第28話
俯き、ぼんやりと足元へと視線を投げ出しながら、キイラは様々なことに思いを巡らせていた。キイラの心は閉塞感に満ちながらまったく虚ろで、例えるなら頭の中に真綿をぎっしりと詰め込まれたような気分だった。事情を知るはずもないカタリアは様子のおかしいキイラを気遣い、色々と話しかけてきたが、キイラはそのすべてを無視した。殊更に彼女を傷つけようとしたわけではない。キイラはただひたすらに混乱していたのだった。
その日もカタリアはキイラを部屋の外へと誘い出そうとし、断ることさえ億劫になったキイラは彼女と連れ立って見張り台の上に立っていた。キイラは無意識に、何もついていない手首を摩った。あれから、再び葉長石の腕輪が嵌められることはなかった。それで十分ということなのだろう。腹も立たなかった。
今は冷たい朽葉色をした秋の風に髪を靡かせながら、カタリアは黙って目を細めていた。どうして彼女がキイラをここに連れてきたのか分からなかったが、それもどうでもよかった。カタリアが突然「飲み物を取ってきていい?」と言った。
「ここでおしゃべりしながら温めた林檎酒を飲むのが夢だったんだ」
「いつでも飲めばいいじゃない」
キイラは投げやりに言った。
「誰かと二人で飲むのが夢だったの」
カタリアが言い直した。彼女が階段を降りていくのを見送りもせず、キイラは欄干に両腕を掛けた。キイラは一人きりになった。キイラは淡い溜息を吐いた。
「でたらめだわ」
キイラは呟いたが、乾ききったその声は静寂と遠い鳥の囀りの中にむなしく放たれ、誰にも一顧だにされないまま溶け消えた。カドも返事をしなかったので、キイラは彼からひどい裏切りを受けたように感じた。
「あんたは信じるってわけなのね」
「なにを」
銅のカップを打ち鳴らしたような、意外なほどの素早さでカドが答えた。久々にこの指環の声を耳にしたように感じられた。
「なにを? なにをですって」
「おれがイベル人を殺すための道具だということか?」
キイラは黙った。
怒りと否認、驚きに翻弄されながら、心の奥底では自分自身が確かに納得していることもキイラは感じていた。あるべきところにあるべきものが収まったかのような。それは狂おしいほどに忌々しく、ナイフで肉と骨の間から剥がしとってしまいたいほどに憎らしくもありながら、不思議な安らぎでもあった。
乖離している、とキイラは思った。
自分の体の中に穢らわしいフタル人の血が流れていると思うと、髪の一本一本、爪の一枚一枚、その全てがおぞましかった。できることなら、自分の体を二つに切り分けてしまいたかった。
「正しい」とカドは言った。あたたかみのない、平坦な調子で。
「彼の話は正しい」
キイラはただ息を詰まらせて、返事をしなかった。冷ややかなカドの声が続いた。
「知っていたから。きみも知っていたはずだ」
今度はキイラが「なにを」と言った。声は虚しく響いた。
「納得している。きみもおれも」
裏切りもの!
