第36話

「処刑の日取りは」

 カドが尋ねた。西塔のドルムの居室である。やや手狭だが、陽が落ちてから複数人で話し合うときには最も階段側に位置する彼の部屋を使うと決めていた。

「確定したわけではないが、おそらく次の満月の夜になるだろうね」とコウロウが淀みなく答える。彼は既に指環が口をきくことに慣れつつある。

「伝統的に、処刑は月のある夜に執行されることになっている。叛逆罪であればなおのことだ。欠けることのない全き円と光とはルースの象徴。罪人は満月の光で清められた劔によって、最高神祇官の御前で首を落とされる」

「それなら、あと五日しかないじゃない」

 キイラは緊張した声音で言った。ドルムがかぶりを振る。

「正直に言ってむしろ遅いくらいだ。あの牢の中では、僕らの師匠の精神が壊れるのは時間の問題だよ。一刻も早く彼処から出さないと」

 精神が壊れる、という言葉にキイラは身を竦ませた。ランタンの灯りに怯えるあの素振り——あまりに長くくらやみを見つめすぎたために、闇に巣食われ心の内側から食い潰された男の話を知っていた。彼は闇から救い出されたあとも、光を怖れ、薄暗がりの中に閉じこもった。多くの治癒魔術師が彼の精神を修復しようと試みたが、壊れてしまった心はけっして元の通りには戻らず、彼は残りの短い人生をひたすらに壁と向き合って過ごした。

「処刑されるまでに、レイガンに近づける機会はあるの」

 それまで沈黙を守っていたイドに向き直り、ユタが尋ねた。ドルムも彼に鋭い視線を向ける。最後に行われた神殿つき魔術師の処刑は二十年前だというから、ユタもドルムも実際に処刑の儀を目にしたことはない。イドは目を細めると、低い声で答えた。

「処刑の段取りは決まっている。まず最高神祇官であるレベレスが現れ、椅子にお掛けになる。椅子は処刑台に向かい合うように配置されていて、その両脇に二人の特級魔術師と神祇官が控えている。そのあとで、罪人が処刑台に引き出される。罪人が姿を現すまでの間、我々に口を挟む機会はないだろう」

 イドは考えながら言った。

「我々一般の魔術師と神官らは、一様に左右の壁に張り付くようにして儀礼を見守ることになる。まずは神官が罪人の罪状を読み上げ、それを確認する。そして、最高神祇官が頷き、罪人に問いかける。ここで、罪人には家族・あるいは友人に対し最期の言葉を残す慈悲が与えられる。次にレベレスは群衆に問いかける。この者が犯した罪は死に値するか、と。然りと我々が唱和する。これを以て最後の承認を得る。そのあとで、一級神官が光によって聖別された劔を掲げ、罪人の首を断つ。異議を申し立てる機会があるとすれば、一度しかない」

「わたしたちへの問いかけのときね」

 キイラの言葉に、コウロウが頷く。

「中央に飛び出す。なんでもいい。大声で大衆とレベレスに訴えかけろ。最悪再審理に持ち込めなくてもいい、とにかく場に衝撃を与えるんだ。誰も生きているきみの存在を無視できない。儀が中断されれば勝機はある」

