第39話

 長閑な村の暮らしの中にあっても、魔術師らの間に張り詰めた緊迫感と困惑が決壊に至るまでそう時間はかからなかった。これは全くもって当然のことで、キイラにも初めから予想できていたことだった。彼らは、今すぐに神殿に戻り罪を認めて赦しを請うべきだとする集団と、コウロウやレイガンの下につきフタルとの友好の道を探るべきだとする集団に概ね二分された。そして、どちらとも態度を決めかねている者たちは戸惑いながら息を潜め、ただ流されるまま無為に時間を過ごしているといった具合なのだった。

「愚かにも程がある」とドルムはにべもなかった。「今神殿に戻ってなにになる? 馬鹿馬鹿しい」

 神経質そうな顔立ちをした三十がらみの神官が言い返した。

「私たちは今や反逆者だ。異端の者として追われる身。そればかりか、畜生にも劣るフタル人と手を組むだって? 汚らわしい、なんとおぞましいことだ……」

「あの晩、あなたがたがそれを選んだんだ。違うのか」

「こんなはずではなかった。ルースは慈悲深い。今からでも悔い改めれば、罪をお赦しになるだろう」

 その言葉を聞いた途端、ドルムはほとんど笑い出しかけたように見えた。驚くほど不謹慎な冗談を耳にしたときのような、奇妙な表情だった。次に口を開いたとき、ドルムは笑ってはいなかった。

「ルースは確かに慈悲深いかもしれない。だが現実は甘くはないよ、パルテ。本当は分かっているんだろう。戻ったところで弁解の余地もなく拷問に掛けられて殺されるだけだ。神殿は僕らの命のことなどなんとも思っていない。あの日なにを見ていたんだ?」

 神官は顔色を蒼白にして押し黙ると、噛み締めた歯の隙間から憎々しげに絞り出した。

「お前たちなどに着いてくるべきではなかった」

 ドルムは片眉を上げた。

「ああ、その通りかもしれない。つまり、あの夜に命を落としたかったということだろう。救いようのない愚か者は死によってのみ人類の発展に貢献できるというのが……」

「ドルム」

 キイラは兄弟子の名を呼び、窘めた。ドルムが溜息を吐いて一歩下がると、神官は黙ってその場を後にした。最近気がついたことだが、この青年は時折言い過ぎるきらいがある。こういうところまで師匠に似る必要はなかったのだが……とキイラは思う。この神官はただ恐怖に目が曇っているだけだ。怖ろしいだけ。そうでなければ、あの夜、キイラたちとともに結界の外側へと導かれることはなかったはずだった。ドルムもそれは分かっているのだろう。ドルムを苛立たせているのはまさに件の師匠のことで、レイガンはソセへの出立の日取りが決まってもなお沈黙しつづけているのだった。

 ドルムと神官がこのように言い争った次の日の晩——ネルギの村での最後の夜——キイラはレイガンを訪ねたが、すぐに先客がいることに気がついた。キイラはいつかのように息を潜め、オイルランプの灯りの届かない扉の影から様子を伺った。

「なぜリーダーをやろうとしないの。みんながそれを望んでいるのを、気づいていないわけじゃあないでしょうに」

 ユタの穏やかな問いかけに、レイガンは寝台に腰かけたまま、眉を顰めた。

「夜に私の部屋に一人で来るな」

「でも、結局中に入れたじゃない」

 魔術師は呆れたように肩を竦め、無意識の素振りで懐をまさぐった。キイラは彼が水晶煙草の包みを探しているのだと気づいたが、その仕草は依存症のためというよりもむしろ、「居心地の悪さ」からの逃避行動のように見えた。遠目にも明らかなほどに、未だ彼の目元は黒ずんだままで、髪には櫛も通されていなかった。レイガンは諦めまじりの溜息を吐いた。

「私は不適だよ」

「どうして」

「自分のやり方が間違っていたと気づいたんだ」

 ユタは笑ってみせた。

「間違っていたら、やり直せばいいじゃない。あなたは私たちにそう教えてきた。今、私たちをまとめる人間が必要だってことは分かるでしょう」

 そこで言葉を切り、ユタは声に熱を籠めた。

「レイガン、今は一人じゃない。そうだわ。あなたに賛同する人たちがいる……」

「だから怖ろしい」

 冷水のような声に、一瞬それを発したレイガン自身が怯んだかのように見えた。ユタの表情は見えなかったが、その背が緊張したのが分かった。レイガンが淡々と続けた。

「自分の間違いに多くのフタル人を巻き込んだ。理解のある若い兵士ばかりだった。憎いはずのイベルの魔術師である私に協力すると言ってくれた。それがレベレスを殺したいがためのうわべの信頼だったとしても。私がなにをした? 殺しただけだ。人を殺めるために人を集め、全員を殺した……」

 レイガンは俯き、僅か沈黙した。

「彼らのためにも私はもう後戻りはできない。それに、ここから逃げ出したら私を助け出したきみたちにも申し訳が立たない。私はまた違ったやり方で新しい時代に貢献しよう。だがその先頭に立つべきは私ではない」

