第24話
「本当に行くのか?」
カドが不機嫌に言った。
「カド、なにをへそ曲げてるのよ」
「おれにへそはない」
キイラはそっと扉を開け、外ののようすを伺った。廊下は無人だったが、それでも暗闇の中にどこか祭りのあとの、興奮の余韻が蟠っているように感ぜられた。キイラは深呼吸をすると、猫のようにしなやかに部屋を抜け出した。
少し眠ってから向かうつもりだったが、結局は一睡もできなかった。足音を忍ばせ、小走りに進みながら、キイラはレイガンの支配から逃れるために部屋を出たあの夜のことを思い出した。あのときとは心持ちが違った。あれからたった一月ほどしか経っていないというのに。
今のキイラをあの時点のキイラが見たなら、なんの言い訳も許さず自分自身を絞め殺していたであろうと思われた。しかし、今のキイラは普通ではなかった。いいや、普通じゃないか、と彼女を知らない人々は言うかもしれなかった。十六の少女なら当然だと。だが彼女が普通の十六の少女として在ることそれ自体が、あとから考えてみれば普通ではなかったと言える。この夜のことをのちのキイラは何度も振り返っては、胸を刺すような痛みとともに懐かしみ、その度ごとに——これでよかったのか、いいや、これはそうあるべき出来事だったのだ、こうでなくてはならなかったのだと——追想することになる。
「祭りの最後の夜は部屋の外に出てはいけないという話ではなかったのか」
キイラの胸元で揺れながら、カドが詰問した。
「古いしきたりよ」
「だが、みんな守っている。部屋を出てから誰にも出会っていないぞ。ルースの怒りを買うと思っているのだな」
「寛大なルースはこんなことでお怒りにならないわ」
適当に答えるキイラに、呆れたような声音が続く。
「だいたい、なぜこんな時間に会わねばならないのだ」
「言ったでしょ。二人で……話したいんだって」
「答えになっていない。昼間に二人で話せばよいだろう」
カド、ぶつぶつ呟く。
「そもそもどうして二人きりでなくてはならない」
「あんた、前にも言ったけどもう少し人間の心の機微について勉強したほうがいいわ」
「人間の心の機微?」
「だから、二人で……」
そこでキイラははっと思い至り、思わず立ち止まった。げんなりして胸元を見下ろす。二人じゃない。
「わたし、どうしてあんたを置いてこなかったんだろう」
「おれを人に数えるのか?」
「ああ、もう、今から戻りたくないわ。黙ってて。 見ないで。聞かないで。眠ってて」
「おれはおれの意思では眠れない」
「今この場で置き去りにされるのとどっちがいい?」
「不思議だ。たった今猛烈に眠くなってきた」
「いい感じね」
指先まで温かく、まだ酒精が残っているような感じがした。ドルムの微かに汗ばんだ指先、彼自身の匂いと混じりあって立ち上るかすかな香水薄荷の香気、血の気を乗せていた首のあたりのことをキイラは思い出した。ドルムはこういうことに慣れているのだと思っていた。或いは、慣れているのかもしれない。キイラには判別がつかなかった。ただ、根拠もなく思うのは、今まさにこの瞬間は彼と自分が同じ気持ちでいるはずだということだった。
それを確かめたかった。とにかく会って話したかった。
廻廊を一歩進むごとに足元が浮き上がるような錯覚。腹の底のあたりがそわそわして、一向に落ち着かなかった。待ちきれずに、走りながらランタンへと灯りを灯す。温度のない魔術の炎が乳白硝子の囲いの中でちらちらと、あたたかそうに燃え、キイラを先へと誘った。
キイラは誰にも姿を見られることなく、息急き切って「トラヴランド王の肩に触れるルース像」へと辿り着いた。辺りは闇に包まれていたが、まったく不気味だとは思わなかった。キイラは扉の前に立ち、閂に手を掛けた。
そのときだった。説明しがたい、奇妙な違和感を覚えたのは。キイラは外しかけていた閂から手を放して違和感の正体を探り、そちらへと視線を向けた。
倉庫へと続く、左奥の扉がごく薄く開いていた。小指一本分ほどの、ほんの僅かな隙間。よく観察してみれば、折り畳まれた布が仮締めの部分に挟まれていた。キイラはゆっくりと扉へ近づき、扉が音を立てて閉まってしまわないよう注意して支えながら、その布を引きずり出した。キイラは首を傾げた。過去に一度開けたきりの記憶ではひどく軋むはずの扉だったが、どう見ても蝶番には油が差されたばかりで、まったく不快な音はしなかった。好奇心が湧き上がった。いったい誰がこんなことをしたのだろう?
