朝と同じ濃紺のボトムに白いシャツの装い。やはり、白と青、だ。

 ぼんやりと、足まで書斎に入れずよひらを見上げる晶に気付いたのか、よひらは少しだけ目を大きくさせて言う。

「晶。ちゃんと入ってきても大丈夫だよ」

 細い廊下の丸い手摺りに肘を置きながら、よひらは朗らかに笑う。しかし、晶は一歩も動かなかったし、動けなかった。原因は分からない、体中が石のように固くなった、気がする。

「まぁいいか。ちょっと待ってね、そっち行くから」

 とう、と言ったと同時に、よひらの体が軽やかに舞った。

 手摺りから身を乗り出し、足を掛けることなく手摺りを飛び越え、よひらの体は宙に浮かぶ。そして、まるで階段を降りるように、ゆっくりと時間をかけて艶やかな床へと足を下ろす。ぺたんこな靴と足の甲も白、磨き上がった床の深い色のせいで一層白く見えた。

 晶が黙って見上げているうちに、よひらはこれまでと変わりない軽い足取りで晶の傍へ行く。扉から少しだけ間を作って、よひらはにこりと笑う。

「扉に挟まれていては、お話は出来ないよ」

 さぁ、と手招きされて、晶はおずおずと書斎へ足を踏み入れる。光を浴びて輝く床は見た目に反して滑りにくく、それでも慎重に足を進める晶を見て、よひらはふむ、と小さな声をあげる。

「お話をするなら……そうだなぁ、お茶の用意が必要かな?」

 やや小さな声で呟きながら、よひらの手がふわりふわり、宙に何かがあるように動く。すると、どこからともなく小さな黄土色の机と二つの椅子が現れた。更に指を鳴らせば、机の上に透明なカップとソーサーが二つずつ、淡い琥珀色の液体が入った透明なポットが、音も無く置かれる。

 晶が全身固まらせながら凝視している手前、よひらは慣れた調子で丸い椅子に腰掛ける。

「お話は、ゆったりくつろぎながらするのがいい。あ、何だったらお茶請けも用意すればよかったかな?」

 お茶請け、が何なのか思い出せなかったので、小さくも首を横に振れば、よひらは特に気にした素振りを見せず、やはり晶に座るよう促すに終わる。どこから現れたのか分からない、この家では初めて見る形の椅子に近付き、晶はぎこちなく浅く腰を下ろした。

 晶が初見ではない書斎をきょろきょろ眺めている間に、ふわりと甘く暖かそうな香りが小さな鼻腔をくすぐった。よひらは先程机と椅子とティーセットを出した時と同じく、右人差し指で宙に何かを書くような仕草を取る。すると、ポットが浮き上がり、琥珀色の液体が湯気を出しながらカップに注がれていく。

 音も無く注がれた液体に、ティーカップに視線を固定させれば、いつの間にか、よひらがティーカップ片手に、向かいに置いた椅子に腰掛けていた。

「……その」

「うん?」

 カップを揺らし液体の表面をゆらゆらさせながら、よひらは黙って耳を傾ける。

 無音が広がる。両手を膝の上に置いた晶は、視線を手前のカップや机越しのよひらを交互に見て、口を開こうとして、きゅっと唇を引き結んで、を繰り返す。

 暫くしてから、明るい書斎に響いたのは、よひらがカップの中身を啜った音だった。

「ふむ。これなら猫舌さんでも大丈夫だね」

「……ねこ、じた?」

 突拍子も無いよひらの言葉に晶が問えば、「熱いものが苦手な人のことを指す言葉さ」と言って、持っているカップを軽く掲げる。

「まぁ、まずは一口飲んで。これは私が特に気に入っている、コト婆特製の紅茶さ」

 にこやかに告げてから、よひらはカップの縁に口を付けて中の紅茶を飲む。

 よひらがどうして飲むよう言ったのか。晶はじっとカップの中の紅茶の、湯気が小さくなってきた表面をじっと見つめた。ここに来る以前に、澄んだ琥珀色の紅茶を飲んだことが、見たことが、あっただろうか。思い出せない。

 すっかりこわばってしまった左手の、まずは指を動かし、手首、肘、肩と動かして、ようやくカップの取っ手に指をかけた。よひらを真似して、取っ手に指をかけたまま持ち上げようとしたが、未だに固い手では上手に持てず、上がらない。カップ全体が右に傾いたままどうしようかと思案して、右手でカップの縁を支えつつ、持ち上げる。指先が少し、熱い。

 よひらがずっと晶に視線を向けていることなど忘れ、晶は両手にあるティーカップの、中身に集中する。少しばかり体を前屈みにして、硝子の縁に口を付けて、飲む。

 熱くはない、少し不思議で、甘い味。ほのかに緑色のお茶と似た味がした、ような。

「美味しい?」

「……分からない」

「そう」

 特に気にしていないのか、よひらは聞くだけ聞いて、自分のカップの中を半分に減らした。

 ここに来て、よひらと共に朝昼晩の食事を摂っているが、未だに晶はよひらの問う「美味しい?」が何なのか、よく分かっていなかった。彼女は「また食べたいなぁ、って思ったら大体美味しいものだから」と軽い調子で言っていたが、また食べたいと思うものが見当たらない。

 両手で持つのがしんどくなって、カップをソーサーの上に戻す。かちゃん、という音がして、僅かに肩が跳ねたが、手はもうこわばっていなかった。

「よひら」

 頭の中で、言葉を探す、固める。

「どうしてここは、青と白なの?」

 そして、思ったよりもすんなりと、言葉が口を突いて出て来た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

みずたまてふてふ 神奈崎アスカ @k-aska

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