第30話

 気がつけば、キイラは午後の光の中に立ち尽くしていた。西の彼方から伸びる橙の陽射しが、キイラの体をまっすぐに透過し、床の上にくっきりとした窓枠の影を浮かび上がらせていた。

「エンジュナ」

 穏やかな声が男の名を呼び、彼は振り返った。燃え上がるような鮮やかな赤が疲れ気味の目の奥を焼き、男の胸中には愛しさがこみ上げた。その感情を、キイラはまるで自分の中から湧き上がったものであるかのように生々しく感じ取った。

「仕事はもうやめにして、わたしの淹れたお茶を飲む気にはならない?」

「ミラ、あとでもらうよ」

 魔術師──エンジュナは読みかけの分厚い写本を一旦そのままにし、椅子から伸び上がって愛する妻へと口づけた。

「もう」

 ミラがわざとらしく腰に両手を当ててみせた。

「働きすぎじゃないかしら」

「いくら働いても働きすぎということはない」

 エンジュナはそのとき、彼女の見事な赤毛が湿り気を帯びていることに気づいた。この肌寒い季節に水浴びをしたはずはない。エンジュナは咄嗟に窓の外に目を遣り、今日の天候が快晴であることを確かめた。

「ごめんなさい、林檎は分けてもらえなかったわ」

 エンジュナの表情に気づいたミラが、なんでもないことのように肩を竦めた。

「気付かれたのか?」

「偶然よ」

「きみのその赤毛はフタル人らしくない」

「印を見られたの。気をつけていたんだけど……ごめんなさい」

 エンジュナは立ち上がり、きっぱりと言った。

「引っ越す準備をしよう」

「エンジュナ、わたし平気よ」

「『わたしが』平気じゃないんだ」

 若き魔術師はミラを抱き寄せ、その湿った赤毛に頰を寄せた。ミラが悲しげに溜息を吐き、エンジュナの胸に手を当てた。

「灰の山脈の麓に、フタル人に友好的なユナ・イベルタの町があると聞いた」

「折角軌道に乗り始めたところだったのに」

「ミラ、研究はどこでだってできる」

 ミラはぼそぼそと言った。

「わたしのせいで不自由をかけているわね」

 エンジュナは妻から体を離し、殊更に陽気に言った。

「不自由? きみがいればいつだって心は自由さ。若いひばりのように囀り、大空へと飛び立つ……」

 芝居掛かった仕草で両手を広げてみせる。手のひらから銀色をした小さなつむじ風が生み出され、笑いさざめきながら飛び去っていく。

「大袈裟な人。ねえ」

 ミラは思わず噴き出し、自分の人差し指に嵌った指環に話しかけた。エンジュナは片眉を上げてみせた。

「指環は返事なんかしない。例え、それがいわくつきの代物だったとしても」

「そうかしら。道具は、大切にしていると心を持つと言うわよ」

「それはいいがミラ、わたしのことも大切にしてくれ」

「あら、してるじゃない」

「そうだった」

 また笑い声が弾ける。笑い声のあとには、微かな空白が生まれた。空白へと落とし込むように、エンジュナがぽつりと言った。

「いつか、変わるだろう」

「そうかしら」

「新しい時代がくる。光に満ちた時代だ。きみがきみの信仰を隠す必要のない……フタルもユナ・イベルタもなく、すべてが溶け合い、調和した美しい時代」

 エンジュナは妻の腹にやさしく手を当てた。そこに宿る命の輝きを、そっと手のひらで包み込もうとするように。

「わたしがその手助けをできたら。これから生まれるわたしたちの子のために」

「この子は幸福だわ。ふたつの神に祝福されるのだから」

「きっと」

 ふたりの手が固く握り合わせられるのを、キイラは見た。キイラはこの世界に居ながらにして、完全なる傍観者であった。キイラの目はただひとつ、ミラの嵌める指環に注がれていた。その美しい、上等の琥珀や純閃亜鉛鉱クライオフェン、あるいはトパズを思わせる石の輝きに。


 キイラはその光の中に吸い込まれるような気分を味わった。キイラはその光をどこかで知っていた。視界のすべてが黄金の光によって充たされ、そして、突然にくらやみに包まれた。まるで誰かが百本もの蝋燭をいっぺんに吹き消したかのようだった。あるいは、それは誰かの瞳孔の奥を覗き込んだような暗黒だった。


