第42話

 一晩が明けてもフタル人らとイベル人らの間にはひりつくような緊張感が横たわっていたが、キイラは努めてそれを気に掛けない素振りに徹した。カタリアのように。あの小柄で華奢な友人がいかに強くあったかを思い出し、キイラは改めて驚かされる思いだった。

 様々な部分でネルギの村とは勝手が違うことに、イベル人らは戸惑った。魔術師や神官の多くはフタル人と寝食を共にすることを嫌がり、近隣の廃村に新たな集落を構えることを提案した。コウロウはそれを却下した。一行は行商人や楽師の一団のように、来客用の宿舎のある外れに天幕を貼った。そうしてソセの人々に食材や様々な日用品を分けてもらう代わりに、魔術で彼らの暮らしを助けることで対等な関係を築こうとしたのだが、それは実際のところあまりうまくはいかないようだった。フタル人らは邪なわざであるとして魔術に嫌悪感を抱いていたし、イベル人たちは自覚的であるにせよないにせよ、彼らを見下していたからだ。それは、コウロウやあのドルムでさえそうだった。

「仕方ないわ」とキイラは言った。「そういう教育をずっと受けてきたんだもの」

「そうかもしれない。だが、時間がないのもまた事実だ。仲間割れしている場合ではないぞ」

 カドが憂いに満ちた声で答えた。

 それでも多くの人々はある程度互いに無関心な素振りを保つことで直接的な衝突を避けていたが、フラウとイドは特に険悪で、顔を合わせればほとんど殴りかからんばかりだった。キイラは薬草園にオオバコを採りに行った帰り、療養所の裏でイドがコウロウにこう零しているのを聞いた。

「こんな暮らしにはとても耐えられない。罪人と同じ皿からパンを取れるか? いいや、コウロウ、やつらだって同じように思ってる。あいつらが俺たちを見る目つき、お前にだって分かるだろう。俺だってレイガンの言うことが分からんわけじゃない。だが、俺だけじゃない、そのうちに脱走者が現れるさ……」

 イドの言う通り、五日もすると脱走者が出た。ネルギの村でドルムと口論していた神官のパルテだった。夜のうちに出て行ったようで、彼の姿と荷物とかそっくり無くなっているのをコウロウが発見した。この事件はキイラたちを含めイベル人たちを気落ちさせた。ドルムは冗談を飛ばして殊更に明るく振舞ってみせたが、どうにも上滑りしている感じは否めなかった。


 一方で、関わりの変化については子どもたちのほうがむしろ柔軟であったと言えた。初日にレイガンに親しみを見せた少年の名前はゼアンで、彼は度々イベル人の天幕に一人で訪れては魔術師たちをぎょっとさせた。彼には兄と姉が一人ずついて、名前をそれぞれルグイとキリと言った。ルグイは弓の得意な狩猟隊の少年で、キリは臆病な性格が玉に瑕だが、八弦琴の名手だった。彼らが事実上の仲介役となり、食材や日用品を運んでキイラたちの生活を助けてくれた。二人は弟と違って魔術師たちの一挙一動を警戒していたが、それも初めのうちで、次第に気安い態度を見せはじめた。

「あんたも魔法使いなんだろ。ちょっと魔法ってやつを見せてくれよ。おれは間近で見たことないんだ」

 ルグイが小生意気な口調でそう言うと、ドルムが真面目な顔で訂正した。

「魔法使いじゃない、『魔術師』だ」

「どっちだっていいじゃないか」

「ルグイ、やめなさいよ。お父さんに怒られるわ」キリはルグイの服の裾を引いた。「あたしたち、もう帰りますから……」

「そう?」

 ドルムは首を傾げ、空っぽの両手でなにかを包むような仕草をしてみせた。歌うようになにごとか呟く。つられるように覗き込んだキリの目の前でそっと手を開いてみせると、その中から見事な翡翠色に輝く蝶がぱっと飛び出した。驚きの声を上げた少女の目と鼻の先で、蝶はまるで生きているかのように二、三度羽搏いてみせ、きらきらした銀の鱗粉を散らした。ルグイが手を伸ばすと、蝶の輪郭は煙のように曖昧となり、やがて跡形もなく消えた。

「蝶は繊細で難しいのに」

 横で見ていたユタが感心したように呟くと、「幻影魔術は僕の得意分野だからね」とドルムは鼻にかけたようすもなく言った。

「心臓石を使いこなせれば、もっと長い間維持できるようになるはずだ。まだ安定した成果は出せていないけど、それぞれが独立して動くガロン蝶の大群だって難しくない。こんなふうに……」

