第31話

 中庭は薪の匂いと馬が持ち込む土の匂い、いっぱいの麦袋の匂い、そういった雑多な匂いに満ちていた。大きな洗濯籠を持った女たちや記録用の塗板を持った少年らが忙しなく往来し、時折キイラへたちと目を向ける。

「どうしたの?」

 心ここにあらずとばかりにぼんやりと視線を投げ出しているキイラに、カタリアが声を掛けた。

「なんだか変な夢を見た感じ」

「どんな?」

「それが、よく思い出せないの」

 キイラは頭を振り、もういい、というふうに左手も振った。

「どうせろくな夢じゃあないわ」

 ふうん、とカタリアが頷く。

「そんなことより、わたしがついていくことに意味ってある?」

「あるよ。だっておばあちゃんは多分きみのこと気に入ると思うから」

 カタリアが能天気にそう言うので、キイラは歩きながら天を仰いだ。

「あなたっておめでたい人」

「そうかなあ」

 カタリアが照れたように頰をかいた。別に褒めたわけではない、とキイラは訂正しかけたが、彼女の横顔を眺めているうちにその気も失せてしまった。

 キイラは昨日の瓶を両手に抱え、半歩先を行くカタリアの後を追いかける。

「あなたはあなたたちの神を信じているでしょう? あなたのおばあちゃんも」

「もちろん」

 カタリアはぱっと振り向き、声を潜めた。

「でも、あたしたちの神は歪められている。あるべき姿から損なわれている。きみたちの神同様に……」

 南西塔の貯水槽のほうから出てきた書記ふうの男にぶつかりそうになり、カタリアは慌てて前を向いた。小さく付け加える。

「おばあちゃんはそう言ってる」

「ねえ」

 キイラは勇気を出して尋ねた。

「あなたたちの神のことを教えて」

「わかった。だけど、多分そのことについてはあたしのおばあちゃんのほうがうまく説明できると思う。おばあちゃんはなんでも知ってるんだ」

 キイラは頷いた。そのあとでふたりは、昼食を調達しに厨房に寄ることにした。布扉をくぐった瞬間に、油の爆ぜる音、熱された金属のにおい、パンや肉の焼けるにおい、スープの湿り気、そういったものすべてを孕んだ熱気がふたりの少女を包んだ。

「ラメンダ」

 カタリアが声を掛けると、がっしりした身体つきの大柄な女がのしのしと歩み寄ってきた。

「カタリアじゃないか。ばあさんの具合は?」

「まだよくないよ」

 ラメンダと呼ばれた女は、腰に両手を当てると、横で皿を拭いていた気弱そうな青年に向けて顎をしゃくってみせた。彼は頷くと、すぐさま奥へと消えていく。

「あんたも友だちとか作ったほうがいいよ。心配だからさ」

「友だちならいるよ」

「カタリア、まともなフタル人の友だちを作れってことだよ。やれ救世主だの、聖女だのなんだの言ったって、ただのイベル人の娘っ子じゃないか。それもろくろく食べてないような体つきのさ」

 ラメンダの鋭い目にじろりと睨みつけられ、キイラは思わず後ずさった。カタリアは意に介さず微笑んでみせた。

「でも、キイラはラメンダの作ったシチュー、好きだって言ってたよ」

「ほんとかい」

 ラメンダはころりと表情を変え、誇らしげに胸を張った。

「そうかい。いや、当然だね。信じる神は違ったって、あんた、舌のつくりはおんなじだろうからね」

「カタリア……」

 キイラが戸惑って眉を寄せると、カタリアが軽やかに紹介した。

「厨房長のラメンダ。怒りっぽいけどいい人だよ」

「一言余計だよ」

 ラメンダはぴしりと言い、キイラとカタリアに山ほどの食べものを持たせた。キャベツの酢漬け、ぱりっと焼いたトント麦のパン、柔らかなモルフ肉の煮込み、塩味のきいた甘くないケーキ、セージ入りの腸詰め、山羊のチーズ、などなど。

「多すぎじゃない?」

 キイラが呟くと、カタリアが肩を竦めた。二人は厨房長に丁寧に礼を述べると、居住区へと向かった。



 カタリアが声を掛けると、やさしく嗄れた声が応えた。

「お入り」

 老婆は敷き布の上に横たわり、半分身を起こした状態でふたりを迎え入れた。彼女の名前はヨンと言った。キイラは緊張しながら部屋へと足を踏み入れたが、ヨンの瞳を見た瞬間にそれが無駄であることに気づいた。ひどく澄んだ、モルフのような瞳だった。ヨンが手を伸ばしたので、キイラは膝をつき、彼女の手を取って神殿式の挨拶をした。痩せた手はシナモンの匂いがして暖かく、柔らかに弛む皮膚の下で骨が滑る感触があった。