「では、誰が?」

 キイラの無声の呟きはユタの声と重なった。レイガンは再び重苦しい溜息を吐いた。ユタは冷静に続けた。

「あなたの気持ちは分かるわ。だけど、それは無責任よ」

「私をここに連れてきた君たちには責任はないのか?」

 ユタが黙った。済まない、とレイガンは短く謝罪し、両の手のひらで目を擦った。

「もう少し考えさせてくれ。独房の中で死を待っていたとき、私は怖ろしくなかった。今は色々なことが怖ろしく感じられる。あのとき、私は自分の信じる正義のためにドルムを傷つけることができた。ジースと刃を交えることも、多分、必要になればキイラを殺すことだってできるだろう。だろう。それだけじゃない、私は」

 レイガンはそこで声を詰まらせ、その続きを言うのをやめた。ユタも敢えて促しはしなかった。ややあって、レイガンが呟いた。

「そうだ。〈王〉はなぜ彼女たちを取り返しに来ない? ユタ、私に失望したろう。なにが正しくて、一番いいのか、今の私にはよく分からないんだ……」

 ユタが椅子から立ち上がる音がし、ランプの灯りが揺れ、わずか翳った。キイラは足音を殺し、そっとその場を離れた。多分、二人ともキイラのことには気がつかなかっただろう。


 屋外に足を踏み出すと、冷たい夜気が肌を刺した。風はなく、ブナの林は凍りついたように静止して周囲と融けあうことを拒み、星明かりの中に黒々と浮かび上がっていた。レイガンの言ったことは真実だろう、とキイラは思った。それがなんであれ、彼の信奉する正義のためであればレイガンは躊躇いなく障害を排除できるだろう。キイラやユタでさえ。ただし、それはレイガンを手酷く傷つけるはずだった。

「わたしは、やっぱりレイガンが主導者であるべきだと思う」とキイラは呟いた。「カド、あんたは?」

「おれはきみについていくだけだ。何せ、きみの首に掛かっていて手も足も出ないのだから」

 カドは惚けたような返事を返した。もし彼が人間の姿を持っていたなら、わざとらしく小首を傾げていたに違いない。カドは尋ねた。

「いざとなればきみは死ぬつもりなのか?」

「そのつもり」

 キイラは気負いなく答えた。

「どうしてもそうしなければならないときは。わたしたちは人殺しのための道具にはならない……」

 かつて、この身体は殺すためにあった。そう信じていた。今はそうじゃない。

「レイガンにやらせるわけにはいかないわ。そんときは、あんたも一緒に死んでくれるの?」

 このキイラの問いを受けて、カドはやや戸惑ったようだった。

「死ぬとはどういうことだろう。目覚める前に戻るということか?」

「分からないわ。石の死も、人の死と同じなのかしら?」

「普通石は生きていないのではないか」

「至極まっとうな意見ね」

 頷いてみせる。

「でも、あんたは生きてる。だから、きっと死ぬのよ」

「そう言われると……」

 カドはそこでほんの少し黙り、小さな声であとを続けた。

「不思議と安心するものだな」

 カドの声は穏やかだった。キイラは親指で指輪を撫ぜた。

「あんたを置いてったりしないわよ。かち割っても連れていくわ」

「目覚めてから、色々と考えることがあった。おれが結局のところ何者なのか、なんのためにここに存在するのか、今日に至ってもなお、おれにはなにも分からないのだ。イスリオはおれを兵器だと言い、ヨンはおれを翳だと言った。光に連なるもの、とも。おれは悪魔の武器かもしれないし、世界を救う鍵かもしれない」

「そうね」

 だが、とカドは言った。

「どちらであるにせよ、少なくともおれは孤独ではない」

 そのとき、キイラは初めてこの友人の真実の心を知ったような気がした。いつも、カドが寄り添ってくれていると思っていた。カドにとっても、同じだったのだ。ただ一人の同胞。魂の半身。

 キイラは指環を軽く叩き、呟いた。

「なんにせよ、あんたもわたしも死なないに越したことはないわ。最悪の事態を想定しておくのは大事なことだけど、希望を見失ったら元も子もないもの」

「その通りだ」

 カドが同意した。

「そろそろ、家の中に入らないのか? 石はどれだけ風に当たっても熱を出したりはしないが、人間はそうではない」

「あんたも人間のことがよくわかってきたじゃない」

「それほどでもない」

 キイラは笑い、自分の仮初めの寝床へと戻ることにした。明日は早朝にこの村を発たなければならない。レイガンも、いつまでも答えを保留してはいられないだろう。

 キイラはまだ冷えきったままの毛布に潜り込むと、丸くなった。目を瞑ると、レイガンの声が耳の奥で反響した。

——〈王〉はなぜ彼女たちを取り返しに来ない? 

 キイラはその答えを知っていた。部屋の隅に、黒い影が佇んでいた。黄金の双眸を持ったその影は、亡霊のようにそこに立ち尽くしたまま、キイラのほうをただ凝と見つめていた。自分からそちらに来ようとするのを待っているかのように。その姿は禍々しく不気味だったが、同時にぞっとするほどに孤独で、寂しげにも見えた。キイラは自分がこの影になにか憐れみに似た感情を覚えはじめていることに気づいた。いつか、彼ともう一度対峙しなくてはならない。そのことをイスリオは知っている。今はまだ、そのときではないということも。

 戦いが始まる、とキイラは思った。望もうと望むまいと、誰にとっても、それは避けては通れないのだ。

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