第33話
「そういうわけで死んでもらうよ、キイラ」
ランプの灯りを小さく調整しながらカタリアが囁き、キイラは神妙な顔で頷いた。指輪が若い男の声で躊躇いがちに言った。
「カタリア、確かに安全なのか?」
「確かかなんて言えないよ」カタリアは困ったように眉尻を下げた。「でも、これしかないと思う」
「逃げ出すんだもの。多少の危険は覚悟のうちだわ」
キイラは緊張気味に言った。指輪の向こう側で、兄弟子が溜息を吐くのが聞こえた。
「分かった。もう一度確認させてくれ。キイラは棺に入った死体のふりをして、きみと一緒に水路から脱出する」
ドルムからの連絡があった翌日の夜更けである。キイラたちはカタリアの部屋に集まって、脱出の算段を立てていた。キイラの部屋を選ばなかったのは盗聴を危惧してのことだが、勿論これは気休めにすぎない。〈金の瞳の男〉にその能力があるのであれば、どこにいようととっくに会話は筒抜けのはずだからだ。
「明後日はちょうど、〈冬の砦〉に残ってた兵士たちが戻ってくることになってる。夜は宴が催されるはずだよ。ドルムたちはそのことを知ってたの?」
「いいや。しかし好都合だな。警備は手薄になるだろう」
「多分ね」
「水路というのは、他の人間が利用することはないのか?」
「水路を使うのはあたしたち『交ざりもの』だけ」カタリアはぼそぼそと言った。「フタルの民は古来から死を『穢れ』と捉えてきた。だからそれが家族のものであったとしても死体には好んで触れようとしないし、一旦棺の中に入ってしまったら顔を見ることもない。そして、けっして集落の中には葬らない……」
「どこに葬るの?」
「集落から離れたところに、共同墓地を作るんだよ。この砦でも同じ。砦の中で死人が出たときは、あたしたちみたいな交ざりものが専用の通路を使って亡骸を外の墓地まで運び出すの。普通の人間はまず近寄りたがらない」
「警備がいるだろう?」
「一人いるけど、棺の中なんか確認しないよ。いつも飲んだくれてて、不真面目なやつ。そいつさえ誤魔化せれば大丈夫」
「キイラ、大丈夫か?」
ドルムがまた不安げに尋ねた。勿論、こんな問いかけに意味などないとドルム自身理解している。大丈夫だと言い切るだけの確証はキイラにもカタリアにもないし、それが燃え盛る焚き火の中を走り抜けるような危険な試みであれ、それを試してみるしかないのだ。キイラが返事をしようとすると、ドルムは唸り声に似た低い声でそれを遮った。
「きみを信じる」ドルムはとうとうそう言った。「きみと、きみの友だちを」
「わたし、いつだってうまくやってきたわ」キイラは安心させるように言った。「地下迷宮でわたしとカドが青筋立てたレイガンをやっつけたのを忘れたの? どんな怪物に追いかけられたってあのときの彼よりましだわ」
兄弟子の力ない笑い声が聞こえた。そういえばそうだったな……
「そう、カドだっているのよ。大丈夫。今回もきっとうまくいく」
そう宣言しながら、キイラは自分が自分自身の声に勇気づけられつつあることに気がついた。自分の言葉が白銀のきらめきを纏い、襟のあたりをくるくると踊った。顔を上げると、カタリアの瞳の中にも同じ輝きが映り込んでいるのが分かった。きっとうまくいく……本当にそうなるだろうという感じがした。
「それは心強いが、一番いいのはカドに頼らずに済むことだ」ドルムが言った。「いいかい、きみは死体だ。石ころで、木の葉だ。誰の目にも留まらない、地味で目立たない、取るに足らない存在……」
わたしは死体。わたしは石ころ、わたしは木の葉、どうぞお構いなく……。
不安定に揺れる狭い暗闇の中、キイラは小さな声でそう唱え続けた。キイラの魔術は、茶葉が湯を色づけるようにしてごく控えめに広がり、かすかな、棺の表面に薄く貼り付く程度の被膜となった。
「すごいや、きみがここにいるってこと、あたしも忘れちゃいそう」
カタリアが緊張を押し隠すように、棺越しに囁いた。
「いっそ忘れてて」とキイラが囁き返すと、カドが同じく小さな声でぶつぶつ言った。「すっかり忘れられて、棺ごとあっさり埋葬されたのでは困るぞ……」
カドは話し合いから爪弾きにされたことにまだ腹を立てているようだった。〈音結び〉を使ってドルムが話している間、カドが口を挟めないのは仕方のないことだ。
「いつまですねてるのよ。仲間はずれにされたと思ってるわけ?」
