第26話
もう三日もすると、あっさりとキイラは自由の身となった。自由の身とはいえ、砦の外に出ることは当然ながら許されなかったが、その寛容さにはキイラ自身拍子抜けした。鍵のかかった葉長石の腕輪を嵌められてさえいなければ、ここに客人として招かれたのだと説明されても納得してしまいそうなほどだった。
フタル人らにはさぞ敵意の篭った視線を投げつけられることだろうと思ったが、彼らの態度に表出するのは憎悪よりも寧ろ「畏れ」であり、「好奇」であり、「当惑」であった。彼らは憎むべきイベル人であるはずのキイラに対する態度を決めかねているようでもあった。黒髪ばかりのフタル人らの中で、キイラの赤毛はひどく目立つ。好意的であれ攻撃的であれ、キイラに気安く話しかけてくるのは今のところカタリアだけだった。
キイラはカタリアとお揃いの、赤や緑の縫い取りのあるトゥニカを着せられていた。独特の図案はローデン織にもチルン織にもないもので、美しく精緻ではあったが、それを見下ろすたびにキイラは言いようのない屈辱を覚えた。
「あたしのおばあちゃんが縫ったの」とカタリアは誇らしげに言った。カタリアの口調は随分と幼い。身長はキイラと同じくらいだが、やはりいくつか歳下なのかもしれなかった。あるいは、友人がいなかったという環境が彼女をそうさせたのかもしれない。
「あたしも刺繍をやるけど、全然敵わないんだよ。これだけの大きさだと、絶対に歪んじゃう」
キイラは彼女の肌の上の楔形の焼印を見つめながら、そう、と短く相槌を打った。
〈冬の砦〉は南東部の森の中に注意深く隠されている。具体的な位置こそ特定できないが、風に乗って届く青ブナの匂いからそれが分かった。東の塔に登って窓の向こうに目を凝らすと、遠くに霞む灰の山脈の、竜の尾にも似た終わりのほうがかすかに見えるのだった。どこへ行くにもカタリアがついてくるのは鬱陶しかったが、こうして比較的自由に動き回れることはキイラにとって喜ばしいことだった。建物の構造の細部に至るまで、キイラは意識して目に焼き付けるようにした。帰ったときに役に立つだろうと思ったからだ。また、キイラはカタリアに砦のことやフタル人のことについてよく質問した。その代わりにカタリアはイベル人のことについて知りたがったので、二人は自分たちのことをひとつずつ教えあった。教える内容は慎重に選んだが、おそらくカタリアもそうしていただろう。
「どう思う」
カタリアが用事を済ませに行った隙に、カドが尋ねた。
「どうもなにも」
キイラは肩を聳やかした。キイラとカドとはこの砦を覆うかすかな魔術の気配を感じ取っていた。その魔術がこの砦から人を遠ざけ、見つかりにくくしているであろうことも、キイラには分かった。レイガンが細工していったはずはない。彼の魔術の匂いとは違う。レイガンの魔術はこんな埃っぽく、黴臭く、湿った魔術ではない。レイガンがキイラに教えた魔術は、もっと……。
キイラは首を振った。
「巧妙で、実にさりげない魔術だわ。レイガンの他にも魔術師の協力者がいる? 考えたくない」
「可能性はないわけではない」
「自分たちの言う『邪な術』に命を守られていることを、フタル人どもは知っているのかしら」
キイラは口角を歪めた。
「おれの意見では、彼らのほとんどは気づいていないだろう」
カドが言葉を選びながら、考え考え言った。
「あるいは、そもそも一部にしか知らされていないのだ。フタル人たちは一枚岩ではないようであるし」
第一次掃討作戦で破壊されたのは〈春の砦〉。ここは抵抗者たちの中でも攻撃的なグループが支配していて、イスリオも持て余していたようだとカドは指摘する。
「考えていたんだが、あれは教会を利用したある種の粛清だったのではないか。幾ら〈王〉に統率力があると言っても、フタル軍はそもそもが抵抗者たちの寄せ集めにすぎない。よりよい軍隊のために、扱いにくい駒は処分する」
