第5章 まつろわぬ者

第35話

 魔術師たちの多くは擦り傷を負った程度で、損失はほとんど皆無と言ってよかったが、帰りの道程はつらく厳しいものとなった。誰も彼も疲れ切っていたし、友を失ったキイラの悲しみは全体に伝染した。ドルムは最後尾で神経を尖らせていたため、ユタが彼女を気遣ってキイラの隣を歩き、明るい声音で話しかけようとした。キイラが気分を紛らわすように自分が居なかった間のできごとを尋ねると、彼女はほっとしたように話しはじめた。ところが、彼女が話すのを聞けば聞くほど、レイガンの救出は絶望的であるように思われるのだった。

 ユタが言った。

「あなたを危険に晒したくはないわ。でも、そうせざるをえないと思う。残された時間があまりにも短すぎる……」

「わたしもそう思う」キイラは同意した。

「レイガンは叛逆の罪と殺人の罪で裁かれようとしている。わたしが生きていることが知れれば、どうあれ法廷は再審理を行わざるをえなくなるわ。極刑に変わりはなくても、時間稼ぎができる」

「時間稼ぎをしたそのあとはどうする」とカドが尋ねた。

「どうしてキイラが拉致され、殺されもせずに捕虜となっていたのかに関して教会が無関心でいてくれるとは思えない」

「だから、教会を出なくてはならないわ」

 ユタの言葉に、キイラははっとして周囲の魔術師たちを見た。二十から三十代と思しき若者らで構成された彼らのほとんどが、神殿では一度も言葉を交わしたことのない人物だったが、確かに見覚えがあった。そのひとりひとりがキイラを見つめていた。

「彼らは『賛同者』なの。ドルムの呼びかけに応じた」

「待ってくれ」魔術師の一人が口を挟んだ。

「俺はレイガンを救出することには賛成した。彼はこれからのイベルタ魔術の発展に欠けてはならない男だ。しかし、教会を飛び出してフタルと手を結ぶ? そこまでは賛同しかねる」

「イド……」ユタが苦しげに呼びかけた。イドと呼ばれた栗毛の男は、眉間に深い皺を寄せた。

「俺はフタルのやつらを駆逐すべきだとは思っていない。しかし、それが神殿の意向なら従うべきだとも思っている。ユタ、お前もそう思ってこれまで仕えてきたはずだ」

「私が仕えているのは神殿ではなくルースよ」

「同じことだ」イドは両の手のひらを向け、首を振った。「非現実的だ。我々の人数はせいぜい十を少し上回る程度。教会から離反してなにができる? 俺はキイラを逃がすべきだとは思わない。危険すぎる。我々がすべきことは、教会の目の届く安全な位置にキイラを置いておくことだろう」

「教会はキイラを殺すぞ」ドルムが異様にからりとした声で言った。「そうしたら、あんた、僕に殺される覚悟はあるんだろうな」

「私もそう思うわ。そんな危険は冒せない」

「どちらにせよ、お前たちの言っていることは夢物語だ。レイガンには魔術師として価値があるが、俺はその思想まで肯定したわけじゃない」イドは両手を広げた。

「みんなそうじゃないのか? 殺しあってた相手だぞ。ユタ、善人ぶるなよ。魔術師になってから何人殺した? 向こうだって我々を歓迎なんかするものか……」

「イド、言い過ぎだ」コウロウが割り込んだ。彼が以前収穫祭でユタに踊りを申し込んだ男だと、キイラは思い出した。

「私はレイガンの意見には一考の価値があると考えている。この国は明らかに暴走を始めている……」

「暴走した国に未来はない」ドルムが冷ややかに言った。「教会はフタル人を殲滅する気だ。間も無く僕らは兵器として大きな戦に駆り出されるぞ。そのとき、僕らが手にかけるのは罪のない子供や老人なんだ」

 首を振り、ドルムは魔術師たちに向き直った。

「確かに、レイガンのやり方は拙かった。だが、今回の出来事は切っ掛けにすぎない。立ち上がるための切っ掛けだ。僕はフタル人たちの屍の上に訪れる時代が、『新しい時代』だとは思えない。あなたがたはどうだ?」

 イドが眉を顰め、顔を背けた。魔術師たちの間に戸惑いが生じているのがキイラにも分かった。みな、決めかねている。キイラは、ドルムの発した「新しい時代」という言葉の響きが耳に引っかかっていた。

──新しい時代がくる。

「光に満ちた時代だ」とカドが呟き、みんながキイラのほうを向いた。喋る指輪に慣れていないものたちの何人かが、カドを食い入るように見つめる。キイラは言った。

「今ここにこうしているわたしたちが、次の時代を作る。わたしたちの子どもたちに受け継ぐ未来が血に塗れていていいはずがない」

 これは戦いなんだわ、とキイラは思った。

「フタルの民もすべてが争いを望んでいるわけじゃない。彼らは自分の居場所が欲しいだけ。信仰と命を脅かされず、安心して暮らせる場所が。怯えているだけなのよ。わたしたちと同じように……」