刹那、キイラの全身に、あのときの叫びが雷鳴のように轟いた。
キイラは首から引きちぎるようにして鎖を外した。そして、それを手放してしまおうとした。ほとんど放り投げる瞬間、カドが言った。
「悪魔ならよかった」
啜り泣きに似たか細い声だった。キイラは指環を握りしめた手のひらから、激しい悲嘆が流れ込んでくるのが分かった。カドの悲嘆はキイラのちいさな杯を充たし、溢れてなお、限りなく注がれつづけた。キイラを押しつぶしてしまおうとするようだった。キイラはとても耐えられないと感じたが、それでも手を開くことができなかった。キイラは誰かを、あるいは自分を殺してしまいたいような思いに駆られた。唐突に、足場が崩れ落ちるような恐怖感に体が竦み上がる。キイラは嘔気を覚え、身体を折り曲げた。あの夜からずっと鳩尾のあたりで燃えていた彗星を、懐かしい鳶色の光を、灼けつくような黄金を吐き出さんばかりに。これまでキイラに寄り添い、キイラを慰め、キイラを支えてきた憎悪が震え、歪み、粉々に砕け散った。
キイラは果てしない空虚の中にまったくひとりきりだった。
キイラはカドを握りしめたまま欄干に縋り付き、その場を離れようとした。そうせずにはいられなかった。
そのとき、キイラの手首をなにものかが掴んだ。華奢な手が。はっとして振り返る。カタリアはキイラの手をすぐに放すと、持っていた林檎酒の杯を欄干に載せ、宥めるようにキイラの肩に触れようとした。
ぱっと憎悪の欠片が燃え上がり、キイラは冷静さを取り戻した。自らの足で立ち、彼女に向き直る。キイラはほほえむことさえできた。
「どうしてわたしに優しくするの」
嘘のように落ち着いたキイラの声にカタリアは驚き、ひどく動揺したようだった。戸惑いに揺れる彼女の瞳の中に、キイラは冷たい微笑を浮かべた自分自身を発見した。
「本当にわたしと友だちになろうと思っているわけ? なれると思っている? フタル人のあなたが、イベル人のわたしと?」
カタリアは消え入りそうな声で言った。
「あのイベル人はあたしに優しかった。レイガンは……」
「馬鹿。レイガンはあなたたちの仲間をたくさん殺したのよ」
キイラは声を上げて笑った。自分がなにかに操られているように感じた。
「優秀な魔術師だった。でもあなたたちに加担したから死ぬ」
カタリアは唇を噛んで黙りこくった。その様子に、キイラは新しい怒りが沸き上がるのを知った。
「あなたみたいなの、むかつくわ」
言葉が零れ落ちた。
「わたしは怒ってません、みたいな顔してる」
わたしはこんなに怒っているのに。憎んでいるのに。
「野蛮なフタル人のくせに」
キイラは少女の胸倉を掴みあげた。レイガンよりずっと軽く、脆く、簡単に壊せてしまえそうだった。
「わたしは無害で、弱くて、なにも憎んでない、みたいな顔をして」
どうしてフタル人が。
「マーサを殺した、シグを殺した、ユトーを殺した、ユタの弟、ジストの妹、何もかもを奪ったフタル人が」
「イベル人だってあたしの両親を殺した!」
カタリアが叫んだ。キイラは驚愕し、よろめくように後ずさった。カタリアが言い返したからではない。彼女の叫びを満たしていたものが、憎しみ以外のなにかであったからだった。
「みんなイベル人が悪いって言うわ」
カタリアが、大きく張り上げることに慣れていない、震える声音で言った。
「赤い血が流れてない、残忍な人殺しだって言う。どうして……」
キイラは絶句していた。
「なんで怒りで覆ってしまうの」
カタリアの手が意外なほどの力強さで、キイラの両肩に触れた。
「それが強いってことなの。同じなのに。本当は、きみは傷ついて悲しんでいるのに。あたしたちと同じように」
手を振りほどくこともできずに、キイラは瞬きをせずカタリアの顔を見つめた。
「きみはあたしと……同じ女の子に見える」
そのとき、キイラは初めて、フタル人でもイベル人でもない一人の少女として彼女を見た。カタリアの訴えかけるような黒い瞳を、震える小さな唇を、繊細そうな顔立ちを。それはキイラ自身の姿であり、これまでキイラの出会ってきた全ての弱いひとびとの姿でもあった。
カタリアの頰が濡れていることに気づき、キイラは掠れた声で言った。
「馬鹿じゃないの。どうして泣くのよ」
「きみは泣かないでしょ」
カタリアは涙を流しながら言った。
「だから代わりに泣いてんの」
キイラは手を伸ばし、指でカタリアの頰を拭った。生暖かく、濡れた不快な感触があった。不快ではあったが、キイラはあとからあとから流れ落ちてくる涙を拭ってやるのを止めることができなかった。カタリアは首を振り、キイラの手を握った。カタリアの手はキイラの手よりも小さかったが、やはりキイラよりもずっと力強かった。キイラは手を振りほどくと、欄干の上に置かれたままだった杯の片方を取り上げた。カタリアがそれを目で追う。キイラは彼女から視線を逸らし、欄干に凭れかかった。
口に含んだ林檎酒はすっかり冷めていた。
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