第27話

「かつてこのイベルタの地はフタル人のものだった。魔術もまじないも呪いもなく、ただ天と地の理だけがこの地を律した。フタルの民は自らの手でモルフを育て、痩せた土地を耕し、ともに助け合いながら慎ましく暮らしていた。おまえの愛したポウスリーの人々と同じように。あるとき、彼らの前に変わった力を持つものたちが現れた。彼らは『導く者シュナ・リベルタ』と名乗った」

 イスリオの言葉はあくまで淡々として、聞くものの感情を徒らに掻き立てるような調子はなかった。黴の浮いた古い書物の頁をめくるように、掠れたインクの文字を辿るように、彼は続けた。

「彼らが何者だったのか、どこから来たのかは分からない。記録にも残っていない。おそらく、彼ら自身にも説明することはできなかっただろう。シュナ・リベルタはいくつかの言葉を使って自由自在に炎を生み出し、風を操り、海を呼ぶことができた。はじめ、フタルの民は彼らを歓迎した。彼らが齎す知識はどれも非常にすぐれており、操る術はまさに祝福された奇跡のわざだったからだ。神秘に満ちた森は開墾され、未開のくらやみには叡智の光がもたらされた。人の手で幾つもの街が作られ、新しい国は大いに発展した。シュナ・リベルタは奇跡のわざを使うだけでなく、人々を統率することに長けていた。彼らは活動的で、ときに攻撃的な側面を持っていた。それが、この国をより強く、大きくすることに役立った」

 不意に、部屋の灯りが小さくなったように感じられた。小さな窓からかろうじて射し込んでいた陽射しを突然に厚い雲が遮ったために、そう感じられただけだった。

「当然の帰結として、次第にフタル人らはシュナ・リベルタに依存するようになっていった。ここから、この国は歪みはじめた。シュナ・リベルタは数を増やし、その名を変え、『使役する者ユナ・イベルタ』となった。その一方で、奇跡のわざを使えぬフタルの民は『見捨てられた者サラ・フタール』と呼ばれ、蔑まれた。生まれながらにしてイベルタの神に背いているために見捨てられた、罪深い民であると……」

「待って、それはおかしいわ」

 キイラは王の言葉を遮った。

「イベルタにおいてルーメス教が国教となったのはイベルタ暦六二六年の話よ。それまでこの国で信仰されていたのは正アルスル教のはず。長い間、この国の魔術はごく基本的なまじないの段階で留まっていた。優れた魔術を使うルーメス教徒たちは寧ろ迫害されていたんじゃない」

「イベルタ暦? なにを言っている。そんな最近の話はしていない」

 イスリオは笑った。

「キイラ、神とはなんだ?」

「ルースよ」

 キイラは挑戦的に答えた。

「この世のすべてを貫いて支配するただひとつの理。父にして母。選択者であり、私たちイベルの民に力と恵みを与える」

「それはある時点のある人々が勝手に定義したものだ」

 王は口元に笑いの余韻を残したまま目を瞑り、その鋭い金の双眸を隠した。

「今お前の言った答えの中で、正しいと言えるのは一つだけだ。神とはただひとつの理だ。われわれはいつも、それを自らに都合のいいように名付ける」

「どういうこと?」

「神などいない」

「冒瀆だわ!」

 首の後ろの毛を逆立ててキイラは怒鳴った。

「あなたたちの神はどうなるのよ。それもいないっていうの」

「続きを話そう」

 キイラの怒りを意に介さず、イスリオは再び話に戻った。

「ユナ・イベルタはフタル人らを虐げ、力と財産とを奪い、多くを殺した。彼らにとって、フタル人は家畜も同然だった。フタルの民は悲嘆に暮れ、絶望にまなこを曇らせながらも、ひたむきに神へと祈りを捧げた。そのときだった。フタル人たちの前に漆黒に輝く石があらわれたのは。〈浄化の石〉だ。われわれは後の時代にこれをそう呼んでいる。そのうつくしい石は、黒き光を以てユナ・イベルタを次々に刺し貫き、殺した。二晩のうちに、何千というユナ・イベルタが死んだ。街は死臭に満ち、彼らの流した血は毒の河を作った。フタル人たちは死の街を捨て、森へと逃げ延びた。それを追うものはなかった。しかし、〈浄化の石〉を持ち去った愚か者がいた。裏切り者のフタル人の女だ。彼女は一人の優れたユナ・イベルタの男を愛していた。ふたりは力を合わせ、傲慢にも石を壊そうとした。しかし、神の持ちものである〈浄化の石〉を人の手によって壊すことはできなかった。男は、まだ母親の肚の中に眠る我が子に〈印〉を刻み、それを媒介として傲慢にも石と子とを結びつけようとした。石の力を〈印〉をもつ選ばれたものによってのみ扱えるように、理を書き換えたのだ。その代償としてふたりは死んだが、〈印〉の血は絶えることなく、ひっそりと受け継がれた。〈浄化の石〉とともに」

