第23話

 大広間からは長机が全て運び出され、いつも配達人が喇叭を吹き鳴らしている一角には楽士たちが陣取っている。彼らもみな魔術師であるらしかった。天井からは魔術の炎を閉じ込めた硝子製の灯りがいくつも吊り下げられ、平素は薄暗いこの空間を幻想的に照らし出している。

 大広間を眺めわたしたキイラは、暫くの間茫然としてしまった。このトラヴィアの街にこんなに多くの魔術師が暮らしていたなんて。神殿つきの魔術師と一般の魔術師が入り混じり、思い思いの一張羅に身を包んで笑いさざめいていた。気取ってダンスを申し込むもの、再会の抱擁をするもの、踊りも音楽もそっちのけで議論に白熱するもの。

 ユタは光の加減で美しく透けるチルン織の、瞳の色に合わせた紅のコットに身を包んでいた。広間に入った瞬間男たちが何人か振り返り、彼女を凝視するのがキイラにも分かった。ユタは一貫して笑顔ではあったが、頰のあたりには微かな緊張が見られた。彼女の隣で所在なさげに立ち尽くすキイラの衣装は、清楚な柔らかい白のローデン織で、裾と襟ぐりに金の糸で緻密な縫取りが施してあるもの。ユタが生地を選んで仕立てさせたもので、彼女はとても似合っていると言ってくれたが、キイラにはとてもそうは思えなかった。ユタに比べキイラの体躯は瘦せぎすで、女性らしい丸みに乏しく、袖から伸びる腕など未だ少年のそれのようだった。

 キイラが黙って爪先を見下ろしていると、若い男の魔術師が一人歩み寄り、ユタへと話しかけた。

「こういった場所であなたの姿を見るのは珍しい」

「私も気が向くことはあるわ、コウロウ」

 ユタは笑顔でそつなく答えた。コウロウは胸の羽根飾りを抜き取る代わりに手の中へ美しい氷の花を一輪咲かせると、ユタに一曲申し込んだ。ユタがどうするつもりなのかキイラはじっと見守っていたが、彼女はすぐに首を振り、彼の自尊心を傷つけないよう丁重に断った。彼は頷き、二言三言ユタの専門分野について質問をすると、その場を離れ、別の輪の中に加わった。彼がユタのことを憎からず思っているのが、キイラにも分かった。

「どうして踊らないの」とキイラは尋ねた。ユタは黙ったまま困ったように微笑んだ。そして、「私はここで待っているから、楽しんできて」と言ったきり、蜂蜜酒を飲んでいた。それからも何人かが意見を交換するためにユタの元を訪れ、雑談に興じたが、彼女が踊りの誘いに応じることは一度もなかった。

 キイラもついでのように誘われることがあったが、結局断ってしまった。上手く踊れる自信がなかったし、ユタをその場に残していくのもなんだか嫌だったからだ。壁際に貼り付いて、ユタとお喋りしながら色とりどりの魔術師たちを眺めるのはけっして退屈ではなかった。キイラは人の波を見つめながらリツを齧り、砂糖入りの葡萄酒をちびちびと飲んだ。

 自分が誰を探しているのか、気づいていないわけではない。ところが、目を凝らしても人混みの中に見知った青年の姿を見つけることはできなかった。彼の容姿は遠くからでもよく目立つはずなのに。今夜は来ないのかもしれない、とキイラは思った。そう考えると、なんとなくほっとするような感じがした。理由は自分でもよく分からないのだが。

 ぼんやりと音楽とざわめきに身を任せていると、ふと一人の男が目に止まった。美しい姿勢で相手の女性に一礼したその男の顔を見て、キイラは驚いた。

「待って。あれ、ジストフィルド? 別人みたい」

 キイラは思わず叫んだ。

 ジストフィルドはいつものだらしなく気怠げな風采はどこへやら、一張羅のローブに身を包み、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。普段は縺れててんでばらばらな方向に跳ねている髪にも櫛を通し、しっかりと撫でつけている。そうすると彼の秀でた額と意外にも整った眉が露わになり、あの重たげな二重瞼さえ魅力的に見えるのだった。ああ、とユタが笑った。