「なにを言うのだ。すねてなどいない」
水音に混じり、どこか遠くから、賑やかな楽の音と笑い声がかすかに響いてくる。キイラは棺の角に光の忍び込む細い隙間を見つけ、もぞもぞと身じろぎをし、そこに指輪を押し当てた。カドの目を通して、キイラの瞼の裏側に、ぼんやりと辺りの様子が浮かび上がってくる。小柄なカタリアが器用にオールを漕いで進むのは、黒々とした水に満たされた狭い水路だ。水路の両脇には人一人がなんとか歩ける程度の細い歩道があり、壁にはびっしりと灰色の石が敷き詰められ、その隙間を土がみっちりと埋めている。点々と取り付けられたカンテラが行く手をぼうと照らしていた。今宵の宴はよほど盛大なものであるらしい。この陰気な通路にまでその騒ぎが響いてくるくらいなのだから。
「カタリア」キイラは不安を紛らわすように、小さな声で呼びかけた。「ねえ……やっぱり気持ちは変わらないの」
「そりゃあ、心の奥底ではキイラと一緒に行きたい気持ちもあるよ。でも、おばあちゃんのこと、置いていけないし」カタリアは嘘みたいに楽天的な声音を作って言った。「それに、なんだかんだあたし、ここの砦のこと好きなんだよ」
「疎外されても?」
この言葉が残酷な響きを持っていることにはキイラ自身も気づいたが、それでも問わずにはいられなかった。カタリアはキイラの言葉を聞いて、暫し沈黙した。
「ここがあたしの生まれ育った場所だから」カタリアは言った。「あたしのことを邪険にする人たちだって、本当は悪い人じゃないんだ。みんな、怖いだけなんだよ」
キイラは黙って続きを促した。
「自分と違うものが怖いの。理解できないものが怖い。あたしだってそう」
「あなたも?」キイラは意外に思って尋ねた。物怖じせずにイベル人の魔術師と友達になろうとした、この勇気ある少女に怖いものがあるとは思えなかった。
「あたしは、怖いから分かりたい。イベルのことも、誰のことも……。それが、おそれを取り払うためのたったひとつの方法だってあたしは知ってる。ただ、大人たちは多分、分かろうとすることさえ怖いんだと思う。あまりに長い間おそれすぎて、どうしたら怖くなくなるのか忘れちゃったのかもしれない」
カタリアの言葉をすっかり飲み干して、それが澄んだ地下水のように体の深い部分に染み透ったあと、キイラは棺の中で頷いた。外でオールを漕いでいるカタリアに見えるはずもなかったが、二度頷いた。そうすることで、カタリアのあり方に敬意を払いたかった。きっとカタリアは未来のフタルにとって重要な人間になるだろうと、キイラは思った。新しい世界。光に満ちた世界。
「でも、キイラと一緒に砦の外に出るのは楽しいだろうなあ。きっと、いろんな人に出会えるもんね。前に言ってた、キリカの血を引くっていうキイラの友だちにも会ってみたいし……」
「多分、彼女はあなたのこと気に入ると思うわ。ねえ、カド」
カドがうめき声を上げた。
「なにはともあれ、そろそろ酔いそうだ。もう少しなんとかならないか。この揺れはひどい」
「あんたも酔うの? いつもわたしの首に下がって揺れてるじゃない……」
「あれとは別だ。そもそも……」
そのとき突然、シッとカタリアが警告音を上げ、キイラとカドはひたりと押し黙った。見張り番の影が近づいていた。カタリアは頭を低くし、手慣れたふうにオールを操って見張りのそばに小舟を停めた。見張り番は壁にもたれかかり、革の水筒から葡萄酒を飲んでいた。
「カタリアじゃないか」男が気だるげに言った。男が近づいてはじめて、キイラはかさかさに乾いた男の肌がユタのような銅色をしていることに気がついた。「こんな夜に〈送り〉かね。ご苦労なことだ……」
「ジファ、あんただってこんな夜にこんなところで見張り番じゃない」カタリアは落ち着き払って言った。ジファと呼ばれた見張り番がうなり声を上げた。
「やれやれ、誰が死んだんだ? おれとしちゃあ、あの忌々しいダルツの野郎であってほしいんだがね」
「あいにくぴんぴんしてるよ。今頃壁の向こうで酒樽をひとつ空っぽにしてる」
カタリアはそう言いながら、小舟を進めようとした。
「それで、誰が死んだんだ?」
見張り番の声には疑念の響きはなかったが、カタリアが緊張の気配を纏ったのがキイラにも分かった。
「ガスタフだよ。ここのところ皮膚の病で伏せってた……」
