水晶が見つめ合う 3


 子どもの頭の中は、常に薄ぼんやりであった。何かがあったのは分かるが、その何かが分からない。曖昧で朧気で、一体何カ所回っているのか、ましてや最初に居た場所など覚えていないまま、今に至る。

 磨かれ、飾られ、それが人形への行為と変わらないと言ったのは誰だったろうか。勿論、どこで誰が言ったのか、子どもは覚えていない。

 それでも、たった一つだけ。子どものふわりとした意識であってもこれだけは認識できた。

 新しい買い主は、子どもに自分から動いてほしいようだ。

 とはいえ、さぁさぁ歩いてごらんと言われても、子どもの足は一向に動かない。

 後ろによひらがいるのは気配で分かるものの、子どもの顔色は決して良くはなく、困惑一色に染め上げられている。

「まずは、このまま真っ直ぐ歩くよ!」

 よひらに連れられて部屋を出た途端、後ろに回った彼女に肩を掴まれぐるりと体の向きを進行方向に向けられたかと思いきや、先に進めとよひらは言う。右手は白い壁、左手は緑が見えるが光が差さない窓が同じ間隔を置いて並んでいる。他には何も、誰も、ない。

 ふわふわとした蒸栗色の廊下を、恐る恐る、子どもは一歩、摺り足ぎみに踏み出してみた。止まる。

「大丈夫、きみの軽い足取りで凹むような廊下じゃないよ」

 柔らかい廊下に怖じけ付いているのかと、よひらが後ろから軽快な声をかけてくるが、子どもは足を踏み出せずにいる。薄ぼんやりとした幼い記憶の中で、子ども自身が先頭に立って歩いた覚えがない。常に、手を引かれるか、腕や荷台、或いは動く椅子によって運ばれるか、だ。

 水晶の人形であれ。からの存在たれ。

 ――誰に言われたのか思い出せない言葉が、子どもの力を見える世界を覆い包み奪う。

 ただでさえ色のない子どもの頬が、薄ら青く色付く。よひらの手を引かれ、この家に入った時に歩いたが、歩くこと自体が久しかった。

「緊張してるねぇ」

 あっはっは、と軽い調子の笑い声が降ってくると同時に、肩に置かれたよひらの手が動く。揉まれているのだと肩に与えられた感触から分かったものの、子どもからすれば突然の、味わった事のない振る舞いで、体がびりりと震えた。

「なに、まほうつかいの家だけど、突然何かが飛び出してきたり、廊下に穴が空いたりとか、そんな事はないから安心したまえ」

 よひらは、単純に子どもが道行く先を警戒しているのだと思っている、らしい。

「まほう、つかい……?」

 よひらの例えより、子どもの心に引っかかったのは、一つの言葉だった。微かな唇の動きから零れた、小さな一滴の疑問。それさえも、彼女は掬い取る。

「あれ、言ってなかった?」

 降り注がれる声には目に見えないきらきらしたものがあって、子どもは釣られるようにしてよひらを見上げた。

「私は――まほうつかい、と呼ばれている者さ」

 水晶を覗き込む目もまた、淡く薄い青を帯びた、水晶。

「まほうつかいが何か、きみは知っているかい?」

 子どもは、少し間を開けてから、よひらを見上げたまま首を横に振った。

「素直で宜しい。そうだなぁ……あらゆる世界、色々な場所で、細かい定義こそは違えども、万人とは異なる世界の恩恵を受け、駆使し、自分や誰かに恩恵を振る舞う存在の事、かな」

 何を言っているのか。子どもの耳にこそ入るが、よひらの言葉はそよ風のように流れていく。

「私の場合は万物の流転や事象さえも操るまほうつかい、なんて言われてはいるけれど。ぱっと瞬間移動したり、ものを止めたり出来る。くらいに今は考えておけばいいと思うよ」