「おばあちゃん」

 カタリアが呼びかけた。

「この子が……」

「キイラだね」

 手を離さないまま、ヨンは言った。彼女の萎びた肌の上の印がキイラの目に入ったが、不愉快にはならなかった。キイラは二つの瓶を床に置き、もう一度その中身の使い方を説明した。淀んだ空気を清め、胸の痛みを和らげるはずのまじないだった。ヨンは丁寧に礼を言い、傍に座るようキイラにすすめた。そして、キイラの目を覗き込んだ。

「おお」

 老婆が溜息を吐いた。

「賢い子だ。そして愚か」

 ヨンは手を伸ばし、キイラの顔に触った。それが、隅々の凹凸を調べるようなあまりに配慮のない手つきであったので、キイラは戸惑った。

「単純で込み入っている。相反したものをひとつの部屋に囲い入れている。部屋というよりも森。誰もが出入りでき、誰も出入りできない。ただしそれもまた本質ではない……」

 ヨンの指が止める間も無く鎖を引きずり出し、指環へと伸びた。老婆の手に触れられ、カドが狼狽えたように声を漏らした。

「無遠慮な!」

「わっ」

 カタリアがぎょっとしたように仰け反った。

「喋った!」

 新鮮な反応に、キイラのほうがなんだか驚いてしまった。そういえば、カドはここのところまともに口を聞いていない。

「これもまた同じ」

 驚いた様子も見せずに目を閉じたヨンに、キイラは混乱しながら問いかけた。

「あなたは何者なの。何者なんです」

「自分が何者なのか知っているのは、一握りの本当に賢い者だけさ」

 込み上げてきた質問をみんな喉に詰まらせたような顔をしたカタリアを、ヨンは手のひらで静止した。

「それでは、おれは何者なのだ」

 カドが尋ねた。カドの嗄れた声に、キイラは切実な響きを感じ取った。ヨンは沈黙した。

「あの男は」キイラは小声で言った。「わたしとカドはフタルを救うための剣だと」

 刹那、ヨンの目がぎらりと光った。それはあまりに短い一瞬間のできごとだった。キイラは見えざる手を伸ばし、この老人が瞳の奥に見せた光の手触りを確かめようとした。ところが、いざ触れてみればそこはまったく空虚で、そこに確かになにか鋭いものがあったのだという名残さえ感じ取ることはできないのだった。

「その石は確かにイベルを滅ぼすだろう。しかしそのあとでフタルをも滅ぼすものだ」

 枯れ枝のような指がカドに向けられた。

「これは翳、邪悪なるもの」

 キイラは自分の喉がゆっくりと上下するのがわかった。

「叡智の光ある限りけっして亡ぶことはない。昏い翳……」

「そうだ」

 カドは肯定した。

「おれは翳」

 キイラは首を振った。

「カドは……」

「だがそれだけではない」

 ヨンは顔を近づけ、切れ込みのような目を更に細めた。

「なにか混じっているね」

 老婆は〈金の瞳の男〉と同じことを言ったが、それは王のそれよりもずっとあたたかな響きだった。

 ヨンは口の中で呟いた。

「そうだ。邪悪なるものと善きものが分かちがたく溶け合っている。これはなんだろう。われわれの愛するもの。光に連なるもの……」

 その言葉はキイラの心にしっくりとはまり込んだ。光に連なるもの。光り輝くものカド

 キイラは呆然と尋ねた。

「フタルの神のことを教えてください」

「われらの神はアルバ」

 ヨンは老いを感じさせない朗々とした声音で言った。

「アリベラ。アルベリア。アルバウリア。呼び名は様々」

 骨と皮ばかりの指が八弦琴を引き寄せ、その一番太い弦を爪弾いた。乾いた低い音が大気を震わせる。ヨンは小柄な体を丸め、琴を抱え込むようにすると、やおらそれを弾き始めた。


 天と地とのあわいにひとり

 まれなる若者ありにけり

 その名はアルバ・フタルディア

 強く賢く勇ましく

 身の丈二十八タルク


 アルバ・フタルディア選ばれて

 ふたつの証をまうけけり

 ひとつは楔 ひとつはつるぎ

 生まれし村に別れを告げて

 月なき夜に旅立ちぬ


 王となりにしフタルディア

 民を率いて八イール

 翳から生まれしものどもを

 光の劔で祓いけり


「待って」

 キイラは思わず遮った。八弦琴の調べが端から解れ、ぶつぶつと断ち切れた。カタリアはキイラのほうを見たが、ヨンは顔を上げなかった。

「わたし、その話を知ってるわ。その若者は光の劔を以て、天と地とを統一するのよ。そして、得たすべての領土と民とのためにその命を投げ出す。流れた血は海となり、骨は世界を貫く灰の山脈となった。ただし、その若者の名はルース。ルース・リベルディア。授けられた印は──」