「キイラはああいうジストを見るのは初めてだっけ」

「本当に彼なの? 信じられない。いつもこうしてればいいのに」

「捻くれものだから、そんなこと言ったら意地でも直さないわよ」

 ユタが諦め半分というふうに言った。

「あなたは信じないかもしれないけど、師匠に師事してたころは普段からずっとこうだったの。ガウンなんかいつも皺一つなかったし、肩で風を切るみたいにして歩いてた」

「それが、どうしてあんなことになっちゃったの」

「昔、酒に酔ったレイガンが褒めたのよね。『お前に関して私が尊敬できるところは、そのきっちりしているところだけだ』って。それ以来ああなの。次の日から当てつけのように、レイガンが髪やら服やらを神経質なくらいに整えるようになって……二人が入れ替わったみたいで、初めはびっくりしたわ」

「それだけが理由? 本当に?」

「複雑なのよ」

 キイラは万感の思いを込めて呟いた。

「馬鹿みたい」

「同感」

 ユタの溜息が届いたのか、ジストフィルドがキイラたちに気づき、此方へやってきた。近づいてくるまで、実際のところ彼が本当にあのジストフィルドなのかキイラは疑っていたが、口を開くと確かにジストフィルドだった。

「お前らは踊らんのか?」

「別に」

 キイラは率直に述べた。

「見てるだけで十分だわ。お腹いっぱいって感じ」

「そりゃあ残念」

 ジストフィルドはぐるりと首を巡らせると、人集りの向こうに視線を向け、目を細めた。魔術師何人かに囲まれ、談笑するレイガンの姿があった。ジストフィルドとは対照的に、普段から整った身なりをしている彼はこういった場でもほとんど印象が変わらない。

「あいつ、そろそろ限界って感じだな」

「どこが。にこにこして機嫌良さそうじゃない」

「機嫌がいい? あれは機嫌が悪いのよ」とユタ。

「相当悪い」ジストフィルドも同意する。

「助けてやれよ。お前の大事な師匠だろ?」

 そう言いつつ、彼自身にその気はないらしい。ジストフィルドが腕組みをし、面白そうに顎で向こうを示す。連れてこいということらしい。キイラは肩を竦め、その場を離れると、ずんずんと師のもとへと人の波を掻き分けていった。

「レイガン、用事があるんだけど」

 単刀直入に話しかける。レイガンと話し込んでいた女魔術師がいやな顔をしたのには気づかない振りをした。

「用事?」

 レイガンは振り返ると、微笑みを崩さないままわざとらしく首を傾げてみせた。にこやかに「失礼」と一言断り、キイラとともにその場を離れる。人混みから抜け出すやいなや、レイガンが完璧な笑顔をぬぐい落とした。

「助かった。きみにしては気が利くな。いい加減くたくただったんでね。ダンスの相手はもううんざりだ」

 低い声で口早に呟く。

「それで、用事というのは? まさか私と踊りたいわけじゃあないだろう」

 軽口を叩いたレイガンに、キイラは大袈裟に吐く真似をしてみせた。

「そんなわけないでしょ。ユタが来てるけど、放っておいていいの?」

「ユタが? まさか。彼女は来ない」

 そう言いながら向けられたレイガンの視線がユタを捉えた。魔術師は薄く口を開いたまま、ぴたりと動きを止めた。キイラは鼻を鳴らすつもりでいたが、彼の反応に思わずにやついてしまった。

「ダンスはもううんざりなんだっけ?」

 キイラの言葉に、レイガンがはっと我に返った。気まずげに咳払いをし、ユタのほうへ歩き出す。彼が彼女になにか話しかける前に、ジストフィルドがキイラ同様にやにやしながらレイガンの側へ寄っていき、彼の行く手を阻むと、フィビュラに素早く自分の羽根飾りを挿し込んだ。レイガンが胸を見下ろし、ぎょっとしたような表情を浮かべた。