「同じように?」イドが唸った。だが、誰もその言葉には答えなかった。

「どうあれ──」うねる前髪をかきあげ、コウロウが気まずい沈黙を取りなすように言った。「レイガンを救い出すことだ。そこまではみんな了解済みのはずだろう。目の前のことに集中しなければ、すべてを仕損じるぞ」





 魔術師一行はカルタの町で旅塵を落とし、時間をずらしながらトラヴィアへと向かった。彼らがトラヴィアを離れていたのはほんの三日ほどのことだが、魔術師の集団行動は怪しまれる。この世に存在しないことになっているキイラはというと、目立つ赤毛を布で覆い、写本師ふうの装いをしてコウロウとともに神殿へと足を踏み入れた。この国においては写本作業は女の仕事であるから、若い女性の神殿写本師は珍しくない。

「こんな面倒なことをせずとも、堂々と正面から入ればよいのではないか」

 服の下でカドがひそひそと囁いた。キイラは囁き返した。

「ものにはやり方ってものがあるのよ。わたしが生きていることが知れれば混乱が起きるでしょ」

「混乱を起こしたいのだろうに」

「誰が味方か分からない状況で、無防備に正体を晒したりなんかできないわ。わたしの存在を不都合と感じるものたちがいる。下手を踏むと、地下牢にぶち込まれてる間にレイガンの処刑が終わっちまうわよ」

「その通り」とコウロウが口を挟んできた。

「失敗したら取り返しのつかないことになるからね。最も効果的な瞬間を狙う。きみはなるべく多くの人間に目撃されなくてはいけない。大衆の前で、レベレスに直接訴えるんだ」

「処刑の執行には必ず最高神祇官が立ち会うことになっている。絶好の機会だわ」

「うまく行くだろうか」カドが不安げに言った。「大体、レベレスとやらはどういう男なのだ」

「話して分からないお方ではない」

 コウロウは言い切ったが、その語尾にはやや自信なさげな響きがあった。

「どちらにせよ、処刑を延期する権限を持つのは最高神祇官だけだ。これ以外の方法はない」

 騒がしい廻廊から大書庫に入ると、二人と一個は沈黙した。勉強熱心な魔術師どもは書架の間で革張りの背表紙を睨みつけるのに忙しく、キイラには目もくれない。キイラは久々の写本の匂い、古びた羊皮紙とインクの匂いとを胸いっぱいに吸い込んだ。ここを離れていたのはほんのひと月と半分のことなのに、ひどく懐かしく感じる……。

 溜息を吐いたあとで、コウロウが言葉を選ぶようにして言った。

「イドのことは許してやってくれないか。悪気があるわけじゃない」

「分かるわ」

「本当は、多分彼も賛同しているんだ。レイガンに敬意も抱いてる。ただ、怖ろしいだけなんだろう。新しい場所に足を踏み出すことが怖いんだ」

 コウロウがそう言った瞬間、キイラの胸中にカタリアの言葉が蘇った。その声は光に遊ぶ七色の光沢を帯びて、キイラの心の内側をやさしく撫ぜた。キイラはそれとは分からないほどかすかに顔を歪め、次いで悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「わたしの師匠がそんなに人望があるだなんて思わなかったけど」

「我々の年代の魔術師はみな内心レイガンに一目置いているよ。彼は昔から人と違っていた。敵も多かったが」

「分かるわ」

 キイラがもう一度そう言うと、コウロウも口角を上げた。その肩越しに、キイラは此方へ歩いてくるドルムの姿を見つけた。予定通りだ。キイラはコウロウに向き直り、言った。

「レイガンに会わせて」








 香油と木蝋、微かな水晶煙草の匂いが地下の陰気な空気に溶けていた。レイガンの匂いだ、とキイラは思った。確かにここにいる。

「看守の全員を抱き込めればよかったのだが」

 反響に用心しながら、コウロウが声を潜めて言う。濡れた冷たい石床は、柔らかい靴を履いていても足音がよく響く。

「どうせ金で動く連中だ」先導するドルムが頰の傷を引っ掻きながら呟いた。「人に暴力を振るうことに躊躇いがない。やつらは魔術師に恨みを抱いてる」

「試験に受からなかった魔術師崩れが多いのは事実だね」

 コウロウが認め、躊躇いがちに言った。

「初めに言っておくが、もしかしたらきみ、レイガンを見て驚くかもしれない。彼はふた月近くここにいたんだ。普通なら……」

 ドルムが吐き捨てるような調子で後を受けた。

「初めのひと月で死を熱烈に願うようになる」


 レイガンの収監されている一番奥の牢は、蝋燭の灯りが届かないためにひどく暗く、目を凝らさなくてはよく見えなかった。人影が奥の壁にぐったりと寄りかかっていた。ドルムが魔術の炎を籠めたランタンを鉄格子に近づけてはじめて、キイラはレイガンの姿をはっきりと見た。キイラは息を飲んだ。記憶の中の自信に満ちたレイガンとはまるで別人だった。