「カロメ虫。交差する楔ではなく」

 キイラは頷いた。

「カロメ虫は祝福されたルースの友。夜に蝋燭の炎のようにほの光る。くらやみの中に生まれ出でて、聖なる光をもたらす神の使い」

「交差する楔はアルバの与えたもの。ひとつは雲の切れ間から差し込み、大地を貫く光の帯。ひとつはけっして折れることのない信仰の劔」

 ヨンがまた弦の一本を弾いた。

「それに、なんの違いがあるというのだね。キイラ」




「喋るなんて聞いてないよ」

「言っていないからな」

 カドが何食わぬ顔で言った。とは言っても無論のことカドに顔はなく、今キイラたちがそうしているように、ものを食べることもできない。モルフの腸詰めを頬張ったカタリアが、無邪気に指環をつついた。

「どういう仕組みなの?」

「脂のついた手で触るな!」

 カドがぴしゃりと言い、すぐに口を閉ざした。そうして、伺うような小声で、「キイラ?」と呼びかけた。カタリアもキイラを不安げに見た。キイラは黙ってパンを咀嚼していた。キイラがなにも知らない十三の子どもだった頃にマーサが焼いてくれた、あのパンによく似ていた。目を上げると、カタリアが心配そうにキイラを見つめていた。澄んだ黒真珠の瞳で。

 キイラは納得した。

 なんら唐突な気づきではなかった。キイラは、今しがたパンを切ったナイフを取り上げると、その刃を素手で握りしめた。忽ちあたたかな血が滴り落ち、地面を濡らした。カタリアが驚きの声を上げ、腰を浮かせる。キイラは彼女を制止し、刃を握ったまま静かな声で宣言した。

「終わりにするわ」

 そう口にした瞬間、すべてから解放されたように思えた。なにもかもから。驚くほどに心は安らいで、凪いでいた。もっと早くここに辿り着くべきだったという気もしたし、今でなければならなかったという気もした。

「この痛みですべて。この痛みがすべて」

 カドが尋ねた。

「それがきみの決断なのか?」

「そう。終わりにする」

「始めるために?」

「そう」

「どうして?」

 キイラは微笑んだ。カタリアが労わるようにキイラの手の甲に触れた。血がカタリアの白い手を汚した。

「愛しているから。愛していた。マーサを。シグを。わたしを取り巻く人々、わたしを取り巻く光に満ちた世界を。イベルを、フタルを。人を」

「そう、ずっとそうだった」

「帰るわ、カタリア。わたしは、イベル人たちのもとに帰らなくては」

「そうだね」

 カタリアが、キイラとそっくりに微笑んだ。

「そう言うと思ってた」

「おれだって」とカドが慌てたように口を挟んだ。「そう言うと思っていた」

「カドは。あんたの気持ちはどうかしら」

 カドが笑い声を立てた。

「おれは人ではない。おれは翳」

「そして光」

 キイラが続け、「そうだ」とカドが認めた。

「そしてきみの友人であり、きみそのものでもある。おれはきみを肯定してきた。いつも。どんなときも」

「そうね」

「だが、これは間違いなくおれ自身の意志だ。今おれが口にするのは。キイラ、きみとともにあることはおれの祈りだ」

 喜びと感謝がこみ上げ、キイラは指環へと口づけた。指環が素っ頓狂な声を上げた。

「なにをする」

「親愛の表現だけど」

「汚れる」

「どういう意味?」

「どういう意味もなにも…………」

 声を上げかけたカドが突然声を詰まらせ、そのまま黙り込んだ。

「どうしたの」とカタリアが尋ねた。返事の代わりに、石がちかちかと二回瞬いた。微かにオリーブ色がかった、やわらかい光。

「感激で言葉も出ないってわけ?」

 キイラは軽口を叩いたが、それでもカドが返事をしないので、不安になって呼びかけた。

「カド?」

「キイラ?」

 唐突に、嗄れ声ではない、若い男の声が響いた。声は何度かキイラの名を呼んだ。キイラたちは思わず辺りを見回したが、声は確かに指環から聞こえてくる。カタリアが困惑しながらキイラを見た。

「なんなの?」

 同じくらいに困惑しながら、キイラが答えた。

「分からないわ……」

「キイラなのか?」

 声が隠しようもなく弾んだ。

「ああ、キイラ……キイラなんだろう?」

 キイラは声の主に思い当たった。いいや、本当は耳にした瞬間に気づいていた。そうであってほしいと思いつつ、聞き違いであることを恐れていた。思い出さないようにしていた、ずっと聞きたかった声だった。

「キイラ? 返事をしてくれ」

 キイラは答えた。

「久しぶり、ドルム」

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