第41話

 沈黙の森を抜け、湖を迂回して山間の隘路を三ロウばかり進むと、ソセは忽然と姿を現した。神殿の衣服に身を包んだ集団が近づくのを見て、フタル人らは警戒を顕にした。刺繍入りのガウンを脱ぐべきなのではないかとイドは言ったが、騙し討ちのようでかえって印象がよくないだろう、とコウロウが首を振ったのだった。

 イベルタ南部に位置するソセは、都近辺での迫害から逃れてきた〈王〉に批判的なフタル人らの集落で、ここを訪れることはキイラたちにとっては賭けでもあった。こうして神殿から出奔した以上、キイラたちには同胞が必要だった。それも、フタル人の同胞が。フタル人のすべてが抵抗者ではない。〈冬の砦〉に滞在していたキイラはレイガン同様それをよく知っていたが、やはり不安は隠しきれなかった。都から出たこともなく、ほとんどフタル人と交流したことのない魔術師や神官らの憂慮はなおのことだろうと思われた。

 そのうちに、リーヴズや砦の兵士たちが用いていた火器ではなく、見慣れた弓と矢筒を携えた男たちが集団の中から現れた。それで、彼らが隣国アルスルムと繋がりのないことが知れた。予め決めていた通り、キイラはレイガンとともに前に進み出た。

「神殿の方々がなんの御用でしょうか」

 口調ばかりは丁寧に、集落の長であるらしい四十がらみのフタル人の男が険しい表情で言った。

「我々は罪を犯してはいない。懺悔の必要もなければ罰を受ける謂われもありません。ここにあなたがたの求めるものはありません」

「わたしたちは神殿の使いではありません」

 キイラが冷静に答えると、男は訝しげにした。答えたのが年若い女であったせいか、その言葉が理解に苦しむ内容であったせいかは判然としないが、おそらくその両方だろう、とキイラは考えた。

「わたしたちは〈二軍〉の魔術師でも、神官でもありません。謂わば叛逆者カルネテス、最早神殿に従うつもりはない」

「分からない。あなたがたの目的はなんですか」

「わたしたちはイベル人としてあなたがたの協力を望みます。星読みと交流のあるあなたがたなら既にご存知でしょう、近く、大規模な内戦が起こる。この国は破滅に向かっている……ソセは〈王〉に賛同しない。イベルとフタルの全面戦争は我々のみならず、あなたがたにとっても望むところではないはずです。どうかわたしたちに加わり、手助けをしていただきたいのです」

「あなたがたの神に背いても、ということですか」

「わたしたちの神を信ずるがこそ」

 男は暫くの間黙っていたが、やがて硬い表情を崩さずに「そうですか」と言った。

「我々はルースの意向に興味はない。それでも、あなたがたの決断には敬意を評します」

 キイラは目礼した。男はこう続けた。

「だが、お引き取りいただきたい。我々は新しい血を流したくはない。静かに暮らしたいだけなのです」

「残念ながら」

 レイガンは首を振った。

「この集落も無関係ではありません。おそらくは、この戦はフタル殲滅戦となる。北部から中部にかけての抵抗者たちは、アルスルムの助力を得て軍備を増強しています。神殿は最早なりふり構ってはいないでしょう」

「それは恐喝でしょうか。戦いに加わらなければ、どのみちここは焦土と化すのだということですか」

「いいえ。私たちはあなたがたと手を取り合うためにここに来たのです」

 あくまで淡々としたレイガンの言葉に、男の声が熱を帯びた。

「失礼だが、それであなたがたになにができるのですか。我々は耐え忍んできた。あなたがたが想像もできないほど長い間、耐え忍んできたのだ。イベル人たちが我々をこの地に追いやった、そうしてようやく手に入れた安息を、またイベル人が現れて手放せと言う。あなたがたになにができる。なにがしたいんだ」

「この国を建て直したい」

 レイガンがはっきりと言った。フタル人らがややざわつき、男が顔を顰めた。

「どこかで、誰かが間違いを正さなくてはならない。私たちイベル人の手だけでは、それはなし得ないのです。事態は込み入りすぎており、鍵は既に私たちの手の中にある。我々にはまだ説明すべきことがあるが、それはあなたがたが我々を受け容れると決まってからだ」