「すっげえなあ」ルグイが空いた口が塞がらないというような顔をして、素直に言った。「もっと色々出せるわけ? 鳥とか、虫とかさ」

「兎も出せる?」とキリが口を挟んだ。

 ドルムは一瞬言葉につかえ、「まあね」と答えた。「その、よければもっと見る?」

 連れ立って出て行く彼らをキイラとユタとは微笑ましく見ていたが、キイラはふと思い立って天幕の隅に目をやった。

「イド、あなたも行ったら?」

「どうして俺が?」

 ユタが声を掛けると、返答はすぐに戻ってきた。イドがこちらを気にしているのには気づいていた。

「幻影魔術ならあなたも得意じゃない」

「俺のはお遊び向きじゃない」イドは苛立ったように言った。「動くものを映し出すのは苦手だ」

「じゃあ、なにが得意なの?」

 それまでレイガンの話に夢中になっていたゼアンが元気に尋ねた。彼はここに来ている間はいつもレイガンにべったりで、ほとんど心酔しているようにも見える。

「止まった情景。町や森、湖……」

 イドはそう呟きながら、両手で魔術の糸を紡ぎ出すような仕草をしてみせる。

 急に日が陰ったかのように、天幕の中がうす暗くなった。キイラがふと上を見上げると、繊細な木漏れ日が顔の上に溢れかかった。傍らにはよく熟れた果物が枝をしならせており、今にも落果しようとしていた。突然に幻影の中に取り込まれた神官の一人が隅のほうで立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回した。木々の全ては時間から切り取られたように静止して動かなかったが、足元に広がる湿った土の色は匂いがしてきそうなほどに現実味があり、キイラは木肌を這い上がる羽虫の足音を聞いたような気さえした。ゼアンは背伸びをして果実を捥ごうとし、その途端に幻影は溶けるように消え去った。

「『絵画的幻影』とはよく言ったものだな」とレイガンは評価した。「見事な出来栄えだ」

「悪いがその言は皮肉だ。残念ながら、俺の術式は少しでも動かそうとすると破綻するんでね。戦闘における敵兵の撹乱にはいくらか役立つが……」

「すっごい! いいなあ、かっこいいなあ……」

 ゼアンは興奮した口調で手を叩いた。イドはなにか言い掛けたが、顔を顰めると、聞き取れないほどに小さな声で一言「大したことじゃない」とだけ言った。そして、キイラたちのほうにちらりと視線を送り、咳払いをした。

「ああいう人種って割に褒められると弱いのよ」とユタが小声で言った。キイラはゼアンのほうに行ってしゃがみこみ、声を掛けた。

「私たちからしたら、きみたちのほうがすごいわ。魔術の力なしになんでもやってのけるんだからさ」

「そうかなあ。でも、魔術ができたほうがやっぱりいいよ。ねえ、とうさんとかあさんにも見せたいなあ。みんなに見せようよ」

「それは……どうだろう」

 ゼアンの硝子玉のように澄んだ黒い瞳を見つめながら、キイラは口籠った。きっと、ゼアンの両親は快くは思わないはずだ。ごく普通のフタル人だろうから。

「それこそ、先入観ではないか」

 唐突にカドが口をきいた。

「試してみればいい。ソセの人々はこういった魔術をまともに見たことがないはずだ。興味がないわけではないだろう」

「それはフタル人たちみんなの前で披露してみせるってことかい」

 戻ってきたドルムが、布扉を持ち上げながら言った。

「つまり、収穫祭でやるような、楽しいやつを?」

「馬鹿馬鹿しい。俺たちは芸人一座じゃないんだぞ」

 イドが苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「そんなことをしてる場合じゃない。戦争が始まるんだ。遊びじゃない……」

「だからこそよ」

 キイラは手のひらで指輪を軽く叩き、力強く言った。カドの言う通りかもしれないと思った。このままでは、手を結ぶどころかイベル人たちとフタル人たちの間の溝は深まるばかりだ。不理解は恐怖だ、まずは相手を知ること。キイラは頷いた。そうだったね、カタリア……。

「誰だって、得体の知れないものの力を借りようとは思わない。フタル人たちにとって、魔術は同胞を傷つける恐ろしいもの。剣や弓と同じだわ。そうじゃないってことを、伝えなくては」

