第34話

 キイラはすぐ傍に男の気配を感じた。


〈王〉はまったく突然に現れた。初めからそこに立っていたかのように、彼は揺れる小舟の上に危なげなく佇んでいた。一寸先も見えないはずのくらやみの中で、〈王〉の作りもののように美しい青白い顔が浮かび上がっていた。彼はキイラに覆い被さろうとした。

 そのときカタリアが勇敢にも背後から〈王〉に掴みかかり、彼は体勢を崩した。〈王〉は苛立ちの唸り声を上げながら、腕を薙ぎ払い、カタリアを水路に突き落とした。あっとカタリアが小さな声を上げ、反射的にキイラに向かって手を伸ばした。キイラは悲鳴をあげ、カタリアの手を掴もうとした。ふたりの指はぎりぎりのところで絡まなかったが、キイラは死に物狂いで自身の腕から魔術の蔦を伸ばした。蔦はふたりの腕にしっかりと絡みつき、離れないように固定した。キイラの力によって加速する急流の上で頼りない舟が激しく揺れ、ほとんど転覆しかける。必死で舟のへりにしがみつくキイラを、〈王〉──イスリオはつまらないものでも見るように冷徹な瞳で見下ろした。舟の揺れは彼にとって問題にならないようだった。

 舟はキイラの魔術を受けて進み続けている。水路の出口、埋み門はすぐそこだったが、外にもフタル兵が大挙して待ち構えていることは明らかだった。水の中を引き摺られるカタリアが突然もがき出し、自らの腕に絡みつく蔦を振り払おうとした。キイラはほとんど泣き出しそうになった。氷のように冷たいイスリオの手が、キイラの肩を掴んだ。途端に全身が鉛のように重くなり、舟の速度がぐっと落ちた。キイラは歯を食いしばって防御の呪文をかけた。イスリオはほんの一瞬熱いものにでも触れたかのように指先を引っ込めたが、それだけだった。

「諦めろ」

 怒号と激しい瀬音の中でも、低く落ち着いたその声は朗々と響いた。

 キイラは唸り、渾身の力でカタリアの体を引き寄せた。カタリアの手が自身の力で舟べりを掴む。あと少しで這い上がれそうだった。

「運命に抗うな。お前のいるべきところはここだ」

「あなたが決めないで!」

 キイラはがむしゃらに音と光の稲妻を放ったが、イスリオは意に介さなかった。とっくに〈くらやみの罠〉は解けていた。水路は終わりかけている。舟は四角くくり抜かれた夜に向かって飛び出した。

 そのときだった。

 激しい爆発音が耳を劈き、視界を白が塗りつぶした。キイラは冷たい水の中に勢いよく投げ出された。鼓膜が破れてしまったかのようになにも聞こえず、瞳が焼き尽くされてしまったかのようになにも見えなかった。それでも、カタリアの腕は離さなかった。蔦を手繰り寄せ、直接手を掴む。ちぎれそうなほどに細い指! そのキイラの腕を、更に掴むものがあった。手は若い男の力強さを以て、ほどなくしてキイラの体をカタリアごと岸に引き摺りあげた。視力も聴力も奪われながら、キイラはただその手の温もりに縋りついた。

 手の持ち主が誰なのか、キイラにはもう分かっていた。頰に滴る水は、彼女の顔を覗きこもうとする青年の長い髪がもたらしたものだった。キイラは彼の表情を一目見ようと目を凝らしたが、光に焼き払われたあとの視界は未だ完全には戻ってこなかった。キイラは喘ぎながら言った。

「ドルム……」

 ドルムは答えなかった。ただどこか遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。ドルムの腕がずぶ濡れのキイラを抱きかかえ、安全なほうへと誘導した。戻りつつある視界で背後を確認すると、水路へと通ずる埋み門は完全に破壊され、崩れた瓦礫の下敷きとなっていた。夜の川へと流れ込む水路はほとんど堰き止められ、崩れた石壁の隙間から噴き出すように水が注ぎだしている。その周りでは、既に幾人ものフタル人の兵士が斃れていた。

「〈王〉は死んだか」

 ドルムは言った。

「生きている」カドが確信の声色で告げた。「彼は生きている……」

 わっと鬨の声が上がり、弓や銃器を構えた新しいフタル兵たちが姿を現した。風の唸りが耳に届くやいなや、ドルムがキイラたちを草むらにつき転がし、伏せるよう指示すると、炎を放って応戦した。呼応するように掩蓋えんがいつきの塹壕から姿を現したのは、フタルの射手たちではなく、イベルの魔術師たちだった。〈二軍〉の外套を夜風にはためかせ、口々に呪文を放つ。ぎらつく銀の炎が竜のように舞い上がって荒れ狂い、フタル兵らを威圧した。キイラはすぐに、魔術師のほとんどが単なる幻影に過ぎないことを嗅ぎ取ったが、フタル人たちには区別がつかないようだった。キイラはドルムの外套の裾を掴み、もう片方の腕ではしっかりとカタリアを抱き寄せながら、自分たちから矢や鉛の弾を逸らすことに集中した。炎の明かりを受け、ドルムの横顔と耳朶に揺れるオリーブ石とがかがやいた。キイラはそこでようやく、兄弟子の顔を見た。彼の肌は土埃にまみれ、流れた汗が頰や首の上で筋になっていた。その瞬間、キイラは眼前に広がる混乱も、兵士たちの怒号も、耳元で唸る殺意の響きも、〈王〉の焼けつくような眼差しも忘れた。