この扉の奥は地下へと続き、倉庫となって、あの地下洞の一部と繋がっている。日光も入らず夏でも室温の上がらない天然の貯蔵庫だ。こんな祭りの夜に、それもしきたりに背いて、誰かが貯蔵庫に忍び込んでいる!
神殿のこんな場所に盗人が入るわけもない。キイラはぴんと来た。ドルムだ。多分、蜂蜜酒の瓶でも失敬して、キイラとあの場所で一杯やるつもりなのだ。キイラは思わずほほえむと、ランタンの灯りを消し、扉の中へと身を滑り込ませた。驚かせてやろうと思ったのだ。
息を殺しながら、暗闇の中を慎重に進んでいくと、思った通り仄かな灯りが見えた。次いで、人の息遣い。
しかし、そちらに歩を進めるにつれ、キイラの心には言い知れぬ不安が湧き上がった。気配は一つではなかった。二つ、三つ、いや、もっと多くの。
それは押し殺した集団のざわめきだった。キイラは立ち止まり、手のひらで口を覆った。
棚の向こうから、囁くような話し声が耳に届いた。
「裏切ったのか」
感情を抑えた、冷ややかな声。すぐに低く潜めた声が続いた。
「違う! ここに来るはずはなかった。なぜ……」
「ならば殺せ」
「どうして……」
また別の掠れた声が呻くように言った。この声の主は深手を負っているらしく、姿が見えずとも呼吸の調子からそれが分かった。二つ目の声が浅い息をし、「殺す必要はない」と差し迫った声音で言った。
「殺さずとも……」
「われわれを出し抜こうとはするな」
キイラの知らない太い声。
「教えてくれ、どうしてあんたは……」
「時間をくれ。彼はまだ若い。説得できる」
「信用できない。これまでの全てを無駄にする気か」
「コルトナ」
声が苦しげな響きを帯びた。
「頼む、彼は……」
「お前は俺たちの同胞を何人殺した」
会話が止まり、沈黙が流れた。痛みをこらえる、喘ぐような荒い呼吸音だけが響いた。冷たい声が言った。
「殺せる。お前にはそれができる。ただ殺すんじゃない。未来のために殺すんだ」
壁に貼りついたまま、キイラは凍りついていた。知らない声の中に、二つだけひどく聞き覚えのある声があったからだった。
棚の向こうを見たくなかった。見たくない。見たら現実になってしまう。
キイラの願いを裏切るように、意思に反して彼女の足はじりじりと進んだ。痛みに乱れる声が熱を帯び、叫んだ。
「どうして裏切ったんだ。どうして!」
「証明しろ。裏切り者ではないと」
「殺せ! 早く」
「あの子のことはどうするんだ。なんて説明するんだ。キイラには!」
ドルムが絶叫した。
「レイガン!」
レイガンがびくりと肩を震わせた。それが切っ掛けになったのかもしれなかった。レイガンは振り向き、瞬きもせず此方を見つめているキイラに気づいた。彼の瞳が動揺と絶望に塗り潰された。
彼はフタル人たちに囲まれ、壁を背にしたドルムへとまさに指を突きつけているところだった。フタル人の一人が驚愕の声を上げた。
レイガンたちが混乱を来したこの一瞬を、ドルムは見逃さなかった。不意をついて、彼は手を掲げ、危険を知らせる鐘の音を発した。鐘の音は神殿全体へと響き渡り、顔面蒼白のレイガンがドルムに向けて鋭い閃光を放った。ドルムが悲鳴をあげて床へと転がる。薄暗闇の中でもなお鮮やかな血の紅が、キイラの瞳を貫いて彗星の炎に混じりあった。
続けてレイガンがキイラに指を向けようとした。十分だった。
キイラは獣のごとき素早さで床を蹴って自らの師へと掴みかかり、棚へと押しつけた。酒瓶の列が倒れ、落下しては次々と砕けた。靴を濡らす酒の飛沫。
