第4章 繋ぐ手、断ち切る手

第25話

 キイラは暗闇の中にいた。否、完全な暗闇ではない。天井近くに抜かれた灯り取りから、月の光が控えめに差し込んでいる。その灯り取りの窓は子どもの頭ほどに小さく、例えそこまで登ることができたとしても潜り抜けることはできないだろうと思われた。もっとも実際に試してみたわけではないし、今のところ試すつもりもなかった。

 部屋には簡素な寝台と机、そして椅子が一つずつあったが、椅子は脚の一本がへし折れ、傾いている。キイラが扉に叩きつけて折ったのだ。もし今の彼女に魔術が使えたならば、そんなことはしなかっただろう。キイラは知りうる限りの呪文を唱え、いつも懐に入れている白亜を擦り付けてペンタクルを描いたが、そのすべては意味をなさなかった。そればかりではない。ここに来てからカドは一言も口をきかない。その理由はすぐに知れた。この小部屋の壁には、魔術を吸収する希少な葉長石がびっしりと象嵌されているのだった。鉄格子や鎖こそなかったが、ここはまさしく魔術師のための独房だった。

 キイラは床の上で膝を抱えたまま、爪を噛んだ。

 すべてはあの裏切り者のせいだ。あの男は、敬虔なルーメスの信徒のような顔をして、内心では神に唾し、わたしたちを嘲笑っていたのだ。武装したフタル人どもをああして手引きし、ドルムをさえ手にかけようとした。自分自身の弟子でさえ。きっと、あの男は拷問に掛けられて無様に死ぬだろう。その前にこの手で殺してやりたかった。行き場のない激情と魔力の火花が暴走して弾け、またこめかみのあたりを裂いた。生暖かい血の雫がゆっくりと頬を伝い、貼りついた赤毛を濡らす。

 もう三日もこうしていた。

 ノックの音が響き、錠を外す音がして、扉が開かれた。昨日から、兵士の代わりに少女がここにやってくる。黒い髪をしたフタル人の、キイラと同じくらいか、あるいは一つ二つ下くらいの歳のころの少女だった。彼女はスープとパンとを運んでくる。彼女はなるべくキイラに近づかないよう用心しながら、部屋の隅に皿を置いた。そして、小声で言った。

「なにか食べないと、死んじゃうよ」

 キイラは無視した。少女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて意を決したように再び皿を持ち上げ、何歩か歩み寄った。そして、その皿をキイラの前に置き直し、挑戦的に問いかけた。

「死ぬつもりなの?」

 キイラが睨みつけると、少女の顔に一瞬怯えの色が走った。しかし、彼女は後退らなかった。それがキイラを余計に苛立たせた。

「殺すわよ」

 キイラは掠れた声で唸った。久々に声を発したので、喉が痛んだ。

「どうやって?」

 少女は小馬鹿にしたように言ったが、キイラにはそれが彼女の精一杯の虚勢であると分かった。キイラは乱暴に皿を掴むと、スープをひっくり返した。ぶちまけられた汁が少女の履き物を濡らし、床に広がった。少女はしばらくの間立ち尽くしていたが、やがて身をかがめ、零れた汁を手巾で拭った。その間、キイラはやはり膝を抱えたままそのようすを眺めていた。立ち上がると、少女は怒ったように「もう、知らないから」と言って部屋を後にした。


 次の日も、少女はスープを運んできた。今度は二人ぶんだった。

「あたし、カタリアって言うんだ」

 少女は自分のぶんのスープを啜りながら、キイラに話しかけた。昨日のことは忘れたかのようだった。

「きみはキイラでしょ?」

 キイラは答えずに、濁った目で薄汚れた床の木目を見つめていた。

「ねえ、なんとか言いなよ。怒ってるの? そりゃあ、突然連れてこられて、気分のいいものじゃないと思うけどさ」

 返事が返ってこないので、カタリアは諦めたように溜息を吐いた。

「もう分かってるだろうけど、あたしたち、きみを殺すつもりはないし、傷つけるつもりもないよ。きみはイスリオの客だもの」

「それがフタルの王?」

 キイラが突然口をきいたので、カタリアは戸惑ったようだった。

「そう、そうだよ。王と呼ぶ人もいる」

「あの、〈金の瞳の男〉? その男がわたしを喚んだ……」

「光栄なことだよ」

 胸中でさまざまな疑念、苛立ち、当惑が錯綜し、キイラは再び黙りこくった。カタリアは何を勘違いしたのか、顔を綻ばせると、とっておきの秘密を打ち明けるように言った。

「実を言うと、きみが来るの、ちょっと楽しみにしてたの」

 何を言いだすのだろうと、キイラはこの少女を冷ややかに見つめたが、カタリアは気づかずに続けた。

「あたし、あんまり友だちがいないんだ。純粋なフタル人じゃないから。少しだけ、キリカの血が混じってる。わかる?」

 彼女の肌はフタル人の形質を反映して抜けるように白く、キリカの女を思わせるあの淡い銅色はどこにも見当たらなかった。しかし、そう言われてみれば、彼女の顔立ちにはどこかこの地には異質な、陽射しの照りつける地域に特有の乾いた匂いが感ぜられた。それは彼女のあどけない風貌の中にあって一種謎めいた魅力でもあった。