 ドルムがこちらを振り向いた。彼の顔の右側には、ひどく目立つ魔術の傷痕が走っていた。

 彼はキイラを見つめると、ほんの一瞬困ったように笑った。ドルムはすぐに視線を向こうへ戻し、キイラたちを連れてじりじりと後退しはじめた。林のほうへ。キイラは林のくらがりの中に、何人かの魔術師たちが潜んでいることに気がついた。その中に、キイラはひどく見慣れた姿を見つけ、胸を引き絞られたような気持ちになった。ユタ!

 彼らは身を隠しながら、幻の魔術兵と幻の炎で敵を撹乱し、巧みに同士討ちさせようとしていた。ドルムがキイラの肩を押した。キイラはしっかりとカタリアと手を繋ぎ、林の中へと駆け込んだ。カタリアが強く手を握り返してくるのがわかった。振り向くと、真昼間のような逆光の中にドルムの姿が黒々と浮かび上がっていた。

「逃げられると思うな」

 耳元で恐ろしい声が反響した。心臓が跳ねまわり、口から飛び出しそうになった。

 金の眼差しの気配に追い立てられるように一心不乱に走ると、鋭く細い枝が手や足を打った。木々の向こうに、同じようにくらやみを駆け抜ける外套の影が見え隠れする。

「谷まで!」と影が叫び、消えた。キイラは頷いて走る速度を上げたが、地面にのたうつ木の根の一つに足を引っ掛け、七ラートあまりの急斜面をカタリアとともに転がり落ちた。手足をひどく擦り剥いた。全身が土まみれになり、髪はもつれて固まり、頰や唇に貼りついた。それでも、キイラは立ち上がろうとした。

 そのとき、カタリアが悲鳴を上げた。同時に、キイラは首の後ろに身の毛もよだつような悪寒を覚えた。〈王〉がくらやみの異形に姿を変え、禍々しい翼を広げていた。カタリアがなにかを叫んだ。

 〈王〉がおぞましい漆黒の閃光を放つのと、自分自身の唇が勝手になにかを象り、カドが闇を切り裂くようなかがやきを放ったのはほとんど同時だった。世界の全ての色彩が消え去り、キイラはほとんど意識を手放しそうになった。キイラは衝撃に吹き飛ばされ、大木の荒れた木肌へと叩きつけられた。

 呼吸が止まる。景色が横倒しになり、激しく揺れた。


 すべてが過ぎ去ってしまうまで、途方も無い時間が過ぎたような気がした。無彩色の嵐がすっかりキイラの周囲を通り抜けていったあとになって、キイラは自分がばらばらになってしまったわけでなく、まだ五体満足のまま息をしていることに気がついた。キイラは横ざまに倒れたまま、弱々しく咳き込んだ。既に、〈王〉のあの黄金の気配は留まってはいなかった。

 ここに居たのは本物の彼じゃなかったんだわ。

 キイラはそう思った。ここは彼が蜘蛛の巣のように張りめぐらした結界の外だった。どんな魔術であれ、代償を無視して結界の外を自由に行き来するような力は持たない。それがルースの理によって形作られた、世界の原則だからだ。それでも──さっきキイラの肩にかかった爪の重みは確かに本物だとしか思えなかった。キイラの精神があとほんの少し脆ければ、攫われていたかもしれなかった。なんという力だろう……イスリオは敢えて自分を見逃したのかもしれないとさえ、キイラは思った。

 手と言わず足と言わず、そこらじゅう痛んで軋む体を叱咤し、キイラは起き上がった。少し離れたところには、まだカタリアが倒れていた。

「カタリア」

 キイラは覚束ない足取りで彼女に近づき、呼びかけた。

「なんとか、助かったみたい……」

 カタリアは返事をしなかった。キイラは彼女の肩に指を掛けた。彼女の身体はひどく重く、キイラの手に抗った。キイラは両腕を使ってカタリアを仰向けにした。カタリアの両目は開かれていた。ただし、その黒い眼差しにはひややかな死のくらがりが忍び込み、ただ虚空を見つめたまま、既に焦点を結ぶことをやめていた。