 男の指先が、凍りついたキイラへと向けられた。

「分かるだろう。キイラ。私たちの理が、そしてお前たちの理が、答えとして遣わした聖女だ。お前こそが」

「馬鹿げてる」

 キイラはもう一度呟いた。自分の呼吸がひどく浅くなっているのを他人事のように観察した。

「ありえないわ」

「ありえない?」

 王は繰り返した。

「心当たりがあるはずだ。お前はその奇妙な石を目覚めさせ、イベル人を殺すためにその『兵器』を使おうとした。そして、驚くべき力を発揮した」

「イベル人を殺そうとしたわけじゃない」

 キイラは胸元の指環を握り締めた。守るように。

「その赤い髪と金の瞳は聖女としてのひとつの形質にすぎない。〈印〉は精神に刻まれている。そして、温かい血液の循環する生きた鎖によってその石と繋がれている。キイラ、私はあの夜お前を見た。あのとき、私は既に確信していた」

 男は立ち上がった。キイラは一歩も動くことができず、視線を逸らすこともできなかった。記憶の中の黄金の光が、闇に閃いた。

 血飛沫と炎。怒号。絶叫。

 木々を透かして交錯した視線。

 

「鍵はなんだ。石を目覚めさせるための鍵は。怒り……そして憎しみ」

「そのためにおまえはわたしから全てを奪った」

「そうだ」

 イスリオは無表情のまま認めた。キイラに歩み寄り、至近距離から彼女の顔を検分した。キイラの髪に指を差し入れ、頭蓋骨の形を確かめるように、襟足のあたりを撫ぜる。男は溜息交じりに呟いた。

「だが見失ってしまった」

 彼はキイラの守る指環に目を留めた。視線で彼女の手のひらを透かし、その中身を調べてやろうとでもいうように、男は目を細めた。そして、指環へと手を伸ばしながら、一言言った。

「なにかいるな」

 キイラはカドを通して全身に鳥肌が立つような恐怖と危機感を覚え、飛び退った。このとき、初めてキイラの体は動いた。イスリオは気にしたふうもなく、空を切った手を振った。

「お前は裏切り者の末裔でもあるが、フタル人を弾圧から救い解き放つ聖女であり、かつてのユナ・イベルタ……イベル人を滅ぼすためのただひとつの剣だ」

 キイラは震える声で言った。

「わたしはイベル人よ! フタル人を憎んでいる。絶対にそんなことはしない」

「思い上がるな」

 王が凍てつく刃のような調子で言った。

「おまえが受け入れようと受け入れまいと、望もうと望むまいと関係がない。しかし、まだだ。おまえとその石はまだ、本当の意味で目覚めてはいないのだ」

 彼の声は陶酔に満ちて、甘く囁いた。その響きに、キイラは自分の心の一部が共鳴するのを感じた。憎悪。この男は憎悪に満ちている。

「磨き上げなくては。イベル人の血を以て、この地を再び洗い清めるために。われらがフタルの手に栄光を取り戻すために」

 キイラは一歩後ずさった。操られるように右手を男の胸に向け、そこを貫くよう周囲の光へと命じた。鋭い閃光の矢が迸ったが、イスリオは当然のように左手を翳し、くらやみを以てそれをかき消した。キイラは愕然とした。二人の兵士が駆け込んできて、キイラの肩や腕を掴み、部屋の外へと連れ出した。閉じられた扉に向けて、キイラは呆然と呟いた。

「ユナ・イベルタ」

 キイラの瞼の裏に、肌の上に、まだ男の魔術の残滓が纏わり付いていた。

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