「そんな余裕がフタル人にあると思う? 戦場では年端もいかない子どもまで弓を引かされると聞いたわ」
「それだけ重要な、戦局を左右しうる秘密を隠し持っているのかもしれない」
キイラは一時口を噤んだ。そして、尋ねた。
「フタル人たちは本当の本当に、本気でこの国とやりあうつもりがあるということ?」
「少なくとも、〈黄金の瞳の男〉はそのつもりであるように思われる」
「今〈夏の砦〉はもぬけの殻だと言ったわね。あのみすぼらしい廃墟跡、〈春の砦〉は崩れ落ちた。残すはここと、〈秋の砦〉だけ。どれだけの規模かは分からないけど、少なくともここは一軍と二軍が一度に攻めよせたら三日もかからず落ちるわ」
カドは答えなかった。そうしている間にカタリアが帰ってきて、話は終わった。彼女の顔は緊張に満ちていた。
「来て」
誰かに聞かれることを恐れるような小声で、カタリアは言った。
「あたしたちの王が、お会いになる。急いで」
流石に布扉でこそなかったものの、〈王〉の部屋は想像以上に質素だった。扉の前で葉長石の腕輪を外され、キイラは困惑した。
「王の命令です」とキイラを連れてきた兵隊が丁寧な口調で言った。キイラが問い返す前に、彼は扉をノックしてしまった。敬意など払うものか、唾でも吐きかけてやろうと決意していたのに、思わず居住まいを正してしまう。
果たして、〈黄金の瞳の男〉はそこに座していた。彼が腰掛けるのは玉座ではなく、石づくりの床には絨毯さえ敷かれていなかったが、なにかがキイラの肌を震わせた。それは畏怖であったかもしれなかった。彼は手振りで兵を下がらせ、部屋にはキイラと男の二人きりになった。
男は机の上で指を組み合わせると、猛禽類を思わせる金の瞳で真正面からキイラを見つめた。キイラは捕食される鼠の気分になり、両の拳を固く握り締めた。今は魔術が使える。王といえど、なんの力も持たないただのフタル人の男だ。いつでも、この男の心臓を握り潰すことができるはずなのだ。キイラは勇気を振り絞り、沈黙を破った。
「わたしがあなたを殺すとは思わないの」
「思わない」
イスリオは即答した。目を逸らさずに。キイラはその瞳にどこか奇妙な引っかかりを覚え、混乱した。ひどく既視感があった。リーヴズでも、カドの「記録」でもなく、もっとずっと前に、確かにわたしはこの瞳を見たことがある。
「本当に存在していたとは」
男は低く歌うように言った。その響きは深く、どこか幽かに甘く、聴くものの体の中で反響するような奇妙な声だった。
「こうして目の前にした今も未だに信じられない」
「無理やり捕まえておいて?」
キイラの言葉を無視し、イスリオは薄い唇をほとんど動かさずに言った。
「お前の存在に気づいてから、私は随分と骨を折った」
「なんのためにわたしを追っていたのよ。フタル人のあなたが、イベル人のわたしを」
「それを説明するには時間がかかる」
「でも、あなたは説明する。そのためにわたしをここへ呼んだ」
「そうだ、キイラ」
男は口角を歪め、笑みを作った。
「まずはここから話さなくてはならない。かつてこの地はフタル人のものだった」
「馬鹿げてるわ」
キイラはせせら笑った。
「馬鹿げている? どうして」
年端もいかぬ小娘に嘲笑われたというのに、王は苛立ちの欠片も見せず、ただ首を傾げた。
「そんなくだらない昔語りを聞かされるためにここへ連れてこられたの?」
「だが、お前には聞く以外の選択肢がない」
キイラは胸元に手をやり、黙りこくった。王は再び薄く笑った。
「昔話は聞きたくないか。これはフタルの民に伝わる古の伝承だ。幾つもの世代を経て脈々と語り継がれるうち、いつしかその正しい形は失われてしまった。だが、これこそが話されるべきことだと、お前には分かるだろう。キイラ、話そう。お前が知るべきことを」
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