「この、裏切り者」
キイラは彼の胸倉を掴みながら、彼の目と鼻の先に顔を近づけ、激しく詰った。
「裏切り者! 裏切り者!」
後頭部を棚へと叩きつけられたレイガンが苦痛の呻きを上げた。恐慌を来してがなる周りのフタル人の姿は見えていなかった。嵐のような猛々しい激情に体の隅々まで支配され、呪文を口に出すことすら思い浮かばなかった。キイラは両手でレイガンの喉を掴んだ。爪が肌に食い込み、レイガンは荒々しくキイラを振り払った。よろめき、足が縺れ、キイラは倒れた。そうして、彼女はようやく魔術を使うことを思い出した。床に座り込んだまま、キイラはレイガンへと三本の指を突きつけた。
「キイラ、聞いてくれ」
両腕を下ろし、レイガンが掠れ声で呟いた。
「説明する。なにもかも」
「信じない」
キイラは目を見開いたまま言った。
「もう信じない」
無防備に両手を垂らしたレイガンを、キイラは殺そうとした。自分の手で殺さなくてはならないと思った。教会を裏切り、友人を、想い人を、弟子を裏切り、フタルに加担し、ドルムを殺そうとしたこの男を。
胸元で黄金色の闇が禍々しく耀いた。そうだ。カド。殺そう。
「殺すな」
叫び声が耳を貫き、キイラは硬直した。ドルムの声だった。
「殺すな、キイラ」
いつの間にか魔術兵たちが周囲を取り囲んでいた。彼らは呪文の帯をレイガンとフタル人どもに投げかけ、厳重に拘束した。かつての師は無抵抗のまま床へと引きずり倒された。キイラはふらふらと立ち上がり、慄くように一歩後ずさった。もう一歩、二歩と後退し、キイラは魔術師たちを押しのけながらその場から逃げ出した。
キイラを呼ぶドルムの必死な声を、彼女は背中で聞いた。
この世のすべてから裏切られたように感じた。なにもかもが虚構だったのだ。やすらぎも、歓びも、ここは自分のいていい場所なのだという安心感、心臓石に触れた手袋ごしの指先、感情の発露、祭りの高揚、なにもかもが偽物でしかなかった。初めから、そんなものは存在しなかったのだ。あの夜に、既に奪われていたのだから。
わたしはなにを勘違いしていたのだろう。わたしの持ち物はたったひとつ、この煮えたぎるような憎悪だけだったというのに。
神殿内は混乱を極めていた。雑踏の中キイラは誰かを突き飛ばし、また突き飛ばされながら、正面の礼拝堂を潜り抜け、矢のように門を飛び出した。誰も彼女を止めることはできなかった。キイラは目抜き通りを駆け、幾つもの角を折れ、トラヴィアの路地を一心不乱にひた走った。どこへ行こうとも考えはしなかった。できる限り遠くへ行きたかった。あるいは、力尽きて倒れてしまいたかったのかもしれなかった。
幾つ目か分からない横道に入り、再び左へと折れようとした瞬間、キイラの足が止まった。突然足が凍りついてしまったかのように。それはキイラ自身にとっても予期しない出来事だった。
暗闇の向こうから、男が歩いてくる。悠然と。照らす光もなく、ただ不吉な長い影を引きずって。
男は恐ろしいほどに美しい、月の光を切り抜いたような黄金の双眸を細め、「ああ」と言った。愛しい相手へと語りかけるかのように、穏やかな声音で。
「とうとう相見えたな。キイラ。どれほどこのときを待ち焦がれただろう」
聞き覚えはなかった。ただ、ひどく、胸を刺すように懐かしい響きだった。
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