 キイラは、この少女が自分のもとに毎日食事を運んでくる役割を担っている理由に思い至った。同時に、感情の読みにくいカタリアの黒い瞳の中にかすかなユタの面影を発見し、キイラは胸が詰まるような苦しさを覚えた。カタリアは微笑んだ。

「イベル人のほとんどは悪いやつだけど、全員がそうってわけじゃないって知ってる。前にここへ来た魔術師、イベル人だけどいい人だったよ。この国はイベル人のためだけのものじゃないって言ってくれた。あの、レイガンとかいう……」

「黙れ!」

 キイラは反射的に立ち上がり、大音声で怒鳴った。激情の炎が全身を駆け巡っていた。カタリアが怯えたようにキイラを見上げた。

「あの男もフタル人も、みんな死ねばいいのよ」

 キイラは震えそうになる声を冷静に保ち、言い放った。

「二度と来ないで。次こそ殺すわ」

 カタリアは長いことキイラの顔を見つめたまま、凍りついたように身を強張らせていたが、やがて二人ぶんの皿——空になった皿と、まったく手がつけられないまま冷え切った皿——を持ち上げ、部屋を出て行った。小さな背中には理不尽な仕打ちへの困惑と、悲しみとがあった。キイラは彼女が閉めた扉の下の、床すれすれに開いた細い隙間を眺め、その夜色々なことを考えた。今は沈黙している指輪を人差し指で撫ぜながら。カドが眠っているわけではないことを知っていた。


 朝が来て、カタリアが扉を開け、顔を覗かせた。今日の彼女の瞳には、野生動物が生まれつき備えているような警戒の色があった。キイラは口を開こうとして、少しの間躊躇った。しかし、結局は小さな声で「昨日はごめんなさい」と言った。そして、かすかに微笑みかけた。カタリアは目を丸くし、驚いたように硬直していたが、手に持ったものが冷めつつあることに気がつくと慌ててキイラのもとへ歩み寄った。そうしてキイラの様子を伺うフタル人の少女は、自分よりもずっと無垢で無邪気な存在に見えた。キイラは穏やかに話しかけた。

「突然連れてこられて、すごく怒ってたし、不安だったの。昨日はひどいことを言ったけれど、わたしのこと、許してくれるかしら」

 カタリアは頷き、ぎこちなく微笑みかえす。安堵の微笑みに見えた。そのあとで、キイラはルースに、少女はフタルの神へと祈りを捧げ、粗末な食事を取り始めた。久々に口にした食べものは、胃の腑に沁みるような微かな痛みを与えた。

「ここはローデンロット?」

 パンを千切りながら、キイラは尋ねた。カタリアは首を振り、答えた。

「新しい〈夏の砦〉はもう使えない。男たちが大勢帰ってきたわ。捨てるしかなかったの。拷問に掛けられたら、あの魔術師が場所を漏らすかもしれないから」

 レイガンのことだ。

「ここはあたしたちの一番古い砦。〈冬の砦〉」

「どこにあるの」

 カタリアが困ったような顔をした。

「それは言っちゃだめって言われてるの。だから、まだ言えないよ」

 そう、とキイラは気にしたふうもなく相槌を打った。

 フタル人らは明らかに、キイラを殺すつもりがない。〈黄金の瞳の男〉、フタルの王、イスリオとやらの目的は分からないが、キイラは彼にとって利用価値のある、掛け替えのない存在であることは間違いない。大人しくしていれば、いずれ彼と顔を合わせる機会があるとキイラは確信していた。この部屋さえ出られれば、いくらでも身の振りようがある。まずは、自分自身が対話可能な状態であると知らしめることだ。

 キイラは、カタリアへともう一度控えめに笑いかけた。

「カタリア、あとで、お湯をくれない? 体を拭きたくて」

「すぐに持ってきてあげる。それから、着替えも」

 これはルースがわたしに与えた、絶好の機会だ。わたしは祝福されている。もう少しこの砦のことを、そしてフタル人たちのことを知らなくてはならないとキイラは思った。殺すために。そのために、この少女と友だちにならなくては。

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