「鍛冶屋のせがれの?」ジファの声が弾んだ。「そりゃあいいや。あいつは餓鬼んころから我慢のならないやつだったからな。純フタル人以外は畜生かなにかだと思ってやがる。おれの鼻はあいつのせいでひん曲がったんだ」
カタリアが愛想笑いをした。ところが、次の瞬間彼女は凍りついた。
「埋まっちまう前に、顔を拝んどきたいもんだ」とジファが言ったからだ。キイラたちも恐ろしさに硬直した。カタリアが殊更に朗らかに笑ってみせた。
「見ないほうがいいよ。ひどいから。気の毒に、顔中に気持ち悪いいぼができてて、いやな臭いがするんだよ……」
カタリアはまた舟を進めようとオールを握ったが、ジファはそれを許さなかった。「そう焦るなよ」とジファは言った。「カタリア、おめえ、なんだか急いでるみたいに見えるな」
「早くこれを墓守に送り届けて、宴のおこぼれに預かりたいだけだよ」カタリアの演技力は大したものだったが、キイラはこの状況に漠然とした違和感を覚えはじめていた。ジファの声にどこか異様な熱っぽさが感じられたからだった。
「いいや、待てよ、カタリア」ジファが舟のへりに手をかけ、阻んだ。「棺の中身が見たい。なんだか分かんねえが、そうしなきゃいけないって気がするんだ。おれ、変だよな」
その口ぶりには困惑の色さえあった。
「あんた、おかしいよ。酒の飲み過ぎじゃない?」
「なあ、よく見りゃこの棺はどうして釘止めされてないんだ。おい、開けるぜ、いいだろ……」
カタリアが止める間もなく、ジファの指が棺の蓋にかかり、ぱっと持ち上げた。その瞬間、キイラは小声で呪文を呟いていた。わたしは死体。わたしは小石、わたしは木の葉……
ジファはキイラの横たわる棺の中をじろじろと眺め回すと、ウーッと声を上げて蓋を元通りにした。キイラの視界は再び暗闇に包まれた。
「こっちまで伝染してきそうだぜ」
「だからやめときなよって言ったのに」カタリアの声は震えていた。
「もういい、通れ通れ」ジファは面倒臭そうに言った。キイラは用心しながら、くらがりの中で人差し指を持ち上げ、左を指し示した。
「なんだっておれはこんな夜にこんなところで見張りなんかやんなきゃなんねえんだ。おれにゃあ再会を喜び合う家族なんかいねえが、今日一晩くらいさぼったって、アルバはお怒りにならんだろうね?」
カタリアは何度か頷いてみせ、操られたように左の通路に消えていく男の姿を見送った。そして、足音が聞こえなくなったころ、細い溜息を吐いた。
「魔術を使ったの?」とカタリアが安堵もあらわに囁いた。「急いで」とキイラは質問に答えずに言った。いやな焦燥感がつま先のほうから這い上がってきていた。カタリアが再び漕ぎ出した。キイラは自ら棺の蓋を押しのけ、上体を起こした。そして、ぶつぶつと呪文を呟きはじめた。カドがちかりと瞬く。
「なにやってんの」カタリアが驚いて声を上げた。「隠れてなきゃ」
その瞬間、水路脇の通路から兵士がふたり飛び出した。
「止まれ!」
キイラが手を翳して口早に呪文を唱えると、ふたりの足下の土塊が突然に盛り上がり、彼らを勢いよく転倒させた。カタリアが思わず呟く。
「すごい」
「だめ」
キイラは絶望的な確信に打たれた。兵士はふたりだけではなかった。笛の音が鳴り響き、フタル兵たちが通路に押し寄せる。キイラは目をぎゅっと瞑り、いちめんに〈くらやみの罠〉を放った。一瞬ののちに辺りが完全な漆黒に塗りつぶされ、あちこちで悲鳴と怒号が上がる。
「キイラ、なにも見えない!」
「漕ぎ続けて!」
キイラは怒鳴った。水の流れを操る呪文を口ずさみ、舟を加速させる。キイラはやみくもに甲高い音の魔術を放ち、兵士たちを怯ませた。背後で何人かが派手な水しぶきを上げ、水路に転落した。キイラには彼らのうちの何人かを、あるいは多くを、花でも摘み取るように容易く殺すこともできた。少し前までのキイラであったなら、迷わずそうしただろう。でも今はそうしたくなかった。とりわけ、カタリアの前では。一直線にくらやみを滑るキイラの魔術の糸の端を、なにものかが掴んだ。キイラは歯を食いしばって糸を断ち切ろうとしたが、その手は既に糸を手繰り寄せ、小舟へと迫っていた。カドがいち早く気づき、悲鳴を上げた。
「やつが来るぞ!」
キイラにも分かった。二つの黄金の瞳がキイラの生み出した完全なくらやみの中でぎらぎらと輝いた。
〈王〉が来る!
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