「おい、お前……」

 トランの陽気な音楽が始まる。羽根飾りを引き抜こうとした腕を乱暴に引かれ、レイガンは再び踊りの輪の中へと引きずり戻された。目を白黒させる上級魔術師の珍しい姿に、ユタとキイラは声を上げて笑った。戸惑ったような声がすぐに怒声へと変わり、周囲の魔術師らが振り向く。

「いつも通りだわ」

 ぽつりと呟いたユタの声が存外に優しかったので、キイラは思わずユタの横顔を眺めた。ユタはこちらを見なかった。

「ジストも、多分納得はしていないんだろうけどね。レイガンのことを信頼してるのよ。親友だから。何があっても、最後には納得いくって思ってる」

 そのとき、キイラは初めてレイガンを見るユタの眼差しに特別なものを感じた。それは羨望にも、嫉妬にも、淋しさにも、小さな少女の抱く憧憬のようにも見えた。キイラはふと、そのもやもやとした輪郭の複雑な感情が、自分の中にもなんらかの形で存在しているのではないかという思いに囚われた。それは一種の共感にも似ていた。キイラは自分の心の内部に手を伸ばし、慎重にそこを探った。ユタはキイラがじっと見つめているのに気づくと、はにかんだような笑みを零した。

「ジスト、ああ見えてダンスが上手いのよ。意外でしょ?」

「男同士でも踊っていいのね」

「もちろん」

 キイラは羽根飾りを差し出そうとしながら言った。

「ねえ、ユタ、わたしと踊ってよ。足を踏まないように気をつけるから」

 ユタは小さく噴き出し、キイラの手を押し留めると、羽根飾りを再び付け直させた。そして、空っぽのキイラの手を取った。ほんの一瞬乳香にも似た、清潔なやさしい匂いが漂った。音楽に交じって、レイガンがジストフィルドをののしる声とジストフィルドの笑い声が切れ切れに聞こえる。長いコットの裾が水の中を揺蕩う花のようにユタの足首のあたりに纏わりつき、揺れるのが美しかった。キイラは胸が苦しくなるような、嬉しいような、どこかすっとしたような、奇妙な気分に襲われた。

 明るい調べの一曲が終わり、キイラとユタは同じ年頃の少女同士のように笑いあった。

「ジース、いつか殺してやる」

「返り討ちにしてやろう」

 一仕事終えたという調子の二人が、戯れのように口論しながら寄ってくる。「返す」とレイガンが羽根飾りを突き返そうとすると、ジストフィルドが笑った。

「おいおい、やめてくれよ。流石に同じ相手と二回踊るつもりはないぜ」

 レイガンが眉間に深い皺を刻んだ。見ていたユタが、突然悪戯めいた顔になった。

「じゃあジスト、私ならどう?」

 ユタがジストフィルドに羽根飾りを差し出した。レイガンが信じられないという顔をして、二人を見比べた。ジストフィルドは一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに羽根飾りを受け取り、にやりとして答えた。

「喜んで」

「キイラ、残してごめんね」

「ううん、楽しんできて」

 ジストフィルドは去り際にレイガンへと近づき、「悪いな」と囁いて行った。レイガンが壁に頭をぶつけ、そのまま力なく寄りかかった。

「嫌いだ」

 いつになく子どもっぽい物言いに、キイラはまた笑った。

「どこが嫌い?」

 レイガンは沈黙した。そして面倒になったのか、一言答えた。

「全部」

 キイラはなんだか少し可哀想になって、「私と踊る?」と提案してみた。

「あー……」

「何悩んでんのさ」

 喧騒の中でもよく通る、聞き覚えのある声がキイラの耳朶を打った。キイラははっとして顔を上げた。ドルムだった。

 急いで来たのか、微かに息が弾んでいた。流れるような砂色の髪の一房を編んで、他の髪と一緒にゆるく束ねている。彼がいつもより上等なリボンを結んでいることにキイラは気づいた。ドルムはレイガンに向かって小首を傾げると、わざとらしく尋ねた。