 にやりと笑うよひらは、子どもが見てきた【おおきなひと】の誰よりも、子どもに近く見えた。

 よひらの言葉を、子どもはこれっぽっちも飲み込めなかった。けれど、きちんと言ってくれたよひらを見ていると、子どものこわばった足から徐々に余分な力が抜けていく。

「よしよし、肩も足もほぐれたと私は見たが」

 とんとん、と軽く背中を押され、ぐいと後ろから両頬を押さえられ、子どもは今度こそ前を向かされた。

「まずは進もう。なんたって、今日からここはきみが住む家だからね。歩いて道を覚えてもらわないと」

「家」

「うんうん、お家。きみと私が毎日を過ごす、大きな箱庭さ」

 肩に置かれたよひらの手から、じんわりと何かが流れ込んでくる。ような気がする。これも、よひらのまほう、なのかもしれない。

 子どもは、右足を前に踏み出した。次は左足を踏み出す。一歩、二歩。右足、左足。足に意識を向けながら歩いていたが。十歩を過ぎたあたりから、子どもは考えずに足を動かせるようになっていた。目線は前、時々足下、きらめく水晶の瞳をきょろりと動かし、子どもは柔らかい廊下を真っ直ぐ進む。

 よひらの手が置かれている肩から、背中が、頬が、感じたことのない何かに包まれている。それを支えに、子どもはゆったりとした自分の動きで進む。

 歩いているうちに、後ろから付いて来てくれていたよひらの足が止まった。同じく止まった子どもの右横には、赤茶色の木の扉。ドアノブは、少し暗い金色。

「この扉を開けてごらん」

 肩から、よひらの手が離れていく。子どもの左腕が自然と持ち上がり、左手でひやりと冷たいドアノブを握った。

 唐突に。耳から入ってこない音が、子どもの耳に聞こえた。どくどく、ばくばく。どうして聞こえるのか、どこから聞こえるのか。分からないものの、いやな気持ちにはならない。水晶の瞳を見張らせ、左手に力を込めて、ドアノブを回す。

 小さな子どもの片手では、扉は開きこそすれど動かない。右手で押して、それでも重さが足りず、子どもは全身の力で扉を押した。光が、扉の隙間から零れて、溢れる。

 一面、光でいっぱいだ。

 何度か瞬きを繰り返し、目を覆う光に気圧された子どもは、転がるようにその部屋へ足を踏み入れる。廊下とは異なる、靴越しに足裏に伝わる堅い感触。視線を向ければ、艶を帯びた飴色の木の床が、床一面を覆っている。

「振り返ってごらん」

 まほうつかいの言葉に、言われるがまま、振り向いて。息をのんだ。

 蝶、蝶、水晶の中の蝶の壁。

 色とりどりの、大きさも異なる蝶が、一羽たりとも被らず、透明で薄い氷のようなものの中に、一羽ずつ包まれるように佇んでいる。

 蝶。薄い羽の、宝石よりも輝く、生き物は。大きいもの、小さいもの。暗いもの、明るいもの。等間隔に、一つたりとも主張し過ぎず、沈まず。窓の光をめいいっぱい受けて、きらきらと輝いている。あまりにも鮮明な色で輝いているので、どれもこれも、今にも透明な世界から抜け出して羽ばたきそうだ。

 どこまでも続きそうだった廊下と同じ長さの、屋根よりもうんと高い壁一面に並ぶ、蝶を飾る水晶の壁。天井は遙か高く、うんと首を逸らし見上げなければ白い天井を見ることが出来ない。

「――ようこそ、よひらさんご自慢の展示室へ」

 廊下にいた筈のよひらの声が、どうしてか上から降ってきた。弾かれるように振り向けば、まぶしい光に溢れる窓を半分にする形で、長い廊下が付いているのを初めて知った。

 細い通路の一番奥、子どもから見て右側。天井に近い空間の一部を切り取ったように作られた、開放的な部屋の中の部屋。その上に、彼女の鳩尾まである囲いに体を預ける形で、よひらは佇んでいる。

「少しばかりは気に入ってもらえたかな?」

 腰まである真っ直ぐな黒髪をさらさらと靡かせながら、よひらは部屋の中の部屋から離れ、ゆったりとした足取りと口調で、左側へ歩いていく。目を動かせば、左の壁際には階段がある。そこから昇っていったよひらを、見ていないような。

 呆気に取られたかのように口を半開きにしている子どもへ、よひらは問われる前に答える。

「ふふっ、言っただろう? 私はまほうつかいだと。室内を一瞬で動くくらい、造作もないさ」

 得意げに堂々と、乾いた音を立てながら床と同じ木の階段を降りてきた彼女は、足取りも軽く子どもへ寄る。

「ふむ。何がどうなっているのやら……そんなところかな? 流石の私も分かるよ」

 腰に手を当て、自信に満ち溢れた声が言う。

「ここ、というかさっき私がいたのは私の書斎でね。ん? 今まで見てきた書斎と違う? だろうねぇ、ロフトもどきにある書斎なんて私も見たことがないかな」

 子どもが何も言わない間も、何を読み取ったのか、よひらの口が饒舌に動く。書斎、と呼ばれるものはなんとなく覚えていたが、こんなにも広くて眩しい場所に、一目では宙に浮いたような位置に設えてある書斎は、きっとないだろう。

「何はともあれ、この部屋が主要な部屋の一つだから案内したんだけど……他にすることも思い付かないしなぁ。――そうだ」

 ぱっと閃いたように、よひらの声と彼女の右手から鳴った指を弾く音が、だだっ広い室内に明るく響いた。

「まずは、この部屋の蝶を見ていこうか。一つずつ、じっくりと」

 よひらの提案に、子どもは意図を掴めず、小さく首を傾げた。

「ここに飾っているのは、私が蒐集したお気に入りたちでね、一つとして同じものはないんだ」

 一面の蝶を見つめるよひらの顔は、どことなく誇らしげだ。子どもは、そんな彼女に倣って壁を見上げる。色とりどりの、今にも飛び立ちそうな蝶の一つひとつを、数えようと目で追ったが、何度か瞬きをしてから水晶の目は壁ではなくよひらを映した。

「何かな?」

 よひらは素早く視線に気付いた。

 子どもの小さな喉が、何かにつっかえたように震える。何度か口をはくはくと動かし、それから、ようやっと声を出す。

「……ぜん、ぶ?」

「全部……と言ってもいいんだけど、きみの目が届く範囲で構わないよ。飛んで跳ねても見えないものは見えないし」

 苦笑気味に、けれどよひらは子どもの目を見て、はきはきと答えた。彼女の言葉に頷き、子どもは視線を壁一面の蝶へ移した。

 真っ黒な中に赤い模様。深い青と冴え冴えとした黄を交えた色彩。枯葉の様な形。人の目に似た模様を描く羽。よひらに言われた通り一つずつ、視線の高さに合ったものに、子どもは目を合わせていく。言われた通りじっくりと見るためにすり足で動くが、足以外は瞬きの動きしかない。

 静かに時間が過ぎる中、不意に子どもの手が動いた。持ち上がった左手の先。閉じ込められた透明な世界に、燦々と入り込む光に溶けて消えそうなものが一つ。

 自分の目と同じ、色のない蝶と、目が合った。

 不思議にも、それは子どもの視線と同じ高さに飾られていた。子どもの姿が影になった時、薄青の輪郭と触角、羽全体に広がる脈がなければ、存在すら認知されなかっただろう。

 伸ばした左手を、蝶を閉じ込める透明な壁に当てる。硝子のような水晶のような、澄んだ冷たさが、手のひらの温度をじわりと吸う。

「これはね」

 後ろから、よひらの声が降ってくる。

「ミナアキラ、というんだよ。どこにもない、どこにもいない、奇跡の存在」

「ミナ、アキラ」

 何かを懐かしむ彼女の声が、名を囁く。合わせて、子どもも小さく、口の中で転がした。

 どこにもない、どこにもいない。

 反芻する言葉に、形にならない何かが、確かに子どもの胸を揺すぶった。

 漠然と頭の中に出て来た靄を、稚拙でも言葉に置き換えるなら――これは、自分だ。

 なんて、脆くて淡くて見えなくて。どうして、どうして自分に見えたのか。

 しかし、子どもには頭の中で言葉に出来た『どうして』を口にする方法を、ましてや解決する方法を、知らない。そっと、ミナアキラに触れている左手の指先に力を入れる。

 つめたい、かたい。それ以上のものを、拾えない。

「この子には、魔法が宿っているんだ」

 子どもの右横から、よひらの細長い指が伸びる。蝶を覆う透明な隔たりに指先を当てると、するりと隔たりから色のない蝶がよひらの指に乗って現れた。触れたままの隔たりは、ずっと冷たく固いのに。

 目の前で起こった現象に、子どもは大きく目を見開き息を飲み込んだ。よひらは気にせず、視線をミナアキラに向けたまま、口を動かす。

「だから、探すにも膨大な手間暇がかかるし、飾るのも一苦労だ。気にくわない相手なら姿を溶かしてしまうからねぇ、いやはや仲良くなるには苦労したよ」

「姿、を」

「この子は、魔力の塊なんだ。真っ当な昆虫としての蝶とは根本が違って、危機を察知したら、途端に周りの空気や水分に、場合によっては人の体内に紛れてしまうんだよ」

 よひらの、分かりそうでちっとも分からない言葉を耳に入れつつも、子どもの視線はミナアキラに釘付けだった。

 今にもよひらの指先から、彼女の言う様に溶けて消えそうな輪郭を、ゆったりと広げ揺らす蝶。閉じて、広げて、その度に、きらきらとしたものが瞬いては消えていく。

「気に入ったかい?」

「気に、入る……?」

「熱心に見つめているからねぇ、ずっと」

「……分からない」

 楽しげに子どもを見下ろし、ゆるりと唇に弧を描き尋ねるよひらの、言葉はそのものは飲み込めるも、意味が分からない。

 何も知らず瞬くミナアキラに視線を合わせたまま、気付けば子どもの中にあった何かが、口を突いて言葉になる。自分自身でも拾えなかった、何かが。

「気に入るって、何?」

 子どもを見下ろしていたよひらの、薄い色の目がきょとんと丸くなった。

「うぅーん……そうだなぁ、言葉に置き換えるなら、好き、という一言が一番しっくり来るんだろうけれど……」

 半ば自らに言い聞かせるように呟きながら、視線を一面の蝶や部屋の中の書斎に巡らせて、よひらは指に留まったミナアキラのように、視線を子どもに留めた。

「例えば、ずっと眺めていたいもの。傍に置いていたいもの。壊れたり死んでしまったりしたら嫌だと思うもの。その辺りだろうね」

「……眺めて、いたい」

「あぁ、そうだね」

 目を伏せて、よひらは柔和に笑む。

「まぁ、今は分からなくたって大丈夫だけれど」

 次いで、小さく歯を見せながら静かに笑う声に、子どもは大きく瞬きをした。

「なに、今から知っていけばいいのさ。なんたってきみは、今日からここの住人――あ」

 何かを思い出したかのように、今度は間の抜けた声をよひらは出す。

「時に――名前の事なんだけれど」

 咳ばらいを一つ。指先にミナアキラを瞬かせながら、よひらは唐突に言う。

「あの名前は良くない。合っていないね」

 自信たっぷりの声が、断言する。

 子どもが困惑の色を浮かべるよりも早く、よひらは少しだけ苦そうに言う。

「きみが思ったことは、まぁそれなりに察しているよ。私が言いたいのはね、きみといううつくしい存在に、その名前は少々物足りない。ということさ」

 畳み掛けるように説明を費やされても、しっくり来ないのが子どもにとっての事実で。それを、彼女自身も理解しているのだろう。覇気のある声音で、言葉の一つひとつを歯切れ良く紡ぐ。

「ものにはそれぞれ、相応しい名前がある。きみのその名前は明らかに不釣り合いで、価値を下げかねない。響きが足りない」

 彼女が一体何を言いたいのか伝えたいのか。やはり分からないままだったが、子どもは黙ってよひらの言葉に耳を傾けていた。

 万物の流転さえ操るというまほうつかい、よひらは、指先に留まるミナアキラの燐光にも負けない水晶の眼差しで高らかに宣言する。

「今日からきみは――晶、だ」

 一面の蝶が窓からの光を受けて乱反射する広い部屋で、買われた子どもの眼は、閉じ込められているどの蝶よりも燦然と輝いた。

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