 そう言い切り、キイラはレイガンのほうを見た。視線がかち合うと、魔術師は一瞬目を丸くして、両手を広げてみせた。






「演目は、フタルの伝統的な民話にするわ」

 キイラはレイガンに報告した。二日後の昼下がりである。キイラは羊舎での手伝いを終えたあとで、木蔭でくつろぐ師の姿を見つけたのだった。いつも整えられていた彼の髪は、神殿を出てからというものずっと下ろされている。もう冬になるのに、レイガンはひどく薄着だった。

「手伝ってくれる?」

「ああ」

 レイガンは遠くのほうを見つめていたが、眩しげに目を細めながら、短く答えた。キイラがレイガンの視線を追うと、ドルムがキリと同年代のフタル人何人かに囲まれ、八弦琴を習っていた。たどたどしく爪弾く音が風に乗って切れ切れに聴こえてくる。子どもたちがそれに合わせて歌う。キイラも知っている、古い旋律だった。キイラの眼裏にカタリアの祖母、優しい羊のような目をしたヨンの姿が蘇り、喉のあたりに切なさを感じた。もう会うことはないだろう。

「わたし、この曲知ってるわ」

「私もだ。歌詞は違っても、旋律は同じなんだな」

 レイガンが呟き、音に合わせて小さく口ずさんだ。ところがそれがひどく調子っ外れの歌声だったので、キイラは思わず吹き出してしまった。

「本当に音痴なんだ」

 レイガンが眉を顰め、明らかにむっとした。

 そのとき、それをキイラに教えたのが誰だったかを思い出し、キイラは鋭い胸の痛みを覚えた。突然笑うのをやめたキイラに、レイガンが小首を傾げ、どうかしたかと静かに尋ねた。キイラはかぶりを振った。自分の膝のあたりに視線を落としたレイガンの、未だ隈の残る穏やかな横顔を見つめながら、キイラはふと呟いた。

「あなたって変わったわ」

 レイガンは笑った。

「きみほどじゃない」


 レイガンとキイラがこうして二人で話すのは久々のことだった。思えば出会ったときから二人の間には常に一瞬独特な──ユタやドルムとの間にあるのとは違う──緊張感があり、それがキイラに親しげな振る舞いを躊躇わせていた。どう声を掛けたらいいか分からず、キイラは戸惑いながらガウンの衣嚢の中に片手を突っ込んだ。そして、そこから小さな布の袋を掴み出し、レイガンの鼻先に突きつけた。レイガンは黙って袋を受け取り、手のひらにその中身を開けた。安眠作用のある乾燥させたラワンデルがぎっしり詰まっていた。しばらく沈黙を守ったあとで、私はそんなに落ち込んで見えたか、とレイガンはキイラに尋ねた。

「さっきドルムがまったく同じものを」

「ふうん、わたしのは要らないってことね」

「いいや、両方使おう」

 レイガンは袋の中身を元に戻すと、それを懐に仕舞った。かつてそこには水晶煙草の包みが仕舞われていたのだが、今は空っぽのようだった。

「大丈夫?」とキイラは尋ねた。

「大丈夫だ」とレイガンは答えた。

「眠るのが怖い?」

 レイガンは溜息を吐き出すような調子で笑った。拷問の傷は未だ癒えてはいなかったが、それ以上にジストフィルドのことで苦しんでいるに違いなかった。

「きみが心配することじゃない」

「それはわたしが子どもだから?」

「違う。きみが言及しようとしていることは、私とあいつの間の問題だからだ」

 レイガンはきっぱりと言い、こう付け加えた。「もうきみを子ども扱いはしない」

「だったら、頼ってくれてもいいんじゃない」

 その言葉を聞き、魔術師は驚いたような顔をした。それきり彼がなにも言わないので、キイラはすっかり困ってしまい、言い訳のように呟いた。

「魔術師にとって『安定した情緒』は大事なのかもしれないけど、ちょっとくらい不安定なところを見せたくらいで誰もなにも言いやしないわ」

 言葉を選ぶような長い間のあとで、レイガンは「そうだな」と言った。それからまたしばらくの間沈黙していたが、かすかな八弦琴の音色が聞こえなくなったころ、一言だけこう呟いた。

「本当は、誰よりもあいつに分かってほしかったのかもしれない」

 午後の空色の風が、木の梢を小さくそよがせた。冷たい風は、クスノキの薫りとともに、子どもたちの無邪気な笑い声を幾分含んでもいた。

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