第40話

 黒い雨が降っている。

 煤を溶いたインクよりもなお黒い雨の雫が、青白い女の頰を打っている。雨は縺れた赤毛にも染み込むが、神性を帯びたその奇妙な輝きが失われることはないのだった。

 慎重に皮膚を覆い隠された男の手が女の腕を掴み、雨の降りしきる露台バルコニーから室内へと引き入れた。女は人形のように虚ろな顔をしたまま、それに従った。

「ミラ、そんなに濡れては身体に毒だ」

 覆いを外し、ゆっくりと手袋を裏返したエンジュナが、そう愛情深く呟いた。

「秋の雨は冷たすぎる。幾らこの〈裁きの雨〉が君に害を及ぼさないとしても」



 〈裁きの雨〉はもうひと月ばかり降り続いていた。ユナ・イベルタを衰弱させ死に至らしめるこの雨は、明らかに黒瑪瑙へと変じたミラの指輪が齎した「祝福」だった。フタル人らだけがこの水で渇きを癒すことができ、この雨に打たれた果実を口にすることができた。ユナ・イベルタの町が崩壊し、フタル人たちの多くは職を失ったが、それは革鞣しや砂売りをはじめとする過酷な労働や、謂れのない暴力からの解放をも意味した。魔術師エンジュナはユナ・イベルタであることを捨て、ミラを聖女として祀り上げることで、戸惑うフタル人らに蜂起を促した。長きにわたる抑圧に耐え忍んできたフタル人らは、神の代弁者たる新しい指導者を求めていた。エンジュナはまさに彼らに望むものを与えたとも言えた。

 エンジュナが手巾でミラの右手を拭い、恭しく捧げ持った。

「ミラ、きみになにかあったら……」

 魔術師の指がやさしく指輪をなぞると、ミラの手は痙攣じみた震えを来した。

「わたしは」

 ミラはひび割れた小声で訴えた。

「わたしはもう殺したくないのよ。これ以上……人殺しなんて」

「ユナ・イベルタは人ではない」

 エンジュナが鋭く言った。

「排除すべき敵だ。きみを傷つけ、きみから誇りを奪い、きみから安らかな夜を奪った……」

「このままではいつかあなたをも殺してしまうかもしれない」

 ミラが訴えた。まだ濡れている左手でエンジュナの腕を掴むと、彼は微かに怯んだ。髪からいくつかの水滴が飛び散って魔術師の手を濡らし、その肌を点々と爛れさせた。しかし、エンジュナは僅かに口角を引きつらせただけだった。

「怖ろしいの。エンジュナ……お願い」

 エンジュナは愛する女の手を荒々しく振り払った。彼は地を這うような声で吐き捨てた。

「わたしはわたしの全身を流れているこのイベルの血が憎い」

 彼の澄んだ瞳の奥に、彗星の光に似た炎が揺らめいた。それは、まさにミラがこれまでユナ・イベルタの眼差しの中に見出してきた凶暴性そのものだった。ほんの一瞬、エンジュナ自身が動揺したかのように見え、ミラは彼の憎しみの中に一条の恐怖を垣間見た。エンジュナは顔を歪め、毒の雨に爛れた手を隠した。

「ユナ・イベルタは滅ぶべきだ。そうして多くの種が滅んできた。時代が移り変わるごとに滅ぶべき種が滅んできたのだ。ただそれだけのことだ」

「エンジュナ」ミラが呟いた。「あの頃のあなたに戻って」

「きみを幸せにするためだ」

「わたしはあなたとふたりで静かに暮らせればそれで幸せなのに。昔みたいに……」

「その石はきみにしか扱えない」

 エンジュナが目を細め、血の気のない唇を震わせた。

「もはやわたしときみだけの問題ではないのだ、ミラ」

 エンジュナはそこで暫し沈黙した。部屋の外で雨の降りしきる音ばかりが静けさを強調し、色のない静寂が息詰まるような質量を伴って二人の間に横たわった。魔術師は妻に口づけようとしたが、ミラが怯える素振りをみせたために、結局は背を向けた。

「子どもがいるのよ」

 ミラがエンジュナの背に向けてそう絞り出した。エンジュナは立ち止まった。

「あのユナ・イベルタの子か」

「違う。わたしたちの子よ」

 魔術師は振り返った。彼が妻に向けたのは、凍りつくような鋭い視線だった。

「わたしたちの子は死んだ。もういない。ユナ・イベルタが殺したのだ」

 ミラはエンジュナの名を啜り泣くようにして何度も読んだが、部屋を出て行ってしまうまで彼が振り向くことはなかった。


 一人取り残されたミラは、顔を覆い、床に座り込んだ。キイラは彼女の傍に佇んでいたが、やがて跪き、両腕で彼女の肩を抱くようにした。キイラの腕はミラの身体を透過こそしなかったが、この接触は冷え切った肌を温めることはなく、黒い水もキイラの服や手を汚しはしなかった。

「かわいそうなミラ」

 キイラは呟き、濡れた赤毛に顔を寄せた。

「彼を切り捨てることができてしまえばよかったのに。あるいは狂ってしまえればよかったのかも」

「そう思うのか」とカドが尋ねた。

「分からない」キイラは答えた。「エンジュナの言う通り、もう彼女と彼だけの問題ではないから」

 キイラは立ち上がり、「記録」の中の部屋を見渡した。雪花石膏の窓を開け、外を見下ろしながらキイラは言った。

「これは一体なんなのだろう。石の齎す、この怖ろしい雨は……」

「神の裁きだとエンジュナは言う」

「アルバの?」

「おれはそうは思わない」

 キイラは頷き、カドを見つめた。この石は、今は黄金と漆黒の入り混じる複雑な色彩でキイラを見つめ返していた。

「これは悪意だ。純粋な憎悪と破壊の源。原初の悪意というものが存在するのなら、きっとこれがそうなのだろう。叡智の光によって目覚めたこの悪意は、イベル人を滅ぼしただけでけっして満足はしないはずだ。貪るほどに飢え、最後には全てを飲み込むに違いない」

「『これは翳。邪悪なるもの。昏い翳』」

 キイラは記憶の中のヨンの言葉を引用した。

「そうか」カドは気づいたように言った。「この邪悪なるものは今も確かに息づいている。ここに。それが分かる」

 キイラは両手で指環を包んだ。

「おれはこの悪意をどう扱ったらいいのか分からないのだ。きみも。これから、おれたちはこれと同じことを繰り返してしまうのかもしれない」

「このときとは違うわ」

 キイラは力強く言った。

「私たちは考えることができる。私にも、あなたにもその力がある。運命を操られたりはしない」

 キイラの傍で、ミラがよろめきながら立ち上がった。キイラは彼女の姿を視線で追う。彼女は危うい足取りで扉のほうへと向かい、やがて廊下へと出て行った。エンジュナの後を追っていったのかもしれなかった。最早この階の他に、彼女が出入りを許されている場所はないのに。

「カド、このあとはどうなるの」

 キイラは尋ねた。

「この先はまだひどくぼんやりとして、うまく映しだすことができない。試してみてもいいが」

 キイラは首を振り、もう一度窓の外を見やった。

 黒い雨が降っている。

 厚く垂れ込めた灰色の雲は東の空一帯を覆い隠し、一条の光も射し込んではいなかった。

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