第29話

「レイガンはイベル人でありながら、フタル人との相互理解を信じていた?」

 部屋の机に上体を預け、クルミ材の天板に頰をぴったりとつけながら、キイラは呟いた。指環が目と鼻の先でぼんやりと瞬いた。

「そうかもしれない」

 カドは静かに言った。

「あの夜、レイガンはフタル人の兵士たちを地下へ引き入れて、なにをしようとしていたのだろう」

 溜息に紛れそうな声で、キイラはぼそぼそと言った。

「彼は抵抗者らと結託して、わたしたちみんなを殺そうと……」

 カドがすぐさま否定した。

「それはない、とおれは思う。いったいあれきりの人数でなにができたと思うのだ」

「それでは、なぜ?」

「準備だろう」

「なんのための……」

「最高神祇官を暗殺するための」

 キイラは目をきつく閉じ、拳を握った。

「この国を変えるためには、それがもっとも手っ取り早い方法だ。血を以て権力を簒奪する」

「だけど、そんなことになったら真っ先に〈二軍〉は解体されるわ」

 薄暗がりのなかに白く浮かび上がる自分の拳を見つめ、キイラは言った。

「レイガンは先の内乱で散々戦果を上げた上級魔術師よ。真っ先に責任を取らされて……」

 呟きながらキイラは気づいた。どのみち、レイガンは死ぬつもりだったのだ。神官らの手によって処刑されなくとも、フタル人たちに断罪されて。

「おそらくは、イベル人たちの中にもレイガンのように考えるものはけっして少なくない。教会が神の名の下に権威を振りかざすこの国を憂えるものは。だが、それを本当に実行に移せるものはいない」

 あの魔術師はわたしたちの前でなにを思っていただろう。魔術兵を率い、フタル人たちを嬲り、自らの手を血に染めながら。レイガンはあのとき、眉ひとつ動かさなかった……。

「レイガンは伝承を知ったのだ。王の思惑も。このことは、彼にとってまったく予想外のことだったのだろう」

「わたしたちをイベル人からもフタル人からも隠そうとした……」

「そうだ。きみに戦うための力を与え、自ら考える力がそなわるのを待っていた」

 レイガンは、いずれはフタル人とイベル人とを結びつけるための楔としてキイラとカドとを利用するつもりだったのかもしれない。それはもう分からないことだった。それを尋ねるべき男は今、あの地下通路よりなお深い牢獄に繋がれて、暗闇を見つめているだろうから。

 それとも……もう殺されてしまったかもしれない。

 その想像は、思った以上にキイラを動揺させた。あの夜、あの一瞬、誰よりも憎いと思った相手。この手で喉笛を切り裂いて、殺してやりたいと思った。そのはずなのに、今はあの冷ややかな眼差しの奥の、熾火のような仄かなちらつきばかりが思い出された。キイラは混乱し、胸を焼くような焦燥感に怯えた。

 わたしはいったいどうしたいのだろう。

「分からない」

 キイラの心を読みとり、カドが呟いた。

「カドはどうしたい」

「おれは……」

 淡々としていたカドの声が揺らいだ。カドはもう一度「分からない」と呟いた。彼は躊躇いながら続けた。

「ただ、あの王……〈金の瞳の男〉の話が本当なのだとしたら……おれはこの世界から葬られるべき存在なのではないか」

 おれが殺すためにこの世にあるのだとしたら。

「『おれたち』」

 キイラは言い直した。

「そのときはわたしも一緒だわ。あなたとわたしはひとつ」

 指環は黙りこくった。晩秋の気配の蟠る冷え切った部屋の中で、カドの光だけは温かかった。その仄かな灯りを見つめながら、キイラは無性にドルムに会いたいと思った。あの、キイラよりも少し熱っぽい、乾いた手のひらに触りたかった。彼はどうなっただろう。怪我をしていた……。

 キイラに分かることは、彼がおそらく生きているであろうということだけだった。レイガンが彼に与えた一撃は致命傷ではなかった。眩い閃光の走ったその一瞬の光景が、目の奥に焼きついていた。その瞬間を頭の中で何度も思い返しながら、キイラは項垂れた。胸中にはかりしれない無力感が打ち寄せ、自分がなにも持たない小さな少女であるような気分になった。ブナの木に貼り付いて、ただ膝を抱えていただけの小さな子どもに戻ってしまったかのような。