「僕らが援助する」ドルムが力強く言った。「なるべく飛び出しやすい位置に陣取らなくちゃな。そのときまで目立ってはいけないが……」

「最前列は上級魔術師と決まっている。潜り込むのは難しいぞ」

「誰か上級魔術師の礼服を都合できる人はいる?」

 私が、と手を挙げたのはユタを除けば唯一の女性で上級魔術師であるハイネ。扁桃の形をした両目を忙しなく瞬かせて言う。

「処刑の儀ではみな上着の覆いを被るのが通例だから、その髪と顔は隠せる。好都合だ。目くらましの呪文を被せておけば誰も気づかない」

「よろしい」コウロウが頷いた。「それでは、そっちのほうはドルムにお願いしていいかい」

「言われなくともそうするつもりだよ。幻惑は得意分野だ。この中では僕が一番術の扱いに長けている」

 ドルムが無礼なほどにあっけらかんとした調子で答えた。幻術を専修している何人かがむっとし、ユタが額に手を当てたのが分かった。カドが呆れたように呟く。

「そういうところだぞ、ドルム」

「そううまく行くかは甚だ疑問だな。不確実に不確実を重ねてなにが予測できる?」

 イドが暗い表情で水を差した。ドルムが冷静に答えた。

「イド、なにか代案を出せるのなら、今ここで披露してもらいたい。僕ら全員のためだ」

「俺はただ、不安だと言っただけだ。いけないか」

 ぼそぼそと同意する声がいくつか上がった。

「不安なのは仕方がない」

 コウロウが取りなした。

「こうなってしまった以上完璧な作戦なんていうのは望めない。前提として、これは成功する保証のない危険な博打だ。みんな、それを覚悟で乗ったはずだろう」

「駄目だった場合はどうするんだ?」と若い魔術師がおずおずと尋ねた。

「決まっているだろ」

 ドルムが呆れたように言った。

「逃げるのさ」






 黒パンを千切っている。酸味がきつくぼそぼそとした黒パンはそれほど味のよい代物とは言えないが、人気がないぶん調達しやすい。差し当たっては食事のたびに大広間にのこのこと姿を現すことなどできるはずもなく、キイラの毎日の食糧はユタが運んでいた。

「無口ね」

 ユタに声を掛けられて初めて、キイラは自分が無心になってパンをばらばらにしていたことに気がついた。一旦黒パンの塊を放棄し、指についたパン屑を払い落とす。ユタが頬杖を突いてこちらを見つめていた。目の下には深い疲労が青の絵の具を塗りつけていたが、表情は穏やかだった。

「そうかな」

「まるで置物みたい。元気を出してなんて言えないけれどね。食欲もあまり湧かない?」

 キイラは溜息を吐いた。

「怖いのかもしれない」

 素直な気持ちを口に出してもいいような気がして、キイラはそう言った。

「これまでは、わたしとカドだけの問題だった。今はそうじゃない」

「そうね」とユタが認めた。

「ふたりぼっちじゃないわよ」

 ユタがそう言うのを聞き、キイラはほほえんだ。カドが尋ねた。

「ユタ、おまえは怖ろしくないのか。すべてを失うかもしれないことが」

「それがね。今は不思議と怖くない」

 ユタが徐に手を伸ばし、キイラの皿からパンの欠片を摘まみ上げた。そして、オイルランプの灯りに翳すようにして、なんとはなしにそれを見つめながら彼女は言った。

「あの人にとって、私は長い間守られるべき存在だった。ずっと、それが苦しかったわ」

 「あの人」が誰のことを指すのか、キイラには分かった。ユタは自身の脇腹にそっと手のひらを当てた。

「私はどこまで行っても彼と対等ではない。彼が実際そのように扱おうと努めているのが分かる、それでもやはり私は彼の妹でしかないのよ。庇護される存在。同じ視点を共有することはできない。隣に並び立つことができない、兄妹にはなれても親友にはなれない、例えばジストのような……。私、今回のことがあって、一番最初に考えたのはジストは知っていたのかってことだった。それで、彼も知らされていなかったことに安心した。ひどい話でしょ」

 キイラは思わず口を挟みかけた。思い止まったのは、ユタがしずかな微笑を浮かべていたからだった。ユタは首を振った。

「だけど、そうやって悩むのももう終わりにするって決めたの。私、今初めて自分で考えて、自分の意思でここに立ってるってそんな気がするわ。それが正しいことだからだとか、誰かに認められるためだとか、誰かのためだとか、そういう理由で生きてるんじゃない。私がレイガンを助けたいから助ける。あなたたちを手伝いたいから手伝う」

 ユタはパンの欠片を口に入れた。戯けたように顔を顰めてみせる。

「ありがとう、ユタ」

「多分、ドルムも同じことを言うわ」

 キイラは俯いて笑った。笑いながら、キイラは手を胸元に遣り、もう慣れ親しんだカドの感触を確かめた。ドルムと話がしたかった。ここに帰ってきてから、一度も二人で会っていなかった。今はそれどころではない。それどころではないと知っていても、少しでいいから話す時間が取れればと思わずにはいられなかった。炎に照らしだされた彼の横顔が、目の前にありありと思い出された。あの顔の傷跡について尋ねたかったし、できれば指でそれにそっと触れて、労わりたかった。

 ユタの手のひらがキイラの頭に乗せられ、ゆっくりと撫ぜはじめた。ひどくやさしい手つきだった。カドは温かみのある光を灯したまま、なにも言わなかった。やがてユタが古い唄を口ずさみはじめ、キイラはとても長い間、されるがままに俯いていた。

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