 レイガンは帯革にぶら下げた短剣を外し、地面へとそれを放った。次いで、フィビュラを襟元から外し、無造作に足元に落とした。レイガンに倣い、背後に立っていたドルムも耳飾りを外した。ユタとコウロウがそれに続き、イドは躊躇いがちに。魔術師たちは次々に土の上へ心臓石を落とし、神官らは剣を放り出した。キイラも指環の鎖を首から外してそっと地面に落としたが、カドは大人しくしていた。集団から不穏な騒めきが湧き上がり、男が僅かにたじろいだ。

「なんのつもりだ。そんなことをしたって魔術が使えなくなるわけではない。なんの意味もない。あなたがたイベル人は常に強者だった、私たちは……」

 キイラは両手を広げた。

「わたしたちは、フタル人とイベル人の両方を救いたいのです。どうか、わたしたちを助けてください」

「夢物語だ」

 そのとき、フタル人らの集団をかき分け、大柄な女が姿を現した。キイラは彼女の顔を見て、驚きに息を飲んだ。見覚えのある女だった。

「ラメンダ? あなたがどうしてここに……」

 フタル人たちが彼女に注目した。

「この娘は聖女だよ」

 人々のざわめきの中で、〈冬の砦〉のかつての厨房長は疲れたようにそう言った。

「みんな、あたしを馬鹿だと思わないでおくれよ。あたしは〈王〉をこの目で見た。この痩せっぽちの娘はまさしくあの伝承の乙女さ。あんた、やっぱり生きていたんだね」

 遮るように、どよめく群衆の中から子どもの声が響いた。

「レイガンだ!」

 大人たちが止める間もなく少年が矢のように飛び出し、レイガンの腰のあたりに激突した。レイガンはややよろめき、彼を受け止めた。

「ゼアン」

 硬直していたフタル人の男が目を瞠って駆け寄り、レイガンから少年を引き剥がした。

「キヤルク、おれ、この人知ってるよ。〈冬の砦〉で会ったもんね。イベル人なのにフタル人の味方でいい人なんだ、いっぱいお話してくれるんだよ……ねえ、またお話してよう」

 再びレイガンへ無邪気にまとわりつこうとする少年を挟み、フタル人とイベル人とが気まずげに視線を交わした。長い沈黙のあとで、やがてフタル人の男が躊躇いがちに言った。

「私の名前はキヤルク。取り敢えずは話を聞こう。まずは、その荷物を下ろすといい」







 ドルムたちが襲撃したあの日以降、男たちや若者の多くはイスリオとともに〈冬の砦〉から〈秋の砦〉へと拠点を移したが、全てのフタル人がそれに付き従ったわけではないようだった。幾らかは自身の故郷やイベル人による弾圧の及ばない辺境の村々へと散ってゆき、ラメンダもその一人だったのだと言う。

「〈王〉は止めなかったよ」

 ラメンダは小皿にスープを掬いながら言った。キイラは皿を受け取り、その中身をちょっぴり舐めた。ソセでも彼女の作る料理の味は健在である。

「彼の元を離れようというものたちのほとんどは女や老人だったし、あたしたちは〈秋の砦〉の場所を知らされていない。無理に連れていっても却って邪魔になるだけだと判断したんだろうね」

「ラメンダはどうしてついていかなかったの」

 キイラは躊躇いがちに尋ねた。ラメンダはキイラに視線をくれずに鍋を掻き回しながら、どう答えるべきか考えているようだった。ややあって、ラメンダは淡々とこう答えた。

「もう戦いたくなんかないんだよ。あたしたちがいくら血を流そうが、この国はなんも変わりゃしない。分かったのさ、大きな流れってやつには誰も抗えないってことにね。フタル人も、イベル人もおんなじに。この国は破滅に向かってるってあんたは言ったね。滅ぶんなら滅べばいい。それまでの間、あたしはみんなに美味しい料理を食べさせてやりたいだけ。娘にはそうしてやれなかったからね」

 ラメンダは鍋を火から下ろした。疲れた幅広の二重瞼の下で、黒々とした目が諦観に満ちてキイラを見つめた。

「あんたの存在はソセの民を掻き乱す。キイラ、あんたはどうしてここに来たのさ」

 キイラはなにか言い返そうとして、自分がそれに対する答えを持ち合わせないことに気づいた。ラメンダはしばらくの間キイラの目を覗き込んでいたが、キイラが苦しみながら立ち尽くしているうちに、一人で厨房を出て行ってしまった。後には温かそうに湯気を上げる大鍋だけが残された。