 そのとき、扉が控えめにノックされた。キイラが頭を擡げると、開いた扉からカタリアが顔を出した。

「いい?」

 キイラはなんとか心を鎮めて頷くと、手をひらひらと振って彼女を招き入れた。たとえそれが表面上のものであったとしても、こうして気分を切り替える能力は魔術師にとって重要な資質のひとつだった。キイラは注意深く扉を閉めさせると、彼女を机の側に呼んだ。カタリアは、かすかに頰を上気させながら、事前にキイラが要求した品物をひとつずつ袋から取り出し、机の上に並べていった。傷のないつやつやしたトネリコの葉、血石を砕いて朝露に溶いたインク、僅かな琥珀の欠片、瑞々しいオレンジ、などなど……。

「銀粉はある?」

 カタリアは首を振った。

「これでも、集めてくるの、たいへんだったんだよ」


 結局、キイラは多くのフタル人たちにとって衝撃的であろう事実──フタルの〈王〉がイベル人であるだろうこと──を彼女に伏せておくことを選択した。どうしてなのかは、自分でもよく分からなかった。

「ユナ・イベルタと〈浄化の石〉のことはそれほど詳しくないけれど、こういう言い伝えなら知ってるよ」

 キイラの指示通りオレンジの皮を剥きながら、カタリアはそう言った。

「『やがて紅き聖女が訪れる。の者、金色のつるぎを以て、奪い去られし光を取り戻す』」

 キイラはかぶりを振った。

「それを信じているの?」

「そうだね」

 カタリアは溜息を吐き出すような調子で笑った。

「多分……みんな、心の底では疑ってる」

「それじゃあ、どうして?」

 キイラは顔を顰めた。フタル人たちは、ごく事務的な連絡を除いては、キイラに干渉してこない。

「みんな、疲れ切っているんだよ。疲れ切って、磨り減ってしまってる。なにかに縋らなくちゃいられないほどに」

 カタリアの指がオレンジの果肉にめり込み、瑞々しい果汁が爪を汚した。彼女は濡れた指を口へと運んだ。

「イスリオはあたしたちに希望を与えてくれた。この国の支配から、あたしたちを解き放ってくれると約束した……」

「だから、信じる? こんな非力そうな、ごく普通の、それも魔術師の女の子とちっぽけな指輪とがフタル人たちを救うって?」

「キイラ」

 カタリアは今度こそ面白そうに笑った。

「自分じゃ分からないんだね。きみは、はっきり言ってごく普通なんかには見えないよ。うまく言えないけれど……」

 キイラは困惑し、押し黙った。キイラの反応に、カタリアは居心地悪げにした。剥き終えたオレンジを指し示す。

「それで、この身を使うの?」

 キイラは我に返り、首を左右に振った。

「使うのは皮だけ。貸して」

 彼女はオレンジの皮を受け取ると、繊維のついた白い側を上にして窓際に並べた。乾燥を早める魔術を軽くかけておく。オレンジの身をもぐもぐやりながら、カタリアが尋ねた。

「魔術を使って、一瞬で干したりできないの?」

「できるけど、質が落ちるのよ」

 難しいね、と呟くカタリアの手からオレンジを分けてもらい、キイラも少し口に押し込んだ。次に、若き魔術師は血石のインクを手に取った。カタリアが見守る前で、キイラはインクに細筆を浸すと、トネリコの葉の裏に緻密な文様を描き込んでいった。

「本当は、葉の縁に銀粉をまぶしたほうがいいんだけど……」

「その変な模様にはなんの意味があるの?」

「肝要なところなの。あまり話しかけないで」

「はあい」とカタリアは答えたが、すぐに退屈して、「それ、あたしにもできない?」と尋ねた。

「やってみたら?」

 キイラはふふんと笑った。筆を受け取ったカタリアが難しげな顔をして、見よう見真似で描いていく。本人としては見比べながらそっくりに描いているつもりらしいのだが、線の太さはてんでばらばらで、全体がひどく歪だ。