 ミラの澄んだ黒い瞳の中に、闇の淵よりなお昏い黒瑪瑙の色が映り込んでいた。


 ざんざんと降りしきる大雨の夜明けだった。

 泥濘がキイラの履物を汚し、激しく叩きつける雨は足首にまで泥跳ねをつけた。それらはなにもかも幻覚であったが、すべては本物の出来事のように感じられた。

 ミラは掲げた片手を下ろすことも忘れたように、ただ泥の上に横たわったまま、自らの指を見つめていた。正しくは、指に嵌った指環を。その、漆黒に変じた石を。ミラの顔の半分は新しい血と泥とに塗れていた。片腕を伸ばしたその仕草は、まるで死に物狂いで夜を摑もうとしているかのようだった。

 ユナ・イベルタの男がふたり、ミラの体の上に覆い被さっていたが、それは既に死んでいた。石がそうさせた。

 眩いほどの漆黒の光は、夜通し彼女を探していたエンジュナの目にも届いた。エンジュナは無残な姿になったミラの姿を見つけると、彼女を助け起こした。大柄なほうの男の死体が土の上に仰向けに転がった。焦点を結ぶことをやめた虚ろな目が、見開かれたままおそろしく乱れた鈍色の空を見つめ、つめたい雨の雫が彼の瞳孔を打った。

 ミラはよろめきながら、呆然と立ち上がった。

 破かれた服が青白い肌に貼りつきながら垂れ下がり、しきりに汚れた雨水を滴らせた。

 キイラは、濁った水と血とが彼女の大腿を伝い落ちているのを見た。彼女の美しい赤毛よりもなお赤い血が。エンジュナもそれを見た。エンジュナはひどく具合の悪い夢を見ているような、ぼんやりとした表情でミラを眺めた。

「エンジュナ」

 ミラは血の気を失った手で、自分の腹を撫でた。彼女の白い喉がひくりと動き、遅れて唇がわなないた。

「死んでしまった」

 死んでしまった、死んでしまった、死んでしまった。

 その言葉はキイラの耳の奥で何度も繰り返された。そう思われただけだった。すべては魔術師の男の感じたことだった。

 エンジュナは妻へと歩み寄ろうとして、男の死体のひとつに躓いた。彼は、死体が今そこにあることに気づいたかのように首を傾げた。彼は死体を踏み越え、ミラに触れようとした。しかし、彼女からは既に彼の愛した清らかな光は飛び去っていた。無残に引きちぎられた羽の名残だけが、そこに踏みにじられ、汚されて散らばっていた。

 エンジュナの魔術師としての素質が、彼を操り、彼女の手を取らせた。漆黒に耀く指環を見、無残に転がったイベル人の死体を見て、彼は唐突に気づいた。厚い雲が晴れ、眩い光が一瞬にして頭の中を照らし出したかのようだった。ただし、それは清らかな月明かりではなく、おぞましい漆黒の光だった。

 彼は雨と血とに濡れた土の上に跪いた。

「神よ」

 彼女の手の甲に口づけながらエンジュナは呟いた。

「彼女を遣わされたことを感謝します」

 ミラは彼の心の変容を知った。喪失に色褪せていた彼女の瞳が、真新しい絶望に塗り潰された。

「きみの神はお与えになった」

「エンジュナ」

「きみを選んだ」

「エンジュナ」

「新しい時代がくる。光に満ちた時代だ。そこにユナ・イベルタが存在してはならない」

 エンジュナは労わるようにミラの頰をやさしく拭い、彼女を抱きしめた。ミラは愛する男に縋り付かずにはいられなかった。

「ああ……」

「わたしの聖女ミラ

 男は雨に紛れそうな声で呟いた。

「きみは光を齎す一振りのつるぎとなり、わたしはきみのただひとつの鞘となるだろう」

 その声には微かな陶酔さえあった。ただ傍観していたキイラは、そこで初めて彼に近寄ろうとして、次第に泥濘の中に足が沈んでいくことに気づいた。彼女が声を上げる暇もなく、冷え冷えとした泥の中にくるぶしが埋まり、膝が沈み込み、腰、肩、そして全身が飲み込まれた。

 纏わりつくような、冷たい泥のような夢の中に。


 キイラが朝の光の中で目を覚ましたとき、彼女は夢のほとんどを忘れてしまっていた。しかし、それらは失われたわけではなかった。彼女の記憶の片隅に、一点の仄暗い澱みとなって蹲り、沈黙していた。

 カドだけが夢のすべてを覚えていた。そして、いつまでもそのことについて考えていた。

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