 キイラの目にどっと闇が押し寄せた。

 キイラは少女の胸に耳を押し当て、その向こうへ去りゆく命の足音を追いかけようとした。既に足音は遠く、温もりはかすかだった。キイラは大きく息を吸い込むと、一寸先も見えないくらやみの海にざぶりと沈み込んだ。

 くらやみの海──海は荒れ狂い、理に逆らおうと足掻く身の程知らずの手足をもぎ取ろうとした。キイラは意に介さなかった。深く、深く、くらやみの更に深い奥底へと、キイラはカタリアの命の灯火を追った。潜るごとに、浮かび上がる泡のようにひとつ、またひとつと音が消えて行った。

 戻ってこられなくなる。

 肌に纏わりつく黒い水の冷たさに、キイラは確信を抱いた。それでも、キイラは闇を掻き分け、潜ることをやめなかった。幾十、幾千にも折り重ねられた闇のヴェールのはるか向こうに、燈虫の灯りに似たはかない光が孤独に揺らめくのを、確かに目にしたからだった。自分の体の輪郭が曖昧になり、長い間海の底に打ち捨てられていた大魚の死骸がそうなるように、指先からくらやみに融けていくのが分かった。キイラは急いだ。キイラは鹿の足跡を追ってひとり冬の森に分け入る猟師であり、消えてしまった群れに追い縋るはぐれもののモルフであり、嵐に逆らって飛ぶ一匹の羽虫であった。水が硝子のような硬質な粘つきを以ってキイラを押し返そうとし、キイラは歯を食いしばって指環を握り締めた。カド、力を貸して……


 突然に、なにものかの腕がキイラを捉えた。その手はほとんど融けかけのキイラを寄せ集め、海面のほうへと引っ張りあげようとした。キイラは死に物狂いで踠いて抵抗したが、腕は浮力の助けを借り、有無を言わさぬ力でキイラを掴んだ。危険なほどに急激な減圧に襲われ、キイラは激しい胸の苦しさを覚えた。針で突いたような光の粒が、足元のくらやみの中に遠ざかっていく。

 気づけば、キイラはカタリアの身体の上で激しく噎せ込んでいた。全身水浸しで、氷のように冷え切っていた。がたがたと震えながら、キイラは泥まみれのカタリアの服を掴んだ。

「駄目だ、キイラ」

 ドルムが言った。

「なぜ」キイラは喘いだ。呼吸がうまくできなかった。「なぜ、いつも止めるのよ」

 両目から熱い雫が零れた。家族を奪われたときにも、許婚を奪われたときにもついぞ流れなかった、涙だった。身体の中の海が溢れ出すように、目から大粒の涙が浸み出しては次から次へと滴り落ちた。キイラは声を上げ、カタリアの身体に縋って泣いた。ドルムの手のひらが、キイラに触れた。キイラの冷え切った肌に、ドルムの身体は火傷しそうなほどに熱かった。

 キイラは明日もカタリアにスープを分けてやるつもりでいたはずの厨房長ラメンダを思い、なにも知らずに寝ているだろう祖母のヨンを思った。カタリアの瞳は今も〈王〉の異形のくらやみを見つめ続けていた。キイラは手をのべ、カタリアの目蓋を閉じてやろうとした。

 いつの間にかキイラたちの周りを塵芥にまみれた魔術師たちが取り囲み、沈黙のうちに立ち尽くしていた。彼らはほんのひと月前までは敵であったはずのこのフタル人の少女を見下ろし、ただ悼んでいた。

 だが、誰も知らないのだ。この少女がどんなふうにわたしに笑いかけ、叫び、わたしの手を握り締めたかを。

 キイラの中で、長い間慣れ親しんだ憎しみがか細い息を吐きながら頭を擡げかけた。キイラはそっとドルムから離れると、よろめきながら立ち上がり、魔術師たちのほうを向いた。そしてそのひとりひとりの疲労に満ちた表情の中に、ただ恐れ、疲れ切り、傷ついた人々の顔を見た。ユタと視線が合い、キイラは心の中で呟いた。

 ああ、わたしは本当に許そう。

 ユタがはっとしてキイラの瞳を覗き込んだ。

 わたしは本当に許そう。わたしから奪ったものたちのことを……。

 その言葉はカドの抱くトパズの耀きを通して、乱反射を繰り返しながらやさしく広がり、夜を照らし出す極光となった。光は琥珀色の薄絹のようにキイラたちを包み込んだ。

 キイラは肩を温める光の中に、確かに父と母の手のひらの感触を覚え、思わず振り返った。そこには、シグもマーサも立ってはいなかった。その幻影すらも。ただ、たったひとりの兄弟子が静かに佇み、キイラの肩を抱こうとしていた。キイラはドルムの胸に顔を埋め、背に腕を回した。彼も同じようにした。誰もなにも言わなかった。ドルムの抱擁は、痛いほどに、ただ純粋なぬくもりだけをキイラの肌に伝えた。

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