 レイガンは眠っていた。右の手首を葉長石を嵌め込んだ鉄の枷によって封じられ、それは魔術の鎖によって壁の楔へと繋がれている。これが上級魔術師としての彼の力を徹底的に殺いでいると思われた。力なく垂れ下がった両手からは手袋が剥ぎ取られ、目を覆いたくなるようなかつての火傷の痕を晒している……いつも整えられていた髪は無残にもつれたまま血に固まっていた。青ざめた肌はおおよそ打撲痕と切創に覆われ、彼が継続的にひどい折檻を受けていたことは明らかだった。

「レイガン」

 ドルムが灯りを揺らすと、レイガンの瞼がひくりと動いた。彼の目の下に落ちるのは睫毛の影ばかりではない。激しい疲労がくっきりと隈を染めつけていた。レイガンは何度か瞬きをしてから眩しげに目を細め、自分以外の人間の存在に気がつくと、ぎくりと身体を揺らした。

「ドルムか」

 レイガンが嗄れた声で呟いた。小さく咳き込む。「なんの用だ……」

「あんたに会いたがってる人がいる」

 キイラがドルムの横に進み出て、自らの髪を隠す覆いを外した。冷たい灰の瞳がキイラを捉えた瞬間、レイガンは嘘のような俊敏さで衝動的に起き上がろうとした。彼の動作に反応して、鉄の鎖がそれ自体意志を持った生き物であるかのように動き、獲物の身体を壁際へと引きずり戻した。レイガンが小さく呻き声を上げた。なおも抵抗しようとするレイガンに、コウロウが言った。

「レイガン、あまり看守を喜ばせるな」

「なぜ彼女がここにいる」

 思わずといったように、レイガンが錆びついた声を張り上げた。

「大嘘つきの師匠に掛ける言葉はないね」

「ドルム、師弟喧嘩をしにきたわけじゃないでしょ」

 キイラを睨みつけ、レイガンは怒りを抑えるように声を潜めた。

「なぜ帰ってきた。きみは自分の立場が分かっていない、いや……」

「立場が分かっていないのはおまえのほうではないか。おまえを救うためにはキイラが戻るしかない」

「馬鹿な。指環も一緒なのか? どうやって《王》から逃れた」

「積もる話もあるだろうが、そういったことを話している時間はない」

 コウロウが穏やかに言った。レイガンは今気づいたというように、彼に視線を向けた。

「ジストフィルドには?」

「伝えてない」

「正しい判断だ」

 レイガンは苦しげにそう吐き捨て、息を切らしながら俯いた。肺腑が痛むのか、浅い呼吸の合間を縫うようにして、彼は切れ切れに呟いた。

「ドルム、おまえが連れてきたのか。馬鹿なことを。私を救うためだと? この愚か者が、どれだけ危険なことをしているのか分かるか、早く、早くそれをどこか遠くへ連れていけ……」

「わたしがそう望んだのよ」キイラは言った。「もう来ちゃったんだからどうしようもないわ。それに、人に指図できる状況なの?」

 キイラはドルムからランタンを受け取り、更にレイガンへと近づけた。レイガンは反射的に背けた顔を庇うように腕を翳し、背にした壁の方へと逃れようとした。怯えるように。動作に伴い、鎖が重たく硬質な音を立てた。

「あんた、大丈夫か」

 ドルムが小さな声で尋ねた。鉄格子を掴んだ彼の手が、関節のところで白くなっているのをキイラは見た。

「悪夢を」レイガンが初めて弱音を吐いた。「悪夢を見る。微睡むたびに……気が狂いそうだ」

「あまり眠らないほうがいい」

「……分かっているんだが」

 レイガンが呻くように言った。キイラは彼の左手に爪が一枚もないことに気がついた。眠らないために、自分で自分の爪を剥がしたのだ。

「ひどく……眠くて……」

 キイラは思わず鉄格子の隙間から手を伸ばそうとした。ランタンの光によって長く伸びた影が大きく揺らめき、血のこびりついた壁とレイガンの身体の上とを蛇のように這い上がる。爪のないレイガンの左手が床を引っ掻き、赤黒い筋を作った。魔術の齎す深い眠り、終わりのない悪夢の続きに引きずり込まれていく。影が一条、此方へ伸びてきてキイラの指先を舐めた。そのぞっとするような冷たい感触……

 ドルムに強く襟の後ろを引かれ、キイラは我に返った。レイガンは元通り、身動ぎもせず壁に凭れ掛かっていた。ドルムが首を振り、キイラの手を引くと、牢に背を向けて歩き出した。キイラは服の上からカドの輪郭を確かめた。「分かっている」とカドは呟いた。キイラは一度だけ背後を振り返った。牢の中は暗闇に沈み、もう人影も見えなかった。

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