「初めてにしては、なかなかうまく描けたと思わない?」

「『勿論、上出来だ。生まれてはじめて筆を握ったのだとすればの話だが』」

 キイラがふざけたような口ぶりでそう言うと、カタリアが眉を寄せ、問いかけた。

「それ、誰かの真似?」

 キイラはさあ、と肩を竦めた。

 それらの葉を十分に乾かしたあとで、キイラたちは琥珀の欠片をトネリコの葉に包む作業に取り掛かった。若いトネリコの葉は小さく、張りがあって、うまく包むのが難しい。苦労しながら全てを包み終えてしまうと、キイラはそれらを瓶に詰めた。乾いたオレンジの皮は刻んで別の小瓶にぎっしりと詰め、上から酒精を注いだ。

「オレンジの油が浸み出してきたら、皮は捨てていいわ」

 瓶にしっかりと栓をして、キイラは説明した。

「葉の包みのほうはひとつずつ取り出して使って。枕元に置く前に、置く場所をオレンジの油でよく拭っておくのを忘れないこと」

「ありがとう」

 瓶を受け取りながら、カタリアが感激したように呟いた。

「これで、おばあちゃんは元気になる?」

「多分ね」キイラはそう請け合い、すぐに表情を曇らせた。

「でも、魔術師の力を借りるなんて、嫌がるんじゃないかな……」

「そんなことないよ」

 カタリアは呑気に言った。

「おばあちゃん、変わってるから。あたしとおんなじで。他の人たちに黙ってれば大丈夫」

「そうなの?」

「そんなことより、魔術って案外地味なのね。呪われた危険なわざだって言い聞かされてきたけど、ごく普通の薬師がやる仕事みたい。もっと派手な火花が上がったり、物を自由自在に浮かび上がらせたり、そんな感じだと思ってた」

「そういう魔術もあるわよ」

 キイラは笑った。

「見たい?」

 カタリアがおそるおそる頷いたので、キイラは両手で透明ななにかを巻き取るような仕草をした。呟く呪文はきらきら輝く金粉となり、キイラの手を取り巻く。固唾を飲んで見つめるカタリアの目の前で、キイラの手のひらの中に青く煌めく小さな光が現れた。それは徐々に膨らんで無花果いちじくほどの大きさになり、キイラの指に形作られ、青い小鳥の姿となった。小鳥は水晶のように透き通る羽根を広げ、勢いよく羽ばたくと、二人の間から飛び立ち、霞むように消えた。

 カタリアはそのすべてをあんぐり口を開けながら眺めていた。彼女の表情は、まるで凍結されてしまったようにぴしりと固まってしまったまま変わらなかった。そうして長いことなにも言わないので、キイラはだんだん不安になって尋ねた。

「やっぱりいやだった?」

「いや?」

 カタリアが呆然と繰り返した。

「なにが?」

「魔術を見たことが」

 キイラの言葉を聞いて、カタリアがゆっくりと顔を此方に向けた。

「冗談じゃない」

 突然カタリアがキイラの手を握ったので、キイラは怯んだ。

「魔術ってこんな素敵なことができるの? すごい、夢みたい。やっぱりきみって特別な存在なんだ」

「ただの目くらましの一種だわ。ちょっと学んだ魔術師なら誰でもできる」

 キイラは思わず否定してから、

「不愉快じゃないの? フタル人にとっては、魔術は邪悪で、呪われていて、そして……」

「こんな素晴らしいものがよこしまなもののはずないわ」

 頰を火照らせながら、カタリアはあっさり断言した。

「今、そう思った……」

「どうかな。危険なものは、いつでも美しい衣を纏っているものよ」

 キイラは年長者ぶって意地悪く言ってみせたが、内心面食らっていた。無邪気に溜息をつき、小鳥の輝きの名残を惜しんでいる少女の姿を見て、キイラの胸中にはふとある思いが浮かび上がった。それは、泉の中に湧き上がり、七色に煌めきながら上昇する、繊細な気泡のひとつにも似ていた。キイラの体はキイラの意思とは無関係に、その考えを口に出してみようとした。

「もしかしたら……」

 微かな呟きを聴き取り、カタリアが顔を上げた。

「今、なんて?」

 キイラは口を噤んだ。そして、結局は「なんでもないわ」と答えたのだった。

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