「彼女、空いてる?」

 レイガンは溜息を吐き、キイラから距離を取り、歩き去った。

 キイラは何を言っていいのか分からなかったが、それは普段は饒舌なドルムも同じらしかった。出し抜けに、彼が懐に入れていた手を出した。手の中には、本来彼のローブの胸を飾るはずだった、美しい翠の羽根飾りが握られていた。羽根は彼の手に握られてややよれていた。彼はぎこちない仕草で、それをキイラへと差し出した。キイラはそれを受け取り、少し悩むと、自分自身の羽根飾りを引き抜き、同じようにドルムへと渡した。なんとなく、そうしたかった。ドルムはほほえむと、キイラに向かってかしこまって一礼し、手を差し出した。キイラはその手を取った。

 ユタの手とは違っていた。

 そうだった。

 初めて自己紹介をしたときに握りあったあのとき、地底湖の底の美しい光の中で触れた指先、リーヴズの町でキイラの手首を掴んだその手の力強さ、その手触り、そのすべてをキイラは思い出した。

 ドルムが不思議そうな顔でキイラを見つめた。その鳶色の瞳をじっと覗き込み、キイラは同じ顔をした自分自身を発見した。

 自分は彼にユトーを重ねているのかもしれないと思っていた。わたしはきっと、それをずっと確かめたかったのだ。

 喧騒の中に自分たちだけが切り取られたように感じた。曲が切り替わっても、ドルムはキイラの手を離さなかったし、キイラも同じだった。拍のゆったりしたカントウルの曲。不器用な足取りも、貧相な自分の体つきも気にならなかった。

 ドルムの肩越しに、向こうでレイガンとユタが澄ました顔で踊っているのが見えた。二人はとても自然だった。思わずほほえんでしまうくらいに。なんだ、とキイラは呟いた。ドルムが眉を寄せ、「どうかした?」と尋ねた。キイラは首を振った。どうして気づかなかったのだろう。キイラは曲の途中で突然動きを止めると、ドルムから一歩離れた。ドルムが首を傾げた。次第に彼の表情が曇り始めたので、キイラは思い切ってこう言った。

「今晩あなたの部屋に行ってもいい?」

 ドルムが目を瞬かせて答えあぐねているのを見て、キイラは慌てて付け足した。

「あなたが誰かと連絡を取るのを見たいわけじゃないんだけど」

「そうだろうね」

 分かっているんだか分かっていないんだか判断しかねる、曖昧な返事が戻ってきた。キイラは、背中のあたりが次第に汗ばんでくるのを感じた。

「その、変な意味でもなくて……確かめたいことがあるというか」

「そりゃあそうだ。そうだろうね」

 ドルムは再びそう返すと、少し考え、確認するように言った。

「つまり……静かなところでゆっくり話したいってことだろう?」

「そう。できれば、二人で」

「二人で」

 ドルムが繰り返した。そのとき、キイラはドルムの首のあたりが常よりうす赤くなっていることに初めて気づいた。ドルムは躊躇いながら答えた。

「きみがそう言ってくれなかったら僕が誘おうと思ってた。ただ、僕はてっきり……」

「てっきり?」

「いや、なんでもない。でも、僕の部屋は駄目だ」

「どうしてよ」

 キイラは思わずいつもの調子で声を上げた。ドルムは両の手のひらをキイラに向け、押しとどめた。小声で呟く。

「今夜はなんだか別人みたいに見えたけど、やっぱりいつものきみじゃないか」

「どういう意味?」

 噛みついたキイラの問いをさらりと受け流すと、ドルムは真面目ぶった顔をして言った。

「収穫祭の夜は部屋の外に出ちゃいけないのを知ってるだろう」

「ドルム、あなたがそんなに敬虔だとは思わなかったけど」

「違う。つまり、ほとんどの人は部屋に閉じこもってるってことだよ」

 ドルムが共犯者に向けるような、悪戯を企む子どものような顔で笑った。

「キイラ、あの場所で待ってるよ」

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