「それでも、わたしはわたしが正しいと思うことをするだけだわ」

 キイラは小声で呟いた。

「正しさとはなんだ?」

 カドが尋ねた。キイラは答えようとしたが、そのときドルムがキイラを呼びに来たために話はそこで終わりになった。

 布扉をくぐると、男たちが一斉にキイラへと視線を寄越し、張り詰めた気配が氷の針のように肌を刺した。部屋の中にいたのは十五人ほどで、フタル人らとイベル人らが一つの机を挟んで相対していた。キイラは黙って端の方に立ち、腕組みをして続きを促した。彼らは一瞬ののちにキイラから目を外すと、話し合いの続きに戻った。

「上級魔術師が四人に、下級魔術師が十八人。もっとも、神殿を離れた今このような階級分けに意味はない。優秀な下級魔術師も多いし、ほとんどは既に戦場を経験している」

 コウロウが説明した。

「それに、神官が十五人。彼らは兵士としての訓練を積んではいないが」

「合わせても三十七人か。やはり現実的だとは思えないな。我々は周辺の集落を合わせても二百人というところ……女子どもや老人もいる」

「我々は一人で一分隊の戦力となる」

「人の形をした兵器ってことか。おっかねえな」

 部屋の隅の椅子にだらしなく座っていたフタル人の男が口を挟んだ。イドがぎろりと睨みつけ、無言のままに彼を威嚇した。キヤルクが男に向かって呆れたような視線を投げた。男は両手を広げた。

「失礼。自己紹介させてもらうと、俺はそこのキヤルクの不肖の弟だ。フラウと言う。そして、お前らの来訪を歓迎していない」

「フラウ、慎め」

「どうしてだ? キヤルク、こんなやつら早く追い出せばいい。イベル人だぞ。今はモルフの皮を被ってお上品なふりをしているが、すぐに牙を剥くさ。聞いただろう……こいつらは人間の血なんか流れていない兵器なんだ」

「フラウ」キヤルクが厳しい声で窘めた。

 フラウは肩を竦め、口を閉ざした。キヤルクは咳払いをし、一応の謝意を示したが、心が篭っていないのは明らかだった。コウロウが無理矢理話を元に戻した。

「真正面から戦おうというわけではない。そもそも、我々が目指すのは勝利ではないのだから」

 魔術師はこうも付け加えた。

「それに、我々には『聖女』がついている」

 部屋の中の人々が再び一斉にキイラを見た。今度は肌の下まで見透かそうとするような無遠慮な視線に晒され、キイラは居心地の悪さを覚えながらも賢明に平静を装った。キヤルクはなんの表情も浮かべずに長いこと黙っていたが、やがて口を開いた。

「気分を悪くしないでいただきたい。我々は純粋に疑問に思うだけなのだが」

 コウロウは首を傾げ、続きを促した。

「どうしてあなたがたはその娘を生かしておくのですか」

 一瞬ののちに、部屋の中に紫の殺気が膨れ上がるのが見えた。それは、局所的にはどす黒い混乱や共感の色を含んでもいた。キイラは爪先まで冷たくなった。キヤルクは続けた。

「我々フタルの民にとっては『聖女』かもしれないが、あなたがたにとってその娘は『魔女』のはず。危険なだけだ。生かしておく価値はないでしょう」

「当然です」

 突然背後から声がしたので、キイラは反射的に振り返った。いつのまにか、レイガンが膝の上で指を組み合わせ、落ち着いて座っていた。

「誰でもそう考えるでしょう。実際、神殿はなりふり構わずに彼女を殺そうとした。だからこそ、今彼女がこうして私たちの先頭に立っていること自体が、あなたがたに対する私たちの誠意の証明になるとはお考えになりませんか」

「理由はそれだけではないはずだ」キヤルクは考えながら言った。「レイガン。あなたの名前は知っている。ガットーの内乱では悪夢のような小隊を率いてわれわれの同胞を随分殺した」

「あのときはあなたがたも私たちの兄弟姉妹の多くを手に掛けた」

「そういうことじゃない。あなたは人間の感情に盲目的な信頼を寄せるような人物には見えない」

 レイガンは微笑んだ。それは見ようによってはぞっとするような完璧な微笑みだった。彼は溜息とともにすぐに笑みを打ち消し、よく通る声でこのように誦じた。


聖女なるもの金色こんじきの印を抱き

貴き者とて暗黒の原にぞ降り来るべし

耀けるつるぎ・八重の羽根となりて

天と地とは再び和を約し

古き邪悪を討ち亡ぼさん


 キヤルクが顔を顰め、コウロウたちは反対に目を瞠った。

「それはまさに私たちの中に伝わる伝承だ。それが……」

 イドが困惑を露わにした。

「俺が知っているのと違う。レイガン、それはなんだ?」

 レイガンは立ち上がって机のほうに歩みよると、断りもなくそこに指で直接文字を書きつけた。木材の焼ける焦げ臭い匂いが漂い、フタル人らは怯えるように上体を引いたが、誰も目を背けはしなかった。

「この古い伝承は我々イベル人の中にも語り継がれている。ただし、我々が知っているのはこうだ。『天と地とが分かたれしとき/その者生まれ出でて紅の印を抱き/暗黒の原にぞ降り来るべし/彼ら死に定められたるものどもの/けがれをついに清むるめり』」

「一部が異なっている?」

 机の上に焼きつけられた二つの詩を見比べながら、キイラは呟いた。レイガンが手袋を嵌めたままの手のひらで文字を撫ぜると、文字は机の上でひらひらと泳ぎだし、好き勝手に繋がりあいはじめた。

「二つの唄を繋ぎ合わせるとこのようになる。

天と地とが分かたれしとき

聖女なるもの生まれ出でて

金色と紅の印を抱き

貴き者とて暗黒の原にぞ降り来るべし

耀ける劔・八重の羽根となりて

天と地とは再び和を約し

古き邪悪を討ち亡ぼさん

彼ら死に定められたるものどもの

穢をついに清むるめり」

 古アルスール文字が一つの詩となって整然と並ぶのを眺めながら、レイガンは続けた。

「二つはもともと一つの予言だったのかもしれない、と私は思った」

 コウロウがなにか言いかけるのを遮って、キヤルクが尋ねた。

「なにが言いたい?」

「問おう。『古き邪悪』とは?」

「ユナ・イベルタに決まっている」フタル人の一人が怒ったように答えた。「他になにがある? その娘が聖女、〈浄化の石〉こそが耀ける劔であって、邪悪なるものどもから我々を救う……そういう話だろう。どちらにせよ、迷信だ」

 傍らの神官の一人が立ち上がろうとするのを押しとどめ、レイガンはイベル人たちを振り返った。

「それでは、『死に定められたるものども』とは?」

「フタル人のことじゃないのか。生まれつき穢れているためにルースの恩恵を受けられず、滅びの運命に取り憑かれている人々のことだ。そのように習った」

 ドルムが冷静に答えた。今度はフラウが唾を吐いた。

「そうではないとしたらどうだろう」とカドが口を開いた。キイラは黙って服の中から指環を引き摺り出した。突然の声にフタル人らは狼狽えたが、レイガンは落ち着いて首を傾げ、続きを促した。

「天はルースの光。イベルの象徴だ。地は横たわるアルバの骨、フタルの象徴。魔術の出現、〈浄化の石〉によるイベル人の殺戮、この二つによって暗黒が齎された。そういうことなのではないか。お前たちは、どちらも根本的に勘違いをしていたのかもしれない」

 カドは言った。

「〈浄化の石〉こそが『古き邪悪』なのではないか」

──翳。

 キイラの脳裏に黒い雨が蘇った。ミラの黒瑪瑙が齎した「祝福」の証。

 レイガンは黙って自分の椅子に戻り、腰を下ろした。静寂の中に、椅子の軋む音が響いた。

「そうであれば、聖女を殺すわけにはいかない。予言が本当なのだとしたら、天と地を再び結びつけるものが必要だ」

「それが」

 キイラは尋ねた。

「それが、わたしだと思っているの」

 レイガンは頷き、瞼を下ろした。焼け焦げた文字の並びが、ちらちらと熾火のようにところどころで輝いた。キヤルクはこめかみを押さえ、ただ文字を睨みつけていた。フラウが荒っぽく立ち上がり、部屋を出て行った。何人かのフタル人とイド、神官の男がそれに続き、その場にはキヤルクと数人の魔術師だけが残された。立ち去ろうとするレイガンを、キヤルクが呼び止めた。疲れたように振り向くレイガンに、キヤルクが問いかけた。

「教えろ。それでは、『耀ける劔』とはなんなんだ」

「それは……まだ分からない」

「それなのに、ただ信じろと言うのか」

「あなたがたはずっと不確かなものを信じてきたはずだ。私たちもそうだ。なにを信じるにせよ、時代は既に動きはじめている。信じたいものを信じればいい」

 それで話は終わりだった。レイガンは部屋を出た。キヤルクは再びレイガンの名を呼んだが、今度は彼は振り向かなかった。キイラも後に続いた。革紐の先で揺れながら、カドはやはり